記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

【十二国記 感想】⑤ 「白銀の壚 玄の月】に描かれたもの

ネタバレあります

 粘着質な性格の故、天にばかり気を取られています。大局観はないんか?と、自分に言いたい。

 そこで、タイトルに挙げた本書をどう感じたか書いておこうと思います。これだけ楽しませてもらって、それが筋というものです。
 発刊からそろそろ半年、今さらかもしれませんが自分自身の言葉で、自分の感じたことを書きます。


物語の縦糸と横糸

 まず、縦糸。これはもう、泰麒と李斎が戴国及び驍宗を救う道のり。
 これがなければ始まりません。初読では、4巻目の残りページの厚さが5mmくらいになっても光明が見えず、「えっ嘘、驍宗死んじゃう?マジ?マジ??」と、本気で4巻完結を疑ったのでした。何回もページボリュームを確認しました。
 そして驍宗処刑の場、泰麒が行動を起こしてからはあれよあれよ、名シーンの連続、小説を読む醍醐味ここにあり!でした。

 私の中№1は、最終章、延王尚隆の言葉。
 「引き受けた。諸国が支援する ――― 存分にやれ」
 くうぅぅ!この分厚く苦しい部分の多かった物語の、カタルシスここに極まれり!(足はジタバタしています)
 わたしには、尚隆のこの一言に尽きたのです。やっぱり「十二国記」はこーでねーと!!

画像1

 そして、横糸。これは主に李斎が巡り会う、苦難の地を生きる戴の名もない人々でしょう。
 私は、作者小野不由美はこれを描きたかったのだと思うのです
 ですからラスト、物語が動くまでこの小説はこんなに長く、厚いのダ。
 当然驍宗の捜索は苦難を極め、すぐに手がかりが得られるなんてことはない。物語の構成としても当然のこと。
 しかしそれ以上に、作者はこの捜索に登場する一人一人を、しっかり描く必要があった。もちろん戴の苦しみを描き出すためでもあるけれど、「苦難に立った時の人の在り方」を描き出したかったのだと思うのです。

画像2

 これは2013年に出版された短編集「丕緒の鳥」の時にすでに予見されました。
 それまでのシリーズは、王や麒麟が主人公で、玉座に就く・麒麟として覚醒し自分の半身(王)を見つける・目指す国を形作る、といったヒーローヒロインたちの波乱万丈の物語。もちろんその中に骨太に人間が描かれ、私たちに問いかけるから、こんなに素晴らしいのですが。

 しかし「丕緒の鳥」には、王や麒麟は直接登場しません。各物語の主人公は組織の底辺にあり、国を動かすような立場ではない。波乱万丈のダイナミックな物語も展開しません。
 泰平とはいかない国の自分の置かれた立場で、自分の務めを誠実に果たそうともがき、悩み苦しむ「普通の」人々の、自己の在りようを見つめる物語。

画像3

 この短編集が出たとき、久々の新刊で飛び上がるほどうれしかったのですが、内容を読んで唸りました。

 一つは、あまりに重厚な、これまでのシリーズと一線を画す人間ドラマに。
 そしてもう一つは、「小野先生、こっち行ったかー。」という、想定外まさか感に。こんなの書いちゃったら、もう王様や麒麟さんが、スカッとさわやかに活躍するお話、書いてくれないんじゃないの?という・・・・・・泰麒と李斎の続き、書いてくれるんかな?半ば本気であきらめました。
 シリーズ全編を通して、泰麒にはどうしてもどうしても、もう少し幸せになってほしかったからね。

 だがとうとう!満を持しての「白銀の壚 玄の月」。
 泰麒・李斎・驍宗・その他レギュラー陣のストーリーと予想を超えた重厚な人間ドラマが合わさった、渾身の一作が私たちに提示されたのです。

 これを受け止めずして何とする!

画像4


初読と再読

 1,2巻出版直後、読まれた方のつぶやき等をみると、新刊の喜びやストーリー予想の他、「新しい登場人物や名称、情報量が多いよー」「苦しいよーモヤモヤだよー早く次をー」といった内容が多く見られました。私もまったく同じです。李斎や泰麒と早くから行動を共にする人たちでさえ、この人どういう人だっけ?誰が何をする人?笑
 当然でしょう。だって気持ちは、早く驍宗を見つけ阿選をやっつけて、みんなで肩を抱き合って、めでたしめでたしになってくれー、ですから。どうなる?どうなる?と逸るばかり。ところが・・・

