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岡崎藝術座『イミグレ怪談』の感想|幽霊はボーダーを越えるのだろうか?

 岡崎藝術座の『イミグレ怪談』を見た(公演のことは、友人で戯曲を書いているハスキーさんに教えてもらった。わたしは演劇には疎いので、ハスキーさんや同級生の俳優、豊島晴香さんに色々と教えてもらっている)。終始、なんだか軽薄で、おもしろおかしくて、かなりニヤニヤしてしまった。けれども、そのユーモアや軽さと裏腹に、劇のテーマは侵略と移民、植民、戦争などで、かなりヘビーかつアクチュアルだった(「最近、おんなじような話しを聞いたよね、日本で」というせりふのキツさといったらなかった)。
 オチにぞっとしたし、「侵略」の定義を問うたところも怖かった。それらの点を含めて、タイトルのとおり、色々な意味で、ちゃんと怪談だったと言える。

 『イミグレ怪談』を見て思ったのは、「物語」や「おはなし」というものは、実はすべて怪談なのかもしれない、あるいは、怪談になるポテンシャルを秘めているんじゃないか、ということ。テレビのバラエティ番組や就職面接のエピソードトークもそうなのだけれど、経験にもとづく「物語」や「おはなし」は、他者に向けて語られて伝搬していく中で、あるいは個人の中でひっそりと反芻される中で、そのたびごとに変質し、ゆがんで、もとの形から別のものになっていく。「物語」や「おはなし」は、現実そのものや現実に起こった出来事から次第に遊離していって(そもそも、それらは現実や出来事をそのまま再現できるものでもない)、なにか霊性のようなものを帯びていく。
 じゃあ、そもそも「怪談」とはなんなのかと考えてみると、それは、幽霊や霊的(スピリチュアル)なものへの想像力が関係する「おはなし」のことだろう。そして、霊的なものへの想像力の根底にあるもの、その由来や萌芽は、生物の「死」という最大の不可知への恐怖だと思う。「闇」という人間にとって不可視の領域から怪談がよく立ち上がるのも、また、そこに「死」という不可知のものが潜在しているからなのではないだろうか。
 つまり、怪談というのは、直接的にか、間接的にか、死についての「おはなし」なのだ。『イミグレ怪談』は、たくさんの死の上に成り立っていた物語だった。

 考えてみたら、霊的なものや霊性は、その土地の文化や言語と強く結びついている。霊的なもの、霊性は、その土地の文化や言語といったファウンデーション、いわば下部構造の上に成り立っているのだ。
 おそらく、霊はみんな地縛霊なのであって、ラインやボーダーを越えられないだろう。文化や言語がちがえば、人が「こわい」と感じるものやことも異なる。その土地にはその土地固有の霊性があり、そして、その受容のしかたがある。霊は移民も植民もしない……たぶん。
 しかし、『イミグレ怪談』は、そのことを疑ってみせる。霊が生きている人間になにかを訴えかけてくるように、『イミグレ怪談』も「本当にそうかい?」と問いかけてくる。
 『イミグレ怪談』は、ラインやボーダーを越える霊的なものについての演劇だ。そこには、ハイパーグローバル化した現代のありかたと、劇作家の神里雄大のルーツや経験が思いっきり反映されている。生きる者が容易にボーダーを越えるようになった今、死んだ者や霊性はボーダーを越えないのか? と。
 たとえば、異国語を話す霊というのは、あまり聞いたことがない。私たちが解さない言葉を霊が話していたとしたら、それは「怖い」と感じられるのだろうか? 移民者や外国人に、その土地固有の霊は感知できるのだろうか? 逆に、その土地の人々に「移民者の霊」や「外国から来た霊」は感知できる? 霊の出入国管理は誰がする? そもそも、霊は移動するのだろうか? 『イミグレ怪談』は、出演した4人の俳優たちの「おはなし」を通じて、観客にそんなふうに尋ねて回る。

 『イミグレ怪談』を見て考えたことは、このレビューで書いたことにけっこう関係しているかもしれない。くしくも今日、上演の前に、数時間ねばって仕事していたプロントで、井手健介さんの“ポルターガイスト”がなぜかかかっていた。

2022年12月16日、東京芸術劇場 シアターイースト
帰りの山手線、西武新宿線の車内で

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