目が光る(16)

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その瞬間、彼の頭に恐ろしい妄想が浮かんだ。もしかしすると、もう全員集まってグラウンドに行っているのかもしれない。そうなれば、遅刻した僕は......もう終わりだ。

全身から血の気が引いていく。急いでグラウンドに行こうと思っても、足が動かない。遅れて着いた時のヤツらの冷ややかな顔を想像すると、いっそ窓から飛び降りてしまいたいくらいだった。

彼はなんとか教室に入り、席についた。そうして、しばらくボーッと黒板を眺めていた。練習に行く気なんか、さらさら起きなかった。

すると、突然、ガラガラっと教室の扉が開いた。彼が驚いてその方を見やると、そこにはクラスTシャツに身を包んで汗だくになっている男子生徒がいた。盛山の取り巻きだった。

「マジわりい!ちょっと遅れたわ!」

そいつはそう言ってバツが悪そうにはにかみながら周りを見渡し、眉をひそめた。

「あれ、みんなは?」

彼は黙って首を振ると、そいつは「おっかしいなー」とかなんとかブツブツ呟きながら去っていった。

それから三十分ほどして、そいつは帰ってきた。けれど、そいつは一人じゃなかった。ぞろぞろとクラスメイトを連れて戻ってきたのである。

彼は縮み上がる思いがした。練習に遅れたどころか、すっぽかしてしまったとなれば、彼の評価はだだ下がりである。まあ、もともと下がりようなないほどの位置だったのだが。

ある後悔が頭を埋め尽くす。どうして、トイレにでも入っておかなかったのだろうか。適当に個室にでも閉じこもって、ウンウン唸っておけば、腹痛とでも言っていくらでも誤魔化すことができただろうに。

いっそ今からでもトイレに駆け込もうか。まだ奴らは彼の存在に気がついていない。気がつかれなければ、先の腹痛作戦を実行できる。

仮に気づかれたとしても、死に物狂いのような表情を浮かべてトイレに駆け込めば緊急性が伝わるだろうし、教室に戻ってから練習に来なかった理由を聞かれたなら、腹痛の波が何度も襲いかかってきて行こうにも行けなかったたということにしてしまえばいい。

それでも納得せず、相手が訝しんだら、自分は運動が得意じゃないから緊張で胃がキリキリ疼いて仕方ないんだとでも言えば、流石に引き下がるだろう。もしかすると、むしろやる気があると言って許される道もあるかもしれない。

彼は自らの体裁のために勢いよく立ち上がった。すると、あまりの強さに椅子が倒れてしまい、人少なの教室に無機物が打ち付けられる音がガシャンと響く。無人だと思っていたのか、それとも音の大きさに驚いたのか、ドアのところの集団がビクッと揺れるのが見えた。

「びっっっくりした!いたのかよ!影薄すぎだろ!」

おちゃらけた取り巻きの一人が芸人もどきに大げさにそう声をあげると、「ちょ、お前、それはやばい」とか、「確かにそうだけどさ、今言うか?」とか、「お前、そういうところあるよな」とか口々に言い出して、取り巻きたちがくすくすと笑った。

彼はこんな風に身内に閉じこもって、数を盾に誰かを貶すノリのターゲットになることが多かった。奴らが言うには、彼は「影が薄い」らしかった。唯一彼が少し会話する「たくちゃん」もそいつらに「影が薄い」と言われていて、「たくちゃん」はそれをすごい気にしていた。

休み時間にトイレから戻ってくると、取り巻きが彼らの席に座っていて、彼はチャイムが鳴るまで適当にやり過ごしていたのだが、「たくちゃん」は気にしいなようで、取り巻きたちに「そこ、僕の席なんだけど」と話しかけた。

初めの三言くらいは無視された。四回目に少し強めの語句で「たくちゃん」が声を震わせて注意すると、「あれ、お前居たの?空気すぎて気づかんかったわー」「てか、ここお前の席だったんだ」「まず今日学校来てたこと知らんかったわ!」とからかう。

「たくちゃん」は泣いた。すると、取り巻きたちは一層「たくちゃん」をからかった。「たくちゃん」は耐えきれなくなって、勢いよく教室を飛び出し、鐘が鳴っても帰ってこなかった。

こんなこともあった。昼休み、取り巻きたちがう教室の後方の窓際にたむろして、大声で修学旅行の班分けを確認していた。そして、そのうちの一人が指を折りながら言った。

「班は山根と高尾でしょ?あと熊切。だとすると、今何人だっけ?十七?ってことは......あれ?このクラスって三十五人だよな。で、女子が十六だから、あと男子は二?」

