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「人目が気になってマスクを外せない」の「人」って誰?

 「アレ」の感染症法上の分類変更が令和5年1月26日ごろからメディアで報道され始め、1月30日には正式決定したようだ(多くのSNSと同様ここでも「コ〇〇」と書いただけで記事の上部に危険な記事であるかのような注釈を勝手に貼り付けられるため、明言を避ける)。遅きに失した上にあと3か月以上も先のGW明けなのかという憤りは有り余るが、とにかく5類への格下げが決定し、「マスクは個人の判断に委ねる」という国からのメッセージが発出された。
 だがしかし。
 未だにマスク着用率は99%を超えている。

 児童生徒、労働者のほとんどは今でも学業中・就業中のマスク着用を義務付けられており、拒否すると著しく不当な扱いを受ける可能性が極めて高く、外せない状況にある。一方、私生活において、何等かの施設を利用しているわけでもない、何らの強制がない状況においてもやはり99%の人が外さないのだ。今回の国からの通達を受けて1週間近く経つのにこの異様な光景は変わらない。
 確かに現時点では「方向性」に過ぎず、今後適切な場面の周知を云々とあることから結局「個人の判断」は何一つ尊重されない状況が続く懸念はある。だが、とにかくメッセージとして出たと言うことを受け取れば、「もうええやろ」と自分からマスクを捨てる人が出てくるかと思えば、全くと言っていいほどにいなかった。このことに私は改めて愕然としている。

 3年も猿轡をかまされ続けた国民が今さら外せない理由はそれぞれとはいえ、「人目」がキーワードであることは間違いないだろう。街頭インタビューで「人目が気になって~」と言う市民の声を、メディアがそういう声を意図的に放送していることは想像に難くないが何度見ただろうか。実際、時折周りの人と話をしてみても、「怖くて外せない」と言う声が多い。

 前回の記事で、「互いの不安のため」にマスクを強要する理不尽について、「不安」とは何かと言う観点から考察してみた。
 今回は、何らの強要がない場面においても「人目が気になる」ため外そうとしない心理について考えてみる。

 「人目が気になる」ために本来の自分の希望や欲求を引き下げてある行動をしたりしなかったりというのは、マスクに限ったことではない。
 では、「人目」とは誰の目のことか。
 「上司のA氏」や「隣のBさん」などの実在する人物がいるかどうかは関係ないのだ。
 結論から先に書くと、「人」は、自分の中にいる。

 以下、「自他の境界」「視線恐怖」「現実検討能力」の3つをキーワードに挙げて考えていく。いずれも精神科領域での基本概念である。

 「自他の境界」とは読んで字のごとく、自分と他人の境目である。これについては以前の記事にも書いたので重複する部分もあるが、再度書いておく。自分と他人は別の存在であることを認識せよ、という話だ。当たり前だと思うだろうか。しかし実際には自他の境界とは実に曖昧なのだ。
 相手が笑うと自分も笑うし怒っている人の顔写真を見ただけで不安になる。感情は伝播する。「心を通わせる」とはこういうことだ。だからこそ人間の交流は素晴らしいし、そうでなければ人は生きていけない。自分と他人を完全に区別することなど原理的に不可能なのだ。

 問題は常に自他の境界がうまく作動するとは限らないということだ。究極にその壁が崩れた状態が、統合失調症と言う病気であり、患者は耐えがたい苦痛にさらされる。
 
 自分と他人の壁はコンクリートのような隙間のない壁ではなく、編み目やフィルターのようなものだ。このフィルターが適切に作動していれば、自分にとって不要なあるいは害をなしそうな刺激は濾すことができ、快適なあるいは自分に必要な刺激は自分の内に取り入れることができる。だがフィルターの目が大きすぎると不要あるいは不快な情報が侵襲的に入り込んできて自分が保てなくなるし、細かすぎて他者の感情を排除し過ぎるとコミュニティーにおいて不具合が生じる。

 私が精神科医をやっていて思うのは、人間関係の悩みはフィルターの目の大きさに直結するのではないかということである。そしてそれがそのまま、人目が気になってマスクが外せない異様な社会に直結する。

 次のキーワードの「視線恐怖」に話を進める。

 言葉自体は聞いたことがあるだろう。単体で病気と判断するこというよりは社交不安症の症状の一つとして数えられたりする。重度になると日常生活に支障を来すものである。特に自我が成長過程にある若い人は、対人関係を過度に意識するあまり、人が自分を見ているのではないか、と言う思いに捕らわれる時期もあるかもしれない。だが、通常は、人とのコミュニケーションを重ね成長するにつれて、過度に思うようなことはなくなっていく。
 一方、「人が苦手」が度を超すと、「みんなが自分を見ている」と言う確信が生じ、社会生活に支障を来すこともある。
通常の生活場面において衆目が自分に集中することなどあり得ない。あり得ないのに、視線を「感じる」のだ。それはつまりあくまで、自分が「感じる」のであって、他者が実際に自分を見ているかどうかは実は関係ないのだ。
 これはやはり、自分と他者のフィルターが脆弱で、他者の感情を自分の中に侵入させ過ぎてしまった結果起きている現象である。

 自分の中で起きていることと、自分の外で現実に起こっていることを区別する能力を、3つめのキーワード「現実検討能力」と呼ぶ。現実と非現実の区別である。これもまた、著しく崩壊した状態が、統合失調症である。
 明からな精神病状態にならなくても現実検討が少し弱くなることは珍しくない。何故なら、実際に目の前で起きた現実はその後簡単に修飾されて「頭の中だけの現実」になり得るからだ。

 職場で自分の意志に反してマスクを強要された。それが記憶として脳内に定着し、職場を離れても頭の中に上司が居座り続けるのだ。
 マスクの群れの中を歩いているときはその視覚的装置がさらにその恐怖を増幅するだろうが、ただ一人歩いている場合にでもその思い込みは消えないことから、もはや自分の周囲の状況は関係ないことが分かるだろう。

 実際にマスクハラスメントが行われていることは大問題である。が、直接攻撃してくる者がいない場でも外せない状態というのは、もはや相互監視の域ではなく、国民がすべからく、一億総自縄自縛に陥っているのではないか。

 マスクハラスメントの加害者がいたとして、その加害者を自分の中に侵入させ、増殖させているのは実はほかならぬ自分自身なのだ。自分の中にいる加害者が自分が作り上げた虚像であると気付かず、「見られている」と確信してマスクを外せないのだ。

 解決方法は、明確である。
 それは自分の中で起きていることなのか、自分の外の話なのかを明確にするだけだ。
 しかし、それを超えて未だに国民の99%が自縄自縛に浸っている現状を解決する方法は思い浮かばない。

 ただ、この茶番に気づいている人に、「こういうことですよ」と示し、あなた方は間違っていない、私自身も間違っていないという思いを共有することで支え合う、それぐらいしか、思いつかない。
 支え合いましょう。

~おわり~

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