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「撮って観る」ではなく「撮る」

M9にしろ、M10にしろ、デジタルライカには設定で撮影後の自動プレビュー時間を《自身で》任意に選択することができる。正解はない。善悪もない。僕はこうゆう見解だけど、間違っているかもしれない。そうゆうスタンスが生きやすい。正見なんて、自分の主観から立ち上がりはしないし、持ちえもしないのだ。

僕の心地よいで話そう。いつだったかは覚えてないけど、自然と「プレビューなし=0時間」を選択するようになった。そのほうが、「シャッターを切るごとにワクワクする」「その瞬間に没入できる」という、要は

------------撮って-------------観る------------

よりも圧倒的に

------------撮る-------------

ほうが、心揺さぶる写真が結像するからである。

じゃあ、いっそのこと、そもそもにプレビューなんてできないフィルムや、その意図で設計されているデジタルライカの「M10-D」を選択すりゃいいんじゃないの?と言えば、僕はそうだねとは思わない。

なぜなら、

------------撮って-------------観る------------

の「観る」は、本質的な欲から立ち上がる行為だからだ。

観よう(見るが適切なんだけど、あえて観ると表現したい)と思えば可能だけど、その欲を律することで、出会える「何か」が確かにそこに存在する。

己を律した者だけが到達できる桃源郷がある

だったら、行こうではないか。楽しくないと人生じゃない。楽しくないと仕事じゃない。楽しくないと。生きる事自体が苦であって、その苦はポジティブで必要不可欠なんだけど、その苦を「楽しむ」と捉えたほうが楽しいに決まっている。

2019.2midより開始した「Hot rice is waiting」シリーズの反響がかつてないほどに温かい。「温かいご飯が待っているよ」という思いでレンジファインダーを覗くと、いつだって素晴らしくエモい世界が広がっているんだ。

https://note.mu/s_of_nostalgia/n/n457b0237847a?creator_urlname=s_of_nostalgia

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