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軽やかな夜、特別なピノ・ノワールと共に

待ち合わせは20時。仕事がはけて渋谷まで。東横線の車内は仕事帰りのサラリーマンやOLさんたちでいっぱいだ。金髪のJKはこれからセンター街へ繰り出すのだろう。土曜日の夜、渋谷へ向かう車内の人たちは皆どこか浮かれている。今夜はきっと帰りの電車の時間など気にしないに違いない。


東横線の渋谷駅は新しくなって地下深くに潜り込んだ。駅についてから地上に出て目的地までは15分ほどかかりそうだ。待たせているのはわかっているから気が急く。

「先に入って飲んでるから。ゆっくり来て」

そう言ってくれるからといってのんびりしていられないのはせっかちな私の性格のせい。


渋谷駅に到着。久しぶりの夜の街。地上に出てスクランブル交差点を渡ろうと、人の波をかき分けるように進む。この禍になってから以降、私はもしかしたら初めての夜の渋谷かもしれない。と言ってもそれ以前でもほぼ渋谷に飲みに来ることはなかった。いつもは銀座や恵比寿、目黒あたり。仕事以外はほとんど用事のない夜の渋谷へ来るのは、あの店以外に目的はない。


センター街は苦手だ。若者たちの活気には、避けて通りたいエゴと熱気が満ち溢れている。「こんな場所に何しに来たの?おばさん」なんて言われそうな怪訝な冷たい視線が刺さる。さっさと歩けないのも嫌だ。通りいっぱいに広がって、何するわけでもなくだべっている。「こんなところで何してるの?君たち。歩くの邪魔なんだけど」などと心の中で毒づくのは本意ではないのでセンター街は避ける。道玄坂を東急本店に向かってガシガシ歩く。私は歩くのが早い。人を待たせている時は余計にストライドが伸びる。これは私の性格だから仕方ない。本当はもう少し待たせるぐらいの方が、たとえば恋愛ならばうまく行くのだろう。可愛くない上にせっかちときている。本当に馬鹿正直で駆け引きということを知らない。


奥渋谷方面へと一本裏通りに入ると一気に人がいなくなる。この通りが好きだ。小さな路地は渋谷の喧騒から逃れて大人の街へとつながる。街灯が少ない暗い路地に広がる静寂が逸る心を落ち着かせる。小さな門扉を開けて入り、ようやく目的地に到着。二年半ぶりの、その店のドアの前に立つ。

ふぅっと深呼吸。外から微かに店の中の気配が伺える。ガラスの窓越しに見覚えのあるシルエット。マスターの後ろ姿に安堵感を覚え、中で私を待っている人の元へ。ドアノブに手をかけて静かに扉を開ける。


「こんばんは」

私の声に顔を同時に向けたのはカウンターで待つあなたとマスター。

あぁ、やっと来れた。またこうしてここで美味しいワインが飲める。この二年半、ずっとずっとここへ来たかった。今夜で何度目かは定かではないが、常連というにはまだまだ数が足りない。けれど顔を見ただけできっとわかってくださった。ここのマスターはそういう方だ。まるで昨日来たような錯覚に陥るほど、どこまでも当たり前に、久しぶりの来訪者を自然に迎え入れてくださる。


ワインはきっとそんなに好きではないのかもしれない。でも私の大好きなものを興味を持って受け入れてくれるあなたに、今夜は特別美味しいピノ・ノワールを飲んでいただきたい。そう、ここのピノ・ノワールは最高なのだ。葡萄の種類によって名前が違うワインだが、マスターが特にお好きなのがこの種類だと確か以前に仰っていた。赤ワインの中でもラズベリーやストロベリーのように甘酸っぱくて軽やかな香味が特徴のピノ・ノワールは少々酸味が強くて本来私は苦手なのだが、ここのは特別なのだ。まるで気品に満ちたマドモアゼルのように可憐でフレッシュ。なのにまろやかで成熟した大人のパリジェンヌの面影を感じさせる。決して熟年のマダムにはない軽やかさと可愛らしさ。あぁ、私もこんなふうに、いつまでも可愛らしい女でいられたらなぁ。一口飲んで思わず感嘆の声が漏れる。


二年半前よりも店内の様子に活気を感じたのは、私たち以外のお客の年齢層の若さだろう。明らかに20代前半といったカップルや職場の集まりの飲み会。以前はもっとアダルトな客層で店内の明かりももっと暗く感じたのだが、今夜は何故かとても明るいような気がする。

いや、きっと気のせいだろう。私の心があの頃よりずっと軽やかだからだ。制限解除でやっと夜の街に活気が戻ってきたことで、若い人たちは一層軽やかだ。そして私もやっとここへ戻ってこられた。何より心が軽いのは隣にいるのがあなただからだろう。

人の縁というのはどこでどう繋がるかはわからない。そしていつ何時途切れるとも限らない。だからこそ、いま会いたい人に会いに行く。心も身体も軽やかに。あなたもきっと同じでしょう? 私たちはきっとどこか似ている。


奥渋谷の夜は更けて。あなたとの軽やかな夜。特別なピノ・ノワールと共に。


感謝を込めて。



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