 分け入っても分け入っても戴の山・・・いや戴の民か orz** **  無季自由律

 残りの3,4巻が出ても、初読は同じでした。まだ?まだなの?ここまで引っ張る必要ある??そして1回目読了。しばらく放心し、逸る気持ちで読み飛ばし気味だったからもう1回読まねばと思いつつ、終盤までの苦しさを思うとすぐに取りかかる気にはなれませんでした。
 重い、重いよぅ(ノД`)・゜・。

 しばらくそんな状態でしたので、異例のアニメ方面へ走り、おかげでアニメオリジナルキャラから新たな視点をもらったりしたのですが、それはまた別の話。

画像5

戴の《仁道》

 さて、意を決して再読に取りかかりました。
 すると、思いのほかするすると進むのです。ストーリーが見えていて落ち着いて読めたからでしょう。じっくりと細部を整理し、精読できました。内容は相変わらず重いのですが、思ったほど辛くない。
 むしろストーリーより、道観や神農の人々の信念と行動、白幟の子連れの女性や鉱山の差配・建中のひたむきさ、土匪の朽桟や牙門観の女傑・葆葉の義のあり方などに心を奪われました。
  戴という苦しみに満ちた国で、色々な人が色々な思いで色々な行動を示しながら、生きている。

 特に文州という驍宗に縁の深い地で、その地の人々の目を通して驍宗の国民への慈愛がしみじみと描かれるのですが、それだけではない。その民自身が、こんなにも戴に根付いて戴の国の分かちがたい一部として生きているのですよ、と我々に訴えかけ、私はそれを驍宗様に教えてあげたい!

 「テンカハジンドウヲモッテコレヲオサムベシ」とか、天は王に言うわけですが、そんなこととは別モノに、人々はちゃんと心に「仁」を持っています。そして仁によって自分の生き方を定めています。天よ、大きなお世話じゃ。

 「仁」①思いやり。いつくしみ。③モモ・ウメなどの果実のうち、堅い核の中に包まれている柔らかい部分。ー岩波国語辞典より抜粋ー

 任侠にも通じるこの文字。私は牙門観の葆葉という人が深く印象に残ります。また彼女には恭の(小娘)女王・珠晶と通ずるものを感じるのです。(「図南の翼」参照)

画像6

 珠晶は、王の不在で荒れる恭国有数の大金持ちのお嬢さん。外では人が飢え妖魔に襲われても、自分は安全な家に住み贅沢な食事ができる。そのことを心苦しく思い貧しい人々に何かしようとするのだが、人々は彼女の境遇ゆえに逆にこれを受け入れない。
 ひがみもあるだろうし、一時的な解決にしかならないと人々も彼女自身も分かっているからだ。

 彼女は、自分がお金持ちで苦労知らずだから人を助ける権利も憐れむ権利もない、と言う。ご飯を食べられない人に何かしてあげたくても、いい気になってと責められ、ひもじい思いなんかしたことがないだろう、贅沢をしてと責められれば、そうよお金持ちだから、と高笑いしてみせるしかない。自分の食事を貧しい人と同じにしても、それはただの自己満足。ひもじい人の助けにはならないと知っている。(これは「黄昏の〜」で戴麒と李斎を引き留めなかった景王・陽子の心情とも通じますね。二人とも自分をだまさない。)
 またこうも言う。鉄格子付きの立派な家に住んでいるから、外で妖魔のために人がどんどん死んでも、可哀そうにと言う権利は自分にはない。彼女に期待されるせりふはこうだ。「どうして、杖身(用心棒)くらい雇っておかなかったの?」 マリーアントワネットか!

 そして珠晶は根本的な解決にまっしぐら!となるわけですが。

 身を削られる思いを自分一人の胸に納め、本質を見失わない。表面的な非難など高慢なお嬢様の顔をし、高笑いで吹き飛ばす!珠晶!!好きです。  

 葆葉も同じ。戴の前王の贅沢三昧につけ込み暴利をむさぼった彼女は、過去のその商売について「私などが賢しげに義を唱えてそれを拒んだところで、ろくでもない役人がろくでもない商人の手に渡すだけですからねえ。どうせ撒き散らされる財なら、私の手の中に落ちたほうが少しはましなことに使えるってもんです。」と豪華絢爛、キンキラ金の広間で平然と李斎に言い放ちます。そして、「・・・何がましで何がそうでないかは、あたしが決めることだよ」と。

