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コルトレーンの囁き Vol.1

『 破壊 』

ノースリーブのロングワンピースにカシミアのストールを肩にかけてバルコニーに出る。素足にサンダルではまだ少し冷たい朝の空気に無防備な素肌がきゅっと引き締まる。眼前に広がる厚い雲に覆われた梅雨空はどんよりとして今にも泣き出しそうだ。

ここへ越してきてからすぐに、ヨーコはバルコニーでハーブを育て始めた。バジル、パセリ、ミント、ローズマリー、カモミール、レモングラス。目にも鮮やかなグリーンたちは、太陽の光と恵みの水によって成長するために必要とするエネルギーをぐんぐん吸収し、芳しい香りとともにそのキラキラとした生命力を惜しみなく見せてくれる。でもそれだけでは物足りないとでも言うように逞しく生きていこうとする葉先は太陽の光に向かって必死に伸びていこうと歪に成長する。ほら、あなたもこんなふうに強く生きるんだよ!そう言ってヨーコを励ますように他よりも少し背丈が伸びた葉っぱが自己主張するように語りかけてくる。そこには生きることに貪欲な生命体の確かな意思が感じ取れるのだった。ヨーコはこの小さな緑たちと毎朝向き合う時、逞しい命の輝きを直に感じてたくさんの元気をもらえていた。

ハーブティーにするためにカモミールと何枚かのレモングラスを摘み取る。その葉っぱの表面を優しく指で擦り、鼻先に付けてゆっくりと深く吸い込み香りを確かめる。あぁ、生きてる。弾けるようなハーブの香りは鼻腔を通って一気に肺の奥まで充満し、身体中が力強いエネルギーで満たされていくのがわかる。

本当はこの爽やかな香りと共に燦々と輝く太陽の光を浴びて一日をスタートさせたいところだが、どうやら今日は叶わぬようだ。しかし重厚なビロードの緞帳のように鈍く光るこの曇り空でさえも、今のヨーコにとっては何ら憂鬱の種にはなり得なかった。あの雲の向こう側にはどこまでも続く青空が広がっている。その空の彼方へ想いを馳せると輝く太陽が微笑んでいるのが見える。ほら、こっちへ向かっておいで。大丈夫、あなたはもう自由に生きられる。そんな希望に溢れた声がヨーコには確かに聞こえるのだった。


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全てを捨ててこの街へやってきたのは今から三年前。今日のように今にも冷たい雨が降り出しそうな、鬱々とした梅雨真っ只中の肌寒い夕暮れ時だった。タクシーから降り立ち、目の前に現れたその建物を見つめ、ヨーコは感慨深く一つ深呼吸をした。ここから私の人生が始まる。それは希望に満ち溢れたスタートとは言い難い、今日の曇天のように泣き出したくなるような心細さで、辛うじて自分の足で地面に立っているのが精一杯だった。ボロボロになった翼をここで静かに休めよう。そして再び自分の力で大空に向かって飛び立つ日を夢に見ながら、ヨーコは新しい生活へと第一歩を踏み出した。


東京の郊外、三階建ての瀟洒な低層マンションは、緑が多い閑静な住宅専用地域の静かな街並みの中に、まるで人目から隠れるようにひっそりと建っていた。

駅近や華やかな街中を選ばなかった理由は家賃を抑えるためだけではない。便利なだけの騒がしいエリアから離れ、心穏やかに腰を落ち着けて、そこで昔から暮らしている街の住人たちに紛れてひっそりと暮らしたかったからだ。その土地に一日も早く溶け込み、静かに目立たない暮らしをしたかった。ヨーコにとってその場所は誰の目も気にすることなく、何者にも縛られることのない「安住の地」となるものでなければならなかった。そう、もう一度自分の人生をやり直すために。


三十五才でピリオドを打った八年間の結婚生活は、決して最初からうまくいかなかったわけではなかった。付き合っていた頃はとても幸せだったし、結婚してからもしばらくは楽しい生活だった。それぞれに仕事を持った自立した大人同士の結婚は、お互いに干渉し合わないことを条件に余裕のある都会の生活を満喫する、周りの誰もが羨むような結婚生活の幕開けだった。同じような年頃の友達は世代的にも皆子育てに奮闘中で、義理の親や親戚との軋轢に気を遣い、自分の事など二の次三の次という忙しい日常生活に追われる者がほとんどだった。
そんな中、ヨーコは十五才年上の実業家の夫と、港区の高級タワーマンションに居を構え独身の頃と何ら変わらない、自分に好きなだけお金も時間もかけられる優雅な生活を送っていた。時には女友達からの嫉妬の視線を感じるほどに、自分でもこの結婚は恵まれていると自負していた。


