運命もしくは必然、よりも偶然

耳が落ち着いてきたのと、3回目のワクチン接種が近いので、電車に乗れるか(騒音が心配だった)、イヤフォンで曲を聴きながら歩けるかを確認したくて、今日は久しぶりに一人で買い物に出た。

まだ春休みにはちょっと早いのではないかと思ってたけど、考えてみれば高校はもう卒業式は終わっているのか、街には結構若い子たちが多かった。
そろそろ平日の昼間に出歩いてると浮いちゃうような年齢になってきたかも……という自意識過剰なことを考えながら、真冬の格好をしてきてしまったので、汗をぬぐいながら歩いた。

これは偶然なのか、必然なのか。運命ってあるのか、ないのか。
ふと、楽しそうに話しながらブラインドのグッズを選んでいる若い子たちを見て、学生の頃はそういうことをよく考えていたのに、大人になって随分考えなくなったな、と思った。

ブラインドのグッズを買って、好きなキャラが出ても出なくても、それは単に確率の問題だしな、と思うだけだ。リアルのガチャでは、大抵は欲しくないものが出るので、いつも通り引きが悪いなと思うし、もし狙っていたものが出れば、すごい今日はラッキーだ!と思うだけだ。
スマホゲームのガチャなんかもそうだし、何ならどういうロジックで当たり判定してるんだと思うようになった。

Twitterで話をするようになった人と、同じイベントやコンサートで挨拶して、なぜか席が隣だったとか、そういうびっくりするようなことがあっても、これは運命だ!とならなかった。
なんていう奇縁!すごい縁だ!と思っただけだった。

むしろもう少し若い頃は、「人と人との縁が大事」とか「縁ってあるのよ」とか年上の人に言われるたび、言いたいことはわからなくはないけど、「縁」とか言いだすと胡散臭い自己啓発みたい、と思ってしまっていたが、実際自分が信じられないような偶然が重なって仲良くなって友達とかができると、「これが縁っていうやつか、縁ってあるんだ」と思うようになった。

信じられない「偶然」が重なって。
もう、縁とやらの前に、偶然か必然かという前提は、「偶然」であると結論がついているのだ。大人になって。いつからそうなったんだろう。

中二病とやらの一種だったのかもしれないが、中学生から大学卒業ぐらいまでは、私の中では、運命だとか必然というものは、本当に「ない」のかということが一つ大きな命題だったと思う。

元々、当時も運命というものはないという考えの方が強かった。そうでないとやっていられなかったこともあるし、良いことも悪いことも人智を超えた誰かだか何かだかに勝手に決められた運命だと思うことは嫌だった。自分でなんとか足掻きたいし、足掻いた結果が良くても悪くても、自分が頑張ったからだと思いたかった。中二病的に言えば自分で運命は切り開くもの的な。

人智を超えた何かがいるとかいないとかの話は、居たら面白いと思うけど(大学の専攻は上代、特に神話をやってたので八百万はあったらいいなと思っている)、そういった何かはいちいち人間一人に何が起こるのかなんて決めてこないと思う。
こっちから神社とかに行って頼み込めば別だろうけど。

だけど、私は人間だから、「本当に」運命も必然もない、全部偶然なのかどうか、それは永遠にわからないし、いや逆に運命だったほうが楽じゃないかという気持ちもちょっとあったりして、うんうん唸ったものだった。

考えたって答えは出ないんだから、不必要なことを検討していたものだとも思う。運命を信じるか信じないかの二択は、自分で決めればいいことであって、あるかないかではない。

高校生ぐらいの若い子を見て、久しぶりに運命だとか必然だとか、そういうことを考えたのは、高校の時のクラスメイトのことを思い出したからだった。
結構仲良くしていた男子で、何かの時に偶然、(私と別の)クラスメイトの女子と二人で一緒に居るところに出くわしたら、実はこっそり付き合ってましたと言われて、固く口留めされたんだけど、話やすかったのか、その後時折いわゆるノロケを聞かされていた。
その時に彼が言ったのが「彼女とは運命だと思ってるから!別れたりは絶対ない!」という言葉で、マーーージかーーーと思ったことを覚えている。というかそのインパクトがめちゃくちゃ強い。さすがに本人に「マジか」みたいなことは言わなかった……と思うけど。

まあ、そりゃあね、今になって思えば、その子だって十代半ばだし。彼女ができれば舞い上がりもするでしょう。下手したら本人の中で黒歴史かもしれないし、忘れてるだろうとも思う。運命とか思っちゃうよ。詰めるのは酷だよ。
でもその時は私も子供だったから、ヒエッ!運命とか言っちゃう!コワい!的な感じだった。そもそもまだ高校生なんだから今後他に出会いとかない??とか思っていた。自分の片思いを棚に上げて(相手を運命の相手だと思ったことはないけど、出会うことに必然ってあるのか?と悩んだ理由の一つだった)。人のことは冷静に見られるもんなのよ。

運命とはなんぞや……みたいなことを一緒にグダグダ考えているわけでもないのだから、気軽に言ってるだけ、流せばいいのに、どうも私は「普通は運命ってこういう風に簡単に受け入れて歓迎するもんなのか?」とかなんとか考え出してしまった。
もちろん、本人にはいってない。熱いねえとかそんなことで茶化して終わったと思う。
でもひとつのサンプルとして、運命だとか必然だとかについて考えるとき、ああやって簡単に言える人もいるしなあ、と思い出すのだ。

結局のところ、大人になった私は「こりゃあ運命だ!」みたいな場面でも「縁」だとか「運」だとか「ものすごい偶然」というような別の何かで受け止めているので、やっぱり「運命」という言葉は好かなかったのだろう。肌に合わなかったというか。
始めのあたりで書いたように、いつしか考えなくなってしまったし。社会人になったからかな。余計なことは考える余力がなくなった。

それに、やっぱり全部偶然の積み重ねであったほうが面白いし、と久しぶりにこういうことを考えていても思う。

まあ、書いていてひとつ思ったのは、その当時付き合っていたクラスメイトたちは、今結婚しているのか、もしくはまだ付き合っているのだろうかということはちょっと知りたいかな……下世話な話というかめちゃくちゃくだらない動機だけど。そうしたら、その2人は運命だったってことになるのかもしれないし。
私としては、2人が運命に「した」っていうのが正しいとは思うけど。運命って言葉を使うならね。

今日見かけた高校生ぐらいの子たちは、自分の好きなキャラクターのグッズが手に入ったのだろうか。
運命でも必然でも、偶然でもラッキーでもなんでもいいけど、当たっているといい。


☆☆
以下は日記的メモ。

今使っているイヤフォンは、ワイヤレスなので、人混みだとやっぱり多少ブツブツ切れて、その突然音がしたりしなくなったり、という感じが不意に来ると、ちょっと左耳が違和感を訴えてきた。
ノイズキャンセリングがダメなんじゃないかと思っていたけど、意外とノイズキャンセリングしない方がしんどかったりしたので、普通に音楽聞きながら電車乗れそう。よかった。
一応、やっすい有線のイヤフォンも購入しておいた。
前に使っていた有線イヤフォンの方が性能は良いし、そっちでもいいけど、まあ一応気軽に聞けるように……音も解像度が高すぎると疲れる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?