 この葆葉の場合の「仁」は、任侠でもあるけれど、それより堅い殻の中の柔らかい中心ととらえたい。誰に何と言われようと核を崩さず平然とあり、人としての大切な(たぶん柔らかい)部分を守り通して行動を貫く。
 彼女は最期まで、目だけが油断ならない慈母のような顔を崩さなかったのではないでしょうか。見事です。(能面のような、白塗り厚化粧赤い口、薄笑いが顔に張り付いている個人的イメージ笑)

 そしてもう一組印象に残るのは、瑤山の麓、新月ごとになけなしの供物を川に流す、名前さえ明かされない一家です。父親は飢えのためすでに上の娘を亡くしている。その供物を家族で分ければ少しは飢餓はおさまるだろうと、時に心は揺れる。無駄なことをしている、娘を死なせてまで、莫迦だよなあ、と・・・。

 だが、彼は負けたくない、一家をどん底に追い込んだ間違った人間に。だから、死んだとされる恩人に感謝の気持ちを持ち続け、恩義の気持ちを忘れないということを形にする。
 この父親は、時に堅い核が崩れそうになりながらも、一番大切な気持ち(仁)を保ち続ける。まだ幼い娘も父親の意を酌み、亡くなった姉が作ってくれた大切な鈴付きのお手玉を供物の籠に入れて流す。

 本人たちにとっては無意味に思えるこの行動が、やがて積もって涵養山の地中深くにいる驍宗を復活させる――。一見主人公復活までの軽い伏線としか見えない1シーンですが、この小説にとって、非常に重い意味を持つように感じます。

白圭宮の人々

 李斎サイドから戴の人々について書いてきましたが、王宮にも同じように多くの普通の人がいます。
 まず印象に残るのが、最初に泰麒に対応した平仲です。彼はそれまで、王や麒麟の近くに侍る立場ではありませんでした。国政を動かすような大きな力はないが、国を司る大きな組織の一員として自分の役目を理解し、誠実に仕事に向き合ってきた一人。しかし王宮の歯車が噛み合わなくなり、場当たり的に泰麒に近侍する仕事を与えられる。
 慣れない役目ながら彼なりに、今までと同じように務めを果たそうと誠実にふるまう。けれどもそれが災いし、魂を抜かれ、傀儡として六寝の住人になってしまう。

 何より不幸なのは、そこに阿選の意思も特に働いていないと思えることです。平仲は阿選に逆心など持っていなかった。阿選だって特に平仲に注目もしていない。ただ役目に忠実であろうとし(泰麒の人柄もあるでしょう)、泰麒に心を寄せて誠実に仕えた。そのことでほとんど自動的に妖魔に心を取られ、回復不能になってしまう。うまく機能しない巨大な組織の中で、無意味に疲弊してしまう歯車のようです。

画像7

 また阿選の麾下でありながら放置される多くの人たち。阿選の部下だからこそ身に染みてわかる、阿選の大逆の罪深さ、国の悲惨な状況。そのことと、阿選の麾下であるという誇り、主との絆。その板挟みに苦しみ、なおかつ主から全く顧みられないという虚しさ。
 麾下の一人一人がどのようにそのこととを消化しようとしたのか、随所で心情が描写され、胸が痛みます。

 阿選麾下の友尚が王師の立場を捨てて李斎らに付いた時、「反民を匿った者を討つのは命令だからやるが、そのことを知らずに暮らしていた隣家の住人まで殺すのは本当に嫌だった」と泣いた友尚の部下。
 阿選を信頼し、やっと役目を与えられると喜んだものの魂を抜かれ、与えられた命令の意味すら分からぬまま、結果として驍宗を弩箭からかばって死んだ帰泉。殺すな、という「誰か」の命令だけを胸に抱き、喜ばそうとした「誰か」の顔すら思い出せないまま。
 帰泉の役回りの複雑さ、皮肉さと相まって、忘れがたい人物です。

 これらの人々は、先に書いてきた葆葉や朽桟らとまた違い、自分で心に決めた主を持ち、組織に属しながら、自分の「仁」をどこに据えるか苦悩する人として印象に残ります。

 それにしても、王宮に戻った泰麒には作中の人々も、読者もずいぶん翻弄されました♡
 上記のような王宮の人々を描くためにも泰麒は白圭宮に行く必要があったのですが、泰麒自身は、当然「戴の民を救うため」。
 泰麒が慈悲の生き物「麒麟」であり、「戴の民を救いたい」という真意だけは疑いようがない。そのことにより、泰麒は今作のトリックスター!となったのでした。