しかし何の苦労もないそんな気ままな生活も半年ほどたった頃、まるで丹精に織り上げた上等な布地に見つけた引っ掛け傷が、ある日を境にぽろぽろとほどけて知らぬ間に修復不可能に広がっていくように、自分の力ではどうにも止められない焦燥感を募らせていった。それからの八年間は、そのほどけた絹糸で少しずつ身体を絞め上げられるようにして身動きが取れなくなっていき、気付いたときには苦しくて苦しくて、当たり前にできるはずの呼吸すら上手くできなくなっていた。

一体どうして? 好きで一緒になったはずなのに……

ヨーコはその理由を自覚するために、本当は見たくない自分の心をまるで他人のそれを覗き見るようにしてこわごわと注意深く紐解いていった。

結婚前は理想の人だと思っていた相手は、その本性を知るごとにヨーコの中で少しずつ変化していった。多分相手が悪かったわけではない。今から思えば自分の勝手な幻想が作り上げた虚構の男に恋をしていたのだ。見抜けなかったのは自分の責任だ。全ては後の祭り。楽しかった思い出や幸せだった日々は、見栄えばかりに拘った遊園地にあるハリボテのお城のようだと気づくのにそう長い時間はかからなかった。美しいドレスやガラスの靴はハッピーエンドが待っている物語の中のお姫様にしか価値はない。いくら綺麗に着飾ったところで、自分という一人の人間を、単なる「勝者の戦利品」や「他人に対するマウントのための飾り物」としてしか見ていなかった夫への違和感は、日を追うごとに嫌悪感へと姿を変えていった。

おかしいな、こんな人だったかな? 私はこの男の一体どこに惚れたのだろうか?

現実の生活は容赦なく人間の本質を炙り出す。ゆっくりと魔法が解けるように豪奢な馬車はちっぽけなカボチャに姿を変えた。理想の王子様は不思議とそれまでとは全く違った姿に変貌し、虚勢を張った男の醜いエゴを浮き彫りにしていった。


「ヨーコと結婚したのはハッキリ言って見栄えがいいからだよ。俺の周りの奴らのパートナーに比べて格段に若い。みんな俺が羨ましくて仕方ないんだ。女は若くてなんぼだからな」そう言って満足そうに笑う夫の顔をまともに見られなくなったのはいつ頃からだろう。結婚前はとてもマメにメールをくれたし会いに来てくれた。それはヨーコ自身に向けた愛情表現だと素直に受け取っていた。いい暮らしぶりをあちこちで垣間見せる男の様子は手慣れたもので、少々嫌みなところはあったけれど、それも世渡りがうまい人生の成功者としてヨーコの目には悠々と映った。何処でも誰に対しても自信を持って堂々と振る舞う頼もしい理想の夫だと、その当時は満足していた。

女にとって、見た目が好みの範疇で条件のいい相手から請われて断る理由などどこにあるだろうか。若いと言ってもそろそろトウが立つ年頃に差し掛かっていたヨーコにとって、この結婚は人生の勝ち組への最後のチケットような気がした。そこに打算がなかったとは言い切れない。それこそがヨーコの弱さであり、自分の人生を生きるということの本当の意味が分かっていない愚かな行いだったと、後になって思い知らされることになるのだった。


結婚から間もなく「若さと見た目で選んだ」だとか「周りの仲間に羨ましがられることが快感」などといった軽薄な夫の言葉を聞いて、一瞬自分が褒められているような錯覚に陥り嬉しい気もしたが、それと同時に何とも言えない違和感を覚えた。このまま年を取っていけば、その価値観は一体どうなるのだろう。違和感は少しずつ少しずつ、澱のようにヨーコの心の奥底に溜まっていった。見て見ぬふりをすることで極力意識しないようにしていたが、空虚な心にはいつの間にか簡単には吹き飛ばすことのできない灰色の分厚い雲が覆い被さっていった。


