4回:商店街、赤線

沖縄市銀天街

 大学生の頃、商店街に住んでいた。通りの角にある、細長いタワーと呼ばれる物件が私の家だった。寂れを通し越して限界集落とも揶揄されたその商店街は銀天街という名前で、地図で見ると沖縄本島のちょうどヘソ辺りに位置している。車社会なのに自前の駐車場も持たなかった銀天街は90年代以降面白いように落ちぶれて、私が出会った2007年には鬱蒼とした廃墟のような趣だった。その雰囲気にたまらなく惹かれた。ぼろぼろで、退廃的で、この世から見放された街に引っ込み思案の自分を重ねた。
 商店街の方々も大学生が住んで少しでも活気が出れば、ということでタワーを一万円の家賃で貸してくれた。街の掃除やちょっとした手伝いをこなしながら私は日常を営んでいた。傍らに非日常を抱えながら。

沖縄市吉原社交街

 寂れている商店街なのに子どもたちが夜遅くまで遊んでいた。さすが出生率全国一だな、と呑気に面倒を見ていた。ある日、とある兄妹を家まで送っていくことになった。まだ小学校にも上がっていない子たちなので当然近所であるし、何の気なしに了解した。銀天街が面しているコザ十字路を美里の方に渡り、坂を登る。兄のほうが先導になり、妹を背負って私は付いて行く。登りきると不思議な光景が目に入った。ガラス張りの平屋がずっと連なっていて、その中では赤やピンクの照明が点いている。そしてそこに女性が座っていた。世間知らずとは恐ろしいもので察しが付かなかった。よくわからないままその子たちと一緒に街を突き進んだ。そして家に着いた。2階建てだった。1階はガラス張りで、「ばいばい」と挨拶を交わすと兄妹は外階段を上っていった。女性がじっと自分を見ていた。「親戚の方ですか?」と尋ねたら「いいえ」と笑われた。

コザ市十字路市場

 コザ市と美里村が復帰後の1974年に合併して沖縄市となった。銀天街も1976年までは十字路市場という名前だった。当時の写真を見せてもらうと今でも店をやっている人たちの若い頃や先代の姿があった。そして陽気にポーズを取る黒人兵。黒人兵と並ぶ女性。黒人兵を見つめる子どもたち。道路を封鎖してキング牧師の追悼デモをする人々。公民館で集会を開くブラックパンサー。それは街の歴史であり、沖縄戦後史だった。コザ十字路が名実ともに沖縄の中心だった言うのは何も公園で昼から泡盛を浴びている年寄りの妄言ではなかった。私はタワーを意地でも離れまいと誓った。ここには何かが眠っている。そして未だにうごめいている。外では子どもたちに「独り言オジサン」と呼ばれている人が叫んでいた。ちょうど19の春のことだった。

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