 「驍宗を救いたい」のでないところがミソ。私たちは泰麒の「戴を救うのだ」という心を信じてついていくしかありませんでした。
 読者をこんなにもドキドキさせる作者の手腕にも感服するしかありません。あのいとけなく、驍宗の足手まといになるまいと必死だった泰麒が・・・。
 蓬莱で決して幸せとは言えなかった「人間・高里要」の成長と強さがうかがわれます。役割柄、あまり内面を知ることはできなかったけれど。

画像8


兵と民

 もう一点、このことについてぜひ触れておきたいです。
 ここでいう兵は、王師や州師、つまり正規軍のこと。対して、民とは民間人のことです。言い換えると「軍と民間人」。ちょっと心がざわつく言葉です。

 私はこの感想のテーマとも関わって、軍隊と民間の人ということについて考えさせられました。

 作中で、自分も禁軍の師帥だった項梁が、「阿選を倒さねばならぬ」と言う素人・去思に「軍」というものを冷静に分析してみせる。戦は、数で勝負が決まる。軍は装備が整い、厳しく訓練され、組織されている。堅牢な隔壁や城壁を攻める場合など、それぞれセオリーがある。
 そのような軍を整えるためには莫大な財と時間が必要である。そして、反乱軍である自分たちがそのような大規模な動きをすれば、ことが成る前に阿選軍に露見し、たたかれてしまう。
 苦しいデッドエンドです。

 また土匪の朽桟らも、自分たちにできるのはささやかな抵抗であり、正規の王師州師が本気を出したら到底太刀打ちできないと、重々承知している。

 物語終盤、その正論の通り、驍宗奪還を試みた李斎陣営の軍の経験のない々(鄷都、朽桟、葆葉、余沢、朽桟の息子ら・・・・)は、民間人としてあっけなく軍の前に散りました。
 物語的な奇跡の逆転はなく、私たちの世界でもあちこちで起きていることが、小説の中でも厳しい現実として描かれる。軍の前に民間人は無力である。

 そこまで含めて、作者小野不由美は、苦難に生きる普通の人々を描き切ったのだと思うのです。

 鄷都、朽桟、葆葉ら、読者の心をつかんだ人物でさえ、感傷的でドラマチックな死に際を描かない。戦乱の中では、死ぬ場面すら誰も見取れないという現実の通り。後から実は生きていたという、ご都合主義もない。
 しかし、「雑魚キャラ」だからあっけなく死んだのではなく、最も重要な「普通の民」だからこそ、圧倒的な軍の前に散る「普通の民として」死ぬしかなかった。

 そこからは物語の終焉に向け、縦糸である李斎や泰麒、驍宗の出番が多くなるのですが、それでもなお、この物語で描かれたものは、苦難に生きる普通の人々であろうと私は思うのです。

 だから、作者はこの長編のラストシーンを、驍宗たちの姿でなく、去思と園糸という、玉座とは無縁の人々で締めくくっています。

 去思は、戦いのうちにいつどうやって死んだのかもわからない多くの人々を悼みます。園糸は項梁や去思らの戦いから取り残され、身を寄せた里で厳しい冬を乗り越えられなかった人々を見送ってきました。
 それでも、項梁は去思に「生き残った者の数を数えるんだ、こうときは」と励まし、園糸との約束を果たすと空を見上げる。
 同じ空の下、園糸はまだその約束を知らぬながら、新たな居場所を見つけ、土を耕し種を播きながら、今自分の体を動かしていれば「未来に繋がり、生きていける」という手ごたえを、栗少年とかみしめている。

 いいラストシーンです。当然最後の最後は、正史(戴史乍書)の漢文調でびしっと締められるわけですが、驍宗たちの姿は、その中にわずかにうかがえるだけです。

 私を含め多くの読者は、驍宗たちがさっそうと王宮に乗り込み、阿選やらを懲らしめ、国を取り戻す姿をつぶさに堪能したかった笑。でも、この物語にはこのラストシーンこそがふさわしいのでした。

画像9

 蛇足です。一介の見習い道士である去思が、戴の救済のため一片の疑いもなく最後まで李斎たちに付き従い、とうとう驍宗本人から身の証である宝剣を託され、ラゴウ君まで乗りこなし(しがみついてw)切り札である延王召喚という大技を成功させたところに、大きな拍手なのでした!


思いの丈をつづりました。暑苦しい長文をここまで読んでくださり、ありがとうございます。
これでまた、心おきなく重箱の隅をつつくように天などを考察して楽しむ方面に戻れます(;^ω^)   


つづく

リライト版(2020.10.22)あり


この記事が参加している募集

読書感想文

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら嬉しいです😆サポート、本と猫に使えたらいいなぁ、と思っています。もしよければよろしくお願いします❗️