Cafe SARI. 18 / 分かち合う美味しさの軌跡✨

一年は12ヶ月。ひと月の日にちはほぼ30日と決まっているし、繰り返す日々に長いも短いもないのだけれど。師走の声を聞いた途端、気がつくと12月の最終イベントのクリスマス当日を迎えていた。
とにかく早い。何故こんなにも?というくらいに駆け足で過ぎ去ってゆく一年の最後の月。

今年の冬も温暖化の影響で暖かな日々が続いていたかと思ったら、ここ数日で急激に気温が下がってきた。やはり師走だ。沙璃は持っている中から一番温かいダウンのロングコートをクローゼットから選んで店へと向かった。

パートナーと別々の道を歩み始めてから数年、ひとりのクリスマスやお正月にも慣れてきた。特別寂しいわけでもないし、元々ひとりでのんびりと過ごすことが好きな沙璃にとってはクリスマスとはいえ日常の一コマでしかない。特にCafe SARIを始めてからは、逆に店で過ごす一番賑やかな日になった。沙璃は一年の感謝の気持ちを込めて、来客たちにいつも以上に料理の腕を振るう。そして普段はお酒類の持ち込みは断っているが、この日ばかりは何でもありの大判振る舞い。みな思い思いの飲みたいシャンパーニュやワインを持ち寄って、ここで乾杯するのを楽しみにしている。

今年は定番のローストビーフにマッシュポテト、カニ入りサラダに蕪のクリームスープ、ドルチェはチョコレートムースにイチゴとホイップクリームを添えたものにした。丸鶏のグリルやブッシュドノエルは家で家族と味わうものだと沙璃は思っている。

クリスマスのために用意したゴールドのキャンドルに火を灯す。いつもより静謐に感じる炎にうっとりと見惚れる。BGMはもちろんビル・エヴァンスだ。
スピーカーから流れてきたのは沙璃のお気に入りの「Luck to be me」。

https://youtu.be/c16m8xspz8U

ゆったりとしたピアノの音色に聴き入っていると、ドアが勢いよく開いた。

「こんばんは〜」
「あらやだ、雨降ってきちゃった?」
「なに、降ってないけど。あ、僕が来たからまた雨かと思ったの?沙璃さんひどいなぁ」
「あはは、ごめんなさい直哉さん。今夜はクリスマスだもんね。みんなで乾杯するためのおいしいワイン、持ってきてくれたの?」
「あぁ、今夜はちょっと違うんだ。あのね、はいこれ。沙璃さんに。クリスマスプレゼントだよ」
「なあに?私にくださるの?」

直哉は持ってきた包みからワインを取り出し沙璃に手渡した。
「う〜〜ん、このエチケットは見たことないな。なんだか上等そうね!」
「えへへ。ちょっとね」
「ありがとう。こんないいワイン、いつ飲もうかしら。年明けのお祝いにしようかな?」
「いやいや、これは飲まないでいて欲しいの」
「え?どういうこと?」

直哉は持ってきたワインの歴史を説明した。その名前は「シャトー・シャス・スプリーン」。意味は「哀しみよ、さようなら」というらしい。200年も前にこのシャトーに滞在した英国詩人が命名したという。

「哀しみよ、さようなら」か。
それは沙璃にとって、胸の奥にチクンと刺さる響きを持って聞こえた。
このワインを飲めばその素晴らしい味わいに、どんなに辛い悲しみさえも忘れ去ることができる。
それは希望の言葉でもあり、叶わぬ夢に囚われないための呪文のようにも聞こえるのだった。

私にとっての叶わぬ夢ってなんだろう。
人が簡単に叶えているように見えることは、実はとても難しかったりする。継続することができなかったパートナーとの生活も、周りを見渡せば容易く当たり前に続けている人たちが沢山いる。その違いってなんだろう。考えてもおそらく答えなど出ない問いに、自問自答してはため息をついた。