ーこの人との将来がどうしても思い描けないー

お互いに年を取って白髪になった頃、夫と二人でお互いを思いやりながら穏やかな生活を送るという未来の絵が全く浮かばなかった。「若さと美しさ」を唯一の女の価値と堂々と唱える目の前の男と、一生を共にするということがヨーコにはどうしてもイメージできなかった。


別れたい……

そう思うのに八年かかった。いや、本当は最初の一年で結論が出ていたのかもしれない。しかしそれを封印して、気付かないフリをして、自分の本心を無視してやり過ごしてきた。そうすることで安寧の棲家を手に入れ、不自由なく老後まで暮らしていける生活に満足していくはずだった。自分の感情に蓋をして。自分を誤魔化しながら。しかしそれはヨーコの心の中だけで上手くやり通すには次第に困難なことになっていった。


案の定、ヨーコが三十を過ぎた頃から夫の浮気は頻繁になった。最初は隠れるようにコソコソとしていたが、そのうち目に余るような痕跡を平気で放置するようになっていった。シャツに付いたキツい香水の残り香や口紅の跡、ゴミ箱にあからさまに捨てられたシティホテルのショートステイのレシート、無断外泊は仕事の息抜きだと悪びれもせずに言い放つ。その相手は大半がキャバクラや出会い系サイトで知り合った、素人なのかプロなのかも分からない若い女というのが男の軽薄さを物語っていた。問い詰めたこともあったが、所詮相手は水商売や金目当ての女だ、本気なワケはないだろうと言い負かされた。夫は次第に開き直ると、誰のおかげでこんないいい暮らしができると思っているんだと逆にヨーコを責め立てた。それ以上は反論することもバカバカしくなり、虚しさと共に夫への愛情が薄れていくのを止められなくなっていった。慣れてしまえば夫の浮気などヨーコにとってはどうでもよかった。無感情の日々をただやり過ごす。そう決心してからは全てのものから色が消えていった。食べ物は味や匂いがなくなった。嬉しいことや心躍ることもなくなり、淡々と仕事をこなして毎日が過ぎていくのをただ見送った。そんなある日、鏡に写った自分の顔を見てヨーコは酷く驚いた。そこにあるのは能面のように何の感情も読み取れない、血の気の失せた見知らぬ女の顔だった。


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夫との夜の営みがなくなって久しい頃、夫の出張中、仕事の取引先の営業マンに誘われてお酒を飲んだ。向こうも妻帯者だった。お互い日頃のストレス解消のようなノリで一夜を共にした。わけなどなかった。ただ、日常のモヤモヤした納得のできない全てから、ひととき解放されたかっただけだ。そこに愛などは微塵もなかった。なかったからこそ、その一瞬に何もかも忘れて没頭し、貪りあい、慰めあい、満足しあえたのだった。しかし執着のないその空虚な関係は、反対に何もないからこそ思いのほか長く続いてしまった。

不倫の関係というのは「結ばれないと知りつつ強く惹かれあい、誰にも止められない大人の恋愛」だという限りでは決してない。意味のない、愛のない結びつきでも、お互いにどうしようもなく必要な存在というのはあるのだ。需要と供給の関係性とでもいうのだろうか。ヨーコは日常のやり切れないジレンマを、愛のない男と、時には痛めつけ合い、時には慰め合うためにカラダを重ねた。そこにあるのは逃避する自分を現実に繋ぎ止めるために感じるカラダの痛みと快楽のみ。心はわざと遠くへと飛ばした。決して想いを残さぬように、相手とはその最中も目を合わせないように努めた。ヨーコはなるべく男に乱暴にされることを望んだ。部屋に入るなり身に纏う全てを剥ぎ取るようにして脱ぎ捨て、何の前戯もなくいきなり肉体同士をぶつけ合うような激しい行為に及んだ。カラダの中心を容赦なく貫く痛みは生きていることの証明に思えた。やがてその痛みが無心の快楽へと変わるまで、無情の心を自分で慰めるように目を閉じて集中した。そこに愛など余計なものはいらなかった。ただ自分がいま生きていることを男のカラダを使って確かめたいだけだった。

事が終わると男と言葉を交わすことも極力避けた。まるでそこに相手の存在が最初からなかったように、シャワーを浴びて服を身に付けたら無言で部屋を出る。次に会う約束もしない。次に会うのは、夫との無感情の生活の中で自分の不誠実さが許せなくなる衝動に駆られた時。それは発作的な欲動の果ての絶望的な逢瀬だった。


