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【十二国記感想】① 天の仕組みを暴いてほしかった!

ネタバレあります

 最新刊が出そろって4ヵ月弱。4冊を3回読み直して、勢い余ってそれまで手を出さなかったアニメまで見てしまいました。

 けれどもまずは最新刊が出るまで。


  「麒麟通信」の更新情報を求めて、ボタンがすり減るほど?ポチりながら、「黄昏の岸 暁の天」の続きがどうなるのか妄想に妄想を重ねました。当然ですね。(以下待ち遠しさのあまりつもりに積もった大外れの妄想が、今さらながら書き連ねてあります。さらっと笑ってやってください。)

   "とにかく泰麒にはもう少し幸せになってほしい"という切なる願いと同じくらい "天の仕組みをがっつり解き明かしてほしい"という思いがありました。

 その願望のため"ただの人となった泰麒は、天の仕組みを必要としない【人の世】を作ってしまうのではないだろうか""その過程で天のうさん臭さが暴かれ、天などというものは瓦解し、ついでに読者にこのような世界がなぜあるのか示されるのではないだろうか"なんていう妄想を、希望半分、恐れ半分いつもぐるぐる考えていました。


 いやいやいやいや  笑   そしたら泰麒と驍宗のハッピーエンドはなくなるよね。戴の民は、天の理の中で懸命に努力してきた人々はどうなる、ないないないない  と否定しつつ、どうしてもあの世界の不思議を、かっちりと構築された物語世界の設計図を知りたいと思ってしまったのでした。

 まぁ、それはなかったわけだけれど。

 もう少し、上記のような破滅的妄想をしてしまった理由を書きます。(私の願望以外で)

理由1》泰麒は角を斬られ、「ただ人」となってしまっているから。また最初から胎果として、麒麟の本性がほとんど身についておらず、天の摂理に染められていないから。

理由2》さらに、ほとんどの教育を現代日本で受けた泰麒・高里君は、民主主義とか合理的な考えかた(魔法や神を実在のものとはしないような)が、身についているから。 

 →反論 泰麒は、一度蓬山に帰り驍宗を選んだ頃、素直に異世界と自分の立場を受け入れ、自分の務めを懸命に果たそうとしていた。

理由3》李斎は、天の実在を知り、摂理を押し付けながらも戴を救わないことに深い絶望と強い怒りを感じ、その存在を胡散臭く感じているから。実在すると知った玉京に乗り込み、天帝と対峙する気満々だし。

理由4》「黄昏の岸~」6章3、"天は無謬ではない、それなら人は自らを救うしかない"という陽子の言葉。そして泰麒と李斎が金波宮を出て戴に戻る決心をした時の泰麒の言葉。「天を当てにしてどうします?助けを期待して良いのは、それに所有され庇護される者だけでしょう。戴の民はいつから、天のものになったのですか?」「そもそも自らの手で支えることのできるものを、我と呼ぶのではないんでしょうか。・・・」いよいよ天なんかいらない感じです。

理由5》十二国記シリーズが進むにつれ、ますます「人を描く」重厚さが増しています。その人々を描くために必要な舞台として十二国記の世界があるので、大本を崩してしまっては本末転倒ですが、泰麒や李斎の、人としての本当の生き方や救済を書くならそうするしかない!などと盛り上がっていたのでした。(お恥ずかしい。)


 天崩壊方向に話が進むのではないか。天に乗り込んだ李斎と泰麒、ついでに陽子や尚隆、六太らも大暴れしたら、それはそれでスカッとしそうです。今挙げた人々は、きっと天などなくてもたくましく人の世を作っていくことでしょう。

 しかしそれではその中で足掻いてきた人々、ひいてはシリーズで描いてきたことが台無し。そもそも登場人物はその胡散臭くもどうにもならない現実を踏まえて、その中で自分の納得いくように生きていくことを選んでいるわけだから。生きている世界がすべて納得いくものではない、不条理もある、思い通りにならないことは、現実の世も同じ。そもそも「ファンタジー世界の隅々まで冒険する」ことでなく、人を描く作品だからやはり、ないか。(なかった)それに、やっぱり泰麒は驍宗を救わねば!そっちか!


 結局きちんとお話を収めてくださいました。驍宗落盤から脱出の場面、泰麒が転変する場面、ああ、待った甲斐がありました。最後は漢文調でびしっと締められていて、やはりこれだ!と。

 でも十二国記の不思議な天の摂理、考えるのをやめることはできません。そのあたりをうろうろする感想文になっていきそうです。 

つづく

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