「あら?沙璃さん、嬉しくなかった?」
「あ、あぁ、ごめんなさい。いえ、とっても嬉しいわ。ありがとう。それで、この先悲しいことに出会った時に、この素晴らしく美味しいワインを開けてその悲しみを慰めてってことね?」
「うん、まぁそうなんだけど。悲しい時に飲むっていうよりは、これをお守りとして持っておいて欲しいってとこかな」
「お守り?」
「そう。僕たちは今日もこんな風に、無事に何事もなく幸せに生きていられてるけれど、こうしている間にも世界中で起こっている理不尽な戦いや悲しい出来事で大切な家族や友人を奪われている人たちもいるよね。人生にはある意味保証なんて何もない。いつどんな災いや困難が起こるとも限らない。だから、何事もない毎日は本当はとても奇跡的なことなのかもしれない。そのことに感謝しながら、もしもどうしても辛いことがあった時でも、このワインがあれば大丈夫って思えば、少しは気が楽になるでしょう?その日まで、お守りとして持っていて欲しいんだ」

沙璃は「哀しみよ、さようなら」という名のワインをじっと見つめた。
哀しくてどうしようもない時、果たして自分はこのワインを開けることができるだろうか。哀しい心を抱えたままで、この素晴らしく美味しいワインを味わうことができるのだろうか。

沙璃にとってワインは、いわば幸せの象徴だった。「美味しい」と感じる心は沙璃にとってはとても愛しい感情なのだ。過去に本当に哀しみのどん底にいた時、沙璃は味覚を失った経験がある。何を食べても、何を飲んでも、何一つ味がしない。どんなに好物のものを口に入れてみても、どれも砂を噛むように、にがくて苦しかった。口中が乾いて、ものを口に入れること自体が辛く、まるで身体が食べることを拒否しているかのように感じた。そんな時に飲むワインはやはりとても苦くて孤独な味がした。

あの頃飲んだワインたちに、沙璃は慰められたという感覚は無い。むしろ、そんな状態で流し込むように飲んだワインたちに申し訳ない気持ちがしていた。本当はとても美味しいはずだよね。こんな風にしか飲んであげられなくてごめんね。そう思いながら。

別れは沙璃を強くした。そしてそれまで好きだった一人の時間を返上し、こうして始めた自分の名前の店でたくさんの人たちと愛しい時間を分かち合ってきた。人と話すことの大切さ、言葉を交わし合い、思い合うことの愛しさを、ここで飲むワインと共に日々深く味わってきた。

「美味しい」と感じる心に感動し、「美味しいね」と言い合える関係性に心癒され、ワインが持つポテンシャルを想像以上にあげるのは、その時の自分の心次第だと何度も経験を重ねて知っていた。ここで人と味わうワインは、好きだったはずの孤独な時間に飲むそれとは全く違った美味しさを沙璃に与えてくれた。

だから沙璃にとって、「ワインを美味しく味わう」ことはとても特別で、奇跡で、人が思う数倍も愛しいことなのだった。

「直哉さん、私このワインを哀しみのお守りにはできないわ。私はいつでも最高に幸せを感じながらワインを味わいたいの。だからこのワイン、これ以上幸せなことはない!って時に開けることにしてもいいかしら?それまで頑張るための楽しみにとっておくわ」
「あぁ、いいね。それは沙璃さんが決めたらいいよ。どちらにせよ、そのワインは沙璃さんにとって素晴らしく美味しいと感じてもらえたら僕は嬉しいからね。なんなら20年ぐらい寝かせるっていうのも手だよ。間違いなく価値が上がるはずだから 笑」
「それはやだな、20年も経ったらおばあさんになって味覚が落ちちゃうじゃない。美味しいものは美味しいと感じるうちに味わうのがワインに対する礼儀でしょ?笑」

今夜は何を飲もうか。二人で相談して、値段も味わいもカジュアルな軽いスパークリングで乾杯した。ほら、これだってこんなに美味しいじゃない。
笑って味わえることの素晴らしさを、今夜もここ Cafe SARI で分かち合えることに感謝して。

そういえば今夜はクリスマスだ。日常の中にある特別な一日。こんな風に来年もここに来る大切な人たちとともに分かち合えますように。
沙璃は静かに心の中で手を組み、神様に願いを捧げた。

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Cafe SARI 仲間の砂男さんがとても素敵なスピンオフ物語(是非ご一読ください!)を書いてくださいました。読みながら夢と現実との間を行ったり来たりした私の目の前に、いつの間にかやってきたのは妄想列車。
これは書かねば。
砂男さんの物語とは内容が少し違いますが、同じワインを目の前にしながらの、もう一つ違う味わいの物語を楽しんでいただけたら嬉しく思います。
砂男さん、ありがとうございました。
創作は楽しいですね!

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#リュクスなクリスマス #小説



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