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週末読書メモ94. 『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

(北海道十勝の農家6代目による週次の読書メモ)

「実力も運のうち」

「能力主義は正義か?」

本書を読んだのち、この言葉を頭の中で反芻せざるを得ません。世界の発展と分断の先に、私たち人類が向き合う必要があるものとは。


本書の筆者は、ハーバード大学の政治哲学教授、マイケル・サンデルさん。

著書『これからの「正義」の話をしよう』は、全世界で100万部を越える大ベストセラー。

この本から11年、現代社会に運びる格差と分断の根元に切り込んだのが、本書『実力も運のうち』です。


勝者の説明によれば、問題となる政治的分断は、もはや左か右かではないという。そうではなく、開放的か閉鎖的かなのだ。オープンな世界では、教育、つまりグローバル経済で競争して勝つための素養を身につけることが、成功を左右する。だとすれば、中央政府がぜひともやるべきことは、成功を左右する教育を受ける平等な機会をあらゆる人に保証することだ。だが、そうなると、トップに立つ人びとは自分たちは成功に値すると考えるようになる。そして、機会が本当に平等なら、後れを取っている人びともまたその運命に値することになる

彼らが擁護した市場主導の能力主義的倫理がいかにして怒りに油を注ぎ、反動を促したかを理解する必要があるだろう。われわれの道徳的・市民的生活を刷新するという希望は、過去四〇年にわたって社会的絆と相互の敬意がどのように崩壊してきたかを理解することにかかっている

メリトクラシーとは、業績(メリット)による統治(クラシー)、つまり、能力主義と訳されます。

生まれや身分によって地位が決定された前近代社会。そこから、個人の業績によって地位が決定される近代社会へ転換されてきました。

一見、前近代的社会よりも格差が無くなったように見える原理。しかし、実際には逆でした。現在、能力主義が発展した結果、欧米を中心に格差、分断が加速しています。


こんにち、われわれが成功についてとる見解は、かつてピューリタンが救済についてとったものと同じだ。つまり、成功は幸運や恩寵の問題ではなく、自分自身の努力と頑張りによって獲得される何かである。これが能力主義的倫理の核心だ。この倫理が称えるのは、自由(自らの運命を努力によって支配する能力)と、自力で獲得したものに対する自らのふさわしさだ。
(中略)だが、これには負の側面もある。自分自身を自立的・自足的な存在だと考えれば考えるほど、われわれは自分より恵まれない人びとの運命を気にかけなくなりがちだ

能力の専制の土台には一連の態度と環境があり、それらが一つにまとまって、能力主義を有害なものにしてしまった。第一に、不平等が蔓延し、社会的流動性が停滞する状況の下で、われわれは自分の運命に責任を負っており、自分の手にするものに値るする存在だというメッセージを繰り返すことは、連帯をむしばみ、グローバリゼーションに取り残された人びとの自信を失わせる。第二に、大卒の学位は立派な仕事やまともな暮らしへの主要ルートだと強調することは、学歴偏重の偏見を生み出す。それは労働の尊厳を傷つけ、大学へ行かなかった人びとをおとしめる。第三に、社会的・政治的問題を最もうまく解決するのは、高度な教育を受けた価値中立的な専門家だと主張することは、テクノクラート的なうぬぼれである。それは民主主義を腐敗させ、一般市民の力を奪うことになる。

少し長い引用でしたが、考えされられる言葉が多く…

資本主義、市場主義、知的社会、情報社会。これらが、現代の世界を大きく前進させたことは間違いありません。

しかし、その歪みであり、功罪が溢れつつある現実に、我たち人類は向き合う必要がありそうです。


特に、この問題の対処が遅れている原因の一つは、経済・政治社会での勝者(成功者)とそれ以外との分断にあります。

民主主義にとって危機の時代である。外国人嫌悪の高まりと、民主的規範の限界を試す独裁的人物への国民の支持拡大に、それが見て取れる。こうした動向はそれ自体がやっかいなものだ。同じく憂慮すべきなのは、主流派の政党や政治家が、世界中の政治をかき乱している不満についてほとんど理解を示していないという事実である。

メリトクラシーがはこびる現代社会では、アップorダウンの原理があり、より高い業績・統治的地位になるには、ひたすらに能力を高め続けるインセンティブが存在します。

そして、それを突き詰めるほどに、他の立場にいる人々との乖離も大きくなると。しかしながら、その能力も、たまたま生まれ持ったものや取り巻く環境に恵まれたという運の要素と切っては切り離すことが出来ないものだと、サンデル教授は苦言を呈します。


