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心の在り処と私の居場所

心はどこにあるのかと、小さい頃きっと誰もが疑問に思ったはず。胸のあたり、つまり心臓にあると教わったときは、本当かなあと子供ながらに疑問だった。

中学生なってmindとheartという英語を学んだとき、私の理性はmindにあって、私の感情はheartにあるんだ!としっくり来たのを覚えている。

今となってはこれも、私にとっての「私」の感覚とは違う。

ここ数年、私が大切にしている言葉の一つが、どこで聞いた誰の言葉だったか忘れてしまったけど、たぶん医者か脳科学者だろう、「感情も電気信号に過ぎない」というもの。

少し冷たく聞こえてしまうかもしれないけれど、何かしらの内外要因によって人間の脳は電気信号を発し、身体に何かを伝達する。感情も理性も同じ脳から生まれるもので、それは身体それ自体には宿りえないのだろう、と。

心とは脳であるとも言えるし、心はどこにもないとも言える。ただ心があるという認識を持っているだけ、というか。心と体、意識と身体は別物である――と言うとマインドフルネスっぽくなってくる。

「心」とは少し違うけれど、「私」はどこにいるのか、については、ずっと変わらない認識がある。「私」のことを斜め上から見下ろしている「私」がいて、漫画みたいにコマ割して、トーンを貼って、モノローグがついて、セリフを言うキャラクターたちがいる。「私」はいつでも、ほぼ常に、「私」の頭の中でリアルタイムに更新される漫画の主人公だった。

以前にも書いたけれど、アンネ・フランクは日記帳にキティという名前を付けて、日記を書くという自己との対話のなかでキティという人格をつくりだしていたのだし、モンゴメリもガラスに映る自分を友達と呼んで話し掛けていたというから、おおざっぱに言って同じようなことなんだろうと思う。

さて、どちらが本当の「私」なのだろう。
「私」の感情を冷静に見つめる「私」。理性と感情、mindとheart、心と体、意識と身体。

それぞれが別のものだと思えば、心や体をうまくコントロールできないことで自分を責めないでいられる。そう思うようになったのも、少し意味合いは違うんだけれど、これまたどこかの誰かが言った「私は一人ではなかった。孤独がいつも傍にいた」という言葉がきっかけ。

嬉しいときは、喜ぶ私の姿に喜んでくれる私がいて、苦しいときには私が私を励ましてくれたり、さみしいときには私が私を見守ってくれていたりする。

魔女の宅急便のエンディングで流れる「やさしさに包まれたなら」で言う「神様」は、自分自身でもあると思ってる。


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