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私の父は妊娠8カ月だった

姉がいる。私は常に「末っ子は甘やかされて育ったからわがまま」というレッテルと戦いながら生きてきた。という話はまた今度するとして、大切なのは私は妹か弟が欲しかったということだ。今となってはそんなもの絶対にいらないんだけど、小さい頃は欲しかった。そして3歳か4歳か5歳かそのくらいまでは「もうすぐ私はお姉ちゃんになる」と信じていた。

父のぽっこり膨らんだおなかを見て。そのなかには赤ちゃんがいると思っていたから。

父と母、姉、そして自分の身体的な違いというものに思い至ったのが何歳の頃なのか、なんてことはまったくわからない。大人と子どもという区別があるし。でも2歳違いで男の子のいとこはいたから、一緒にお風呂に入ったりプールに行ったりして、違うってことはきっと認識していたんだと思う。

「男女七歳にして席を同じゅうせず」じゃないけど、今の日本では(でも)、戸籍上の「性別」が違えば上履きの色が違うし、名前の順も区別されるし、体育の授業も違うし、小学5年生くらいのときに受ける保健体育の授業も違う。

そもそもそんな区別がなくても、私たちは「このひと男だな」「このひと女だな」とほぼ自動的に勝手に認識している。なぜ?なんでわかるんだろう、男なのか、女なのか。ここでは「ゲイっぽい」とか「オカマっぽい」とかいうことは一切置いておいて、端的に言えば性器の違いってことにしておこうと思うんだけど、わかる。男か、女か、なぜかわかる。

あ、男か女かわかるって、すごいことなんだ、と私が知ったのは「ドラゴンボール」を読んだとき。12歳まで「じっちゃん」(性器的に男)以外の「人間」を見たことのなかった孫悟空は、ブルマ(性器的に女)の股間を「パンパン」し、「チンチン」も「キンタマ」もないことに驚愕。そうしてはじめて「人間には男と女がいる」ことを知ったのである。

その後、彼は次第に「男か女かを目視により判断する方法」を学習していくんだけど、果たして私たちは、いったいどうやって、「男か女かを判断」しているんだろうか。

股間をパンパンしないで確信を得るなら、それこそ髪型、服装、体つき、化粧をしているとかなんとか、いろいろあるけれど、たとえ「女のような体つきで、女のように着飾っている男」がいても、それはたいていの場合「女のような体つきで、女のように着飾っているが男」とわかる。なぜ?

もう一つ疑問なのは、相手が男なのか女なのか、わからなくてもよくない?っていうこと。なんで私たちは「あ、男だ」「あ、女だ」っていちいち認識するんだろう。この能力または機能は、何のために発達したんだろう。

種の保存のため、生命を次の世代へつなぐため、別の性別のほうからパートナーを選べよ、どんなに魅力的に見えても同じ性別の個体を選ぶんじゃないぞと、DNAが誘導しているんだろうか?

だからその「本能」に従って、女は女であることを、男は男であることを、より識別されやすいように、身体的な特徴を隠さず、「男女」それぞれの「らしい身なり」をするようになってきたのだろうか。

ドラゴンボールの悟空に話を戻すと、彼は生まれて初めて出会った「自分と異なる性別を持つ人間」であるブルマに対して、恋愛感情はもちろん本能的な性欲も示していないし、「性的に魅力的」という認識すらしていない。彼のDNAは「お前は男だ、手近な女と子どもをつくれ」っていう働きかけをしなかった。

私たちも、同じなんじゃないのか。「男と女は惹かれあう」のが「自然」で「当たり前」なんて、勘違いなんじゃないだろうか。本当はDNAにそんなこと書いてないけど、子孫が残らないと困るから、「そういうことにしておいた」だけなんじゃないのか。そうしていろんな男女の数式をつくって、その原理原則に従わなきゃいけないってすり込まれたんじゃないのか。

なんてことを、はじめて「女の子」に恋した13歳の春からずっと考えてる。


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