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【ショートショート】沼地へ

「沼地ー」
 わたしは叫んだ。
 沼地で沼地と叫んでみても、何かが出てくるわけではないのは知っている。それでも、わたしはその沼地を前に、沼地と叫ばずにはいられなかった。
 ここに居つくようになって、もうすぐ三ヶ月になる。もといた土地は、地元の寺社を中心とした結びつきが強く、同じ高校の誰もが家業を継ぐつもりでいた。そんな中で、自分のウェブサイトを持ち、デザイナーを志望しているわたしという存在は、異質であることを通り越して、怪異のように見えたらしい。
 両親は、小さな電気屋を営む善良な人間だった。週に二、三人しか訪れない客と、毎日のご用伺いのほかに仕事はなかったが、生きていくにはそれで十分だった。そして、生きていくだけの暮らしに、わたしは息が詰まる思いだった。
 高三の最初の面談で、デザイナーを養成する専門学校の名前を告げた。電車で二時間かかるが、わたしが自宅から通える唯一の選択肢だった。しかし、この話を聞いた時から、担任はわたしの道を潰しにかかってきた。両親にも連絡が行ったのか、それまで「あなたの人生なんだから好きにしなさい」と言っていたのが、ある時を境に、近所の人たちに店をたたむ話をし始めたのだ。おかげで、道行く人から「電気屋さんが無くなると困る」「どうして家を継がないの」となじられるようになった。担任は担任で、夏休み直前の進路面談の時に「電気屋を継ぐなら、この資格が必要だろう」と、整備士資格の願書を渡してきた。そこには既にわたしの名前が書かれていて、その瞬間にわたしの選択は決まった。
 この町から逃げる。
 卒業式まで待つ気はなかった。山の雪が溶け、鳥の声が聞こえ始めた三月十三日、わたしは電車に乗って町を出た。家には手紙も残さなかった。両親が、わたしが思っていた以上にしたたかであることを、この一年で十分に思い知らされていたからだ。
 電車は、山間の線路を北へ向かう。次第に雪の混じる風景に、まるで時を遡っているかのような気分になった。やがて、そこかしこから湯気が立ち昇るのが見えはじめ、わたしは最初の下車を決意した。
 駅前にはバス乗り場があり、行き先を見ると山頂に向かうらしい。わたしは後先も考えず、誰もいない車中に乗りこんだ。
「この先、何もありませんよ」
 運転手がそう語った時、不思議と運命を感じた。何もない。なんて魅力的なんだ。
 あれから三ヶ月になる。今日もわたしは叫ぶ。
「沼地ー」
 沼地で沼地と叫んでみても、何が出てくるわけではないのは知っている。それでも、その沼地の中心からはごぼりと泡が吹き出して、わたしはまた叫び続けてしまうのだ。

Photo by Krystian Piątek on Unsplash

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