「うっそ、まだ、二人もいんのかよ!え、マジわかんねー誰?」

「え、誰言ったっけ?盛山と俺らでしょ、これで一班じゃん。で、二班がバスケ部で、三班もさっき言ったし、四班も言ったよな?」

「いやー、まじで思い出せないわ。同じクラスなのに分かんないとか、マジ影薄すぎだろ!」

「それな、影薄すぎ!室井かよ!あれ、てか室井じゃね?」

室井とは「たくちゃん」の苗字だった。

「それだわ!影薄いで思い出すとか、あいつマジでそれしかないんだな」

「ほんとだよな。てか、室井入れてもまだ足りないんだけど、室井ともう一人がいる班やばくね?」

「浅井確かその班だわ。あいつサボった時に勝手に決められたらしい。」

「ウケる。マジごしゅーしょーさまだわ。」

もう一人とは彼のことであったけれど、彼はさして気に留めていなかった。しかし、「たくちゃん」は違った。隣でプルプル震えて、ブツブツ呟いていたかと思うと、急に立ち上がって、奴らに向かって大声で言い放ったのである。

「僕、ここにいるよう!」

一瞬の静寂。次の瞬間、ぶひゃあという汚い笑いが教室に響き渡った。

「いや、おま、お前、マジか!」

「みんな、知ってて言ってんだよ!空気読めって!」

「いやー、でも、俺わりと好きかもしれん今の、バカっぽくて」

膝を叩きながら大喜びしているそいつらとは対照的に、「たくちゃん」は今にも泣き出しそうな顔をしていた。それを見て奴らの笑いはさらに加速するようだった。しかもよく聞くと、くっくっという噛み殺したような高い笑い声が聞こえてくる。

笑っているのは盛山の取り巻きだけじゃなかった。その場に居合わせた他の女子もまた、「たくちゃん」の突拍子もない言動に吹き出してしまうのを必死に堪えているようだった。

「たくちゃん」は我慢できず教室を飛び出ようとした。けれど、それは叶わなかった。「たくちゃん」は椅子に足を引っ掛けて、転んだ。それも、飛び出ようとしていたのだから、もの凄い勢いで。

その瞬間、さっきまで必死に笑いを堪えていた女子も限界を迎え、クラスは「たくちゃん」への嘲笑に包まれた。「たくちゃん」は泣くとも怒るともつかない顔をして、今度こそ教室を飛び出していって、やはり鐘がなっても戻ってこないのだった。

こんな時、彼は決まって「たくちゃん」に声をかけた。あんな奴らはほっとけばいいんだとか、影が薄くてもいいじゃないかとか、言葉の中身はありふれた受け売りだったけれど、それでも彼は「たくちゃん」に寄り添おうという姿勢を見せた。

彼は「たくちゃん」に同情していたのである。ただし、厳密に言うと、それは優しさではなかった。

自らも同じ同じくらい「影が薄い」けれど、それでも彼には一目散に槍玉に挙げられ、醜態を晒す「たくちゃん」よりはマシに思えた。「たくちゃん」が真っ先に標的になるから、同じ境遇にある彼はいじられない。つまり、彼にとって、「たくちゃん」は防波堤でもあったのである。

だからか、彼は自分でも気がつかないうちに「たくちゃん」を小さく見ていたようだった。言いかえれば、クラスの中心から一番遠いのは、盛山から一番遠いのは、自分ではなく「たくちゃん」だと感じていたのだった。そうして、そんな「たくちゃん」が可哀想で、寄り添えるのは自分しかいないとばかり思って、彼は声をかけてあげていた。

しかし、今、奴らの槍玉に挙げられているのは彼である。初めての経験だった。そのままトイレに駆け込めばよかったのだが、彼は動けなかった。恐ろしい思いがしたのである。それは練習をサボったとがバレた時の想像上の恐怖より、ずっと生々しく、刺すように彼を襲った。

今に、彼はからかわれる。「たくちゃん」のように。冷や汗が彼の狭い額をつーっとつたった。すると、取り巻きはこう続けた。

「いや、影薄すぎて室井かと思ったわ!てか、室井いなくね?」

彼は話の矛先がそれた気がして、少しほっとした。そして、「たくちゃん」に感謝の気持ちを述べたい気分だった。俺は無事なのは君のおかげだよ、と。これが終わったら、いつもより話してあげようと思った、その時だった。聞き覚えのある声が、ドアの向こうからくぐもって響いた。

「僕、ここにいるよう!」

次の話は9/30更新!

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