ある日、夫から突然突きつけられたのは探偵事務所からの素行調査の記録だった。そこには営業マンとのメールのやり取りや、二人で行動した痕跡の一部始終が明確に記録されていた。

それまでのヨーコに対する態度からは想像できないほどに夫は豹変した。涙を流して怒り狂い、ヨーコへの人格否定の罵倒が連日続いた。可愛さ余って憎さ百倍とはこのことだ。いや、本当はそうではない。自分の所有物が勝手に自我を目覚めさせ、コントロール不可になって言うことを聞かなくなったことに対する怒りであり、プライドをへし折られた男の暴挙だった。その汚くも嘆かわしい言葉の報復に対して、言われるがままヨーコはうなだれるしかなかった。しかし頭の中は凪いだ海面のように静かに冷めていた。自らこの生活を破壊したことに対して不思議と後悔はなかった。夫に責められている間中、頭では冷静に全く別の思考を巡らせていた。それは自分でも空恐ろしいほどに、冷たい感情が脳内を支配していた。

「探偵ってホントにいるんだ…… 一時間の料金はどれぐらいなんだろう? それとも件数換算? 成功報酬? 一体どうやって尾行したんだろう…… 家を出るところから見張られていたのだろうか。車の後をつけてきてホテルに入るのを確認して出てくるまで、外で刑事ドラマのようにアンパンでも齧りながら張り込んでいたのだろうか…… 携帯のメールのデータって、どうやって入手するんだろう?きっと調査費用は高額なんだろうな…… 」などと、まるで他人事のように霞がかかったような頭でぼんやりと考えていた。

不倫を追求されているという実感も、罪の意識も不思議と無かった。感情を伴わない不貞行為は他人事で、どこか夢を見ているようだった。それでいて、何故か安堵感のようなもので満たされていた。これでやっと夫と離婚できる、そう思うと責められているのにどこか清々しい気分になるのだった。これでようやくこの男と離れられるという希望が、それまでの色のない景色に一条の光を差すようにヨーコの心を支えていた。


しかし現実はそう甘くはなかった。夫から請求された慰謝料はヨーコの年収の二倍の額だった。通常、離婚の慰謝料の相場は二百万くらいだと何かで読んだことがある。それの五倍。それは男のプライドをズタズタに傷付けた憎しみに落とし前をつけるために、まるで差し出させた懺悔の札束で妻の頬を張るような見せしめの金額だった。それくらいお前は酷いことをしたのだと夫は言い放った。女の不貞行為は男のそれとは全く別次元の悪行だと罵った。


それでもヨーコはこれで夫と離婚できると思うと、その途方もない慰謝料を喜んで支払うと思えた。その数字を「自由を獲得する値段」だと考えると、不思議と高くはないと感じるのだった。これで自由を手に入れられるなら安いものだと思えた。逆に現実味のある数字を提示されたことによって離婚が実現化することが異常に嬉しかった。「離婚」という二文字は、モヤモヤと白濁した霧の中からようやくその姿を表した幻の金の斧のように思えた。その姿が見えている間に、何としても手を伸ばして掴み取りたいという欲求がヨーコの心に炎となって立ち昇った。これはチャンスなんだ。そう感じる自分は果たして正常なのだろうかと自分を疑ったが、もう後戻りはしたくないという、心の中心に芽生えた強い思いだけは何よりも確かなものだった。


かくして夫から自由の身となり、誰も知らない土地へ行って生まれ変わり、自分の人生を一からやり直すために、ヨーコは一人この街へとやって来た。


あれから三年。人としてのまともな心を取り戻すには時間が必要だった。間違いはすでに遠い記憶の出来事になったが、一人になって自分を見つめ直すためのリハビリは続いていた。毎朝バルコニーに出て小さな緑たちを確かめる。瑞々しいその命に触れて、自分もまた生きてることを実感する。曇り空の向こうに必ずあると確信する光に向かってヨーコは顔を上げる。過去の空虚で色のない心は、少しずつ本来の彩を取り戻そうとしていた。


ー 続くー

*この物語はマガジンにまとめています。一話から全十話全てをお読みいただけます。


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