現代世界に対して、大きな問題提起を投げかけている本作。

感じることは多く、この問題から目を逸らしてはなりません。しかし、同時に忘れてはならないのは、それでも前時代に比べて、世界は確実に良くなっているということ。

生まれや身分によって生き方が固定されていた時代、戦争や飢餓が頻繁に起こっていた時代。そんな100年以上前の時代に比べたら、世界は間違いなく進歩しているのも事実。

その上で、進歩に伴い新たな問題が生まれるのは世界の常です。

世界は進んだ、だからこそ新しい問題も生まれたと。

だとしたら…きっと、やるべきことは1つ。(過去の人々がそうしてきたように)現代の自分たちも問題を目を逸らさず、解決に向けて進み続けていきたいです。


【本の抜粋】
勝者の説明によれば、問題となる政治的分断は、もはや左か右かではないという。そうではなく、開放的か閉鎖的かなのだ。オープンな世界では、教育、つまりグローバル経済で競争して勝つための素養を身につけることが、成功を左右する。だとすれば、中央政府がぜひともやるべきことは、成功を左右する教育を受ける平等な機会をあらゆる人に保証することだ。だが、そうなると、トップに立つ人びとは自分たちは成功に値すると考えるようになる。そして、機会が本当に平等なら、後れを取っている人びともまたその運命に値することになる。

彼らが擁護した市場主導の能力主義的倫理がいかにして怒りに油を注ぎ、反動を促したかを理解する必要があるだろう。われわれの道徳的・市民的生活を刷新するという希望は、過去四〇年にわたって社会的絆と相互の敬意がどのように崩壊してきたかを理解することにかかっている。

民主主義にとって危機の時代である。外国人嫌悪の高まりと、民主的規範の限界を試す独裁的人物への国民の支持拡大に、それが見て取れる。こうした動向はそれ自体がやっかいなものだ。同じく憂慮すべきなのは、主流派の政党や政治家が、世界中の政治をかき乱している不満についてほとんど理解を示していないという事実である。

イギリスにおけるブレグジットの勝利と同様に、二〇一六年のドナルド・トランプの当選は、数十年にわたって高まりつづける不平等と、頂点に立つ人びとには利益をもたらす一方で一般市民には無力感を味わせるだけのグローバリゼーションに対する怒りの評決だったのだ。それはまた、経済や文化に置き去りにされていると感じる人びとの憤りに鈍感な技術官僚的政治手法への叱責でもあった。

こんにち、われわれが成功についてとる見解は、かつてピューリタンが救済についてとったものと同じだ。つまり、成功は幸運や恩寵の問題ではなく、自分自身の努力と頑張りによって獲得される何かである。これが能力主義的倫理の核心だ。この倫理が称えるのは、自由(自らの運命を努力によって支配する能力)と、自力で獲得したものに対する自らのふさわしさだ。
(中略)だが、これには負の側面もある。自分自身を自立的・自足的な存在だと考えれば考えるほど、われわれは自分より恵まれない人びとの運命を気にかけなくなりがちだ。

能力の専制の土台には一連の態度と環境があり、それらが一つにまとまって、能力主義を有害なものにしてしまった。第一に、不平等が蔓延し、社会的流動性が停滞する状況の下で、われわれは自分の運命に責任を負っており、自分の手にするものに値るする存在だというメッセージを繰り返すことは、連帯をむしばみ、グローバリゼーションに取り残された人びとの自信を失わせる。第二に、大卒の学位は立派な仕事やまともな暮らしへの主要ルートだと強調することは、学歴偏重の偏見を生み出す。それは労働の尊厳を傷つけ、大学へ行かなかった人びとをおとしめる。第三に、社会的・政治的問題を最もうまく解決するのは、高度な教育を受けた価値中立的な専門家だと主張することは、テクノクラート的なうぬぼれである。それは民主主義を腐敗させ、一般市民の力を奪うことになる。

高い教育を受けた者に政府を運営させることは、彼らが健全な判断力と労働者の暮らしへの共感的な理解ーーつまり、アリストテレスの言う実践知と市民的美徳ーーを身につけているかぎり、一般的に望ましいと言える。だが、歴史が示すところによれば、一流の学歴と、実践知やいまこの場での共通善を見極める能力とあいだには、ほとんど関係がない。

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