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マドロスさんの恋

前の家に住んでいた頃、近所に私が勝手に「マドロスさん」と名付けた白人のおじいさんがいました。

その人は風が吹けば飛びそうなくらい痩せていて、いつも船乗りのような格好をし、船乗りのような帽子をかぶり、パイプこそくわえていないものの、普通の水兵さんよりはえらく、マッカーサー元帥よりは格下、といった雰囲気のファッションで歩いていました。

人種が違うのでマドロスさんが一体いくつなのか見当もつかず、さらに、彼の生活背景がまったくわからなかったので、街を歩いててマドロスさんが目に入ると、つい目で追わずにはいられませんでした。

この人どうして日本にいるんだろう、もしかして本当に若い頃船乗りだったのだろうか、あるいはヘミングウェイみたいに晩年を異国で過ごす世界的な作家さんなのだろうか、それとも、ひょっとしてイギリスあたりの特殊部隊から派遣された、リタイヤ老人に身をやつした工作員なのだろうか。

などと、想像力の翼をむやみに広げながら興味しんしんに見てたのです。

ところがそのマドロスさんがある日突然、若い日本人女性を連れ歩く姿を見かけるようになりました。

若い、とはいってもたぶん40代くらいでしょうが、髪の長い、海外暮らしの長そうな濃い目の化粧をした女性です。

そしてその、マドロスさんにとってはたぶん娘くらいの年齢の女の人と、腕を組んで歩くマドロスさんはとても嬉しそうでした。
男の人が鼻の下を伸ばす、という表現に国境はないのだと知ったのはこの時です。

江戸の昔に名奉行とうたわれた大岡越前守という人がおりましたが、あるときその越前守が難しい裁きにぶちあたって裁きに困り、年とった自分の母親にむかって、

「母上、女とは一体いくつまで現役でいるものなのでしょうか?」

とたずねたところ、

老母が「灰になるまで」という答えの代わりにただ黙って火鉢の灰をかき回していたという有名な逸話がありますが、

そのときのマドロスさんもまた、まぎれもない現役の男の顔をしていたのです。

ところがその数ヶ月後、久しぶりに見たマドロスさんは別人のようにしおれていました。

その姿は病気に罹ったインコのように生気を失い、背中を丸めて歩くその隣に女性の姿はありませんでした。
それは見るからに恋を失い意気消沈した男の見本だったのです。

私はああそういうことかと思い、彼の後をストーキングしながらいつしかテレパシーで話しかけていました。
マドロスさんどうしちゃいましたか、ちゃんとご飯は食べていますか、つらい時はテレビをつけてお笑いでも見るといいですよ。

話しかけるという選択肢がなかったのは私がそういう性格ではないからです。けれども、それからしばらくの間、私はマドロスさんを見かけるたびに後ろからパワーを送り続けました。

ところがそれから数ヶ月後、私はまたしてもマドロスさんが若い日本人女性と歩いているのを見ました。

今度の女性はいとうあさこさんに似た雰囲気の快活そうな女性でした。その女性は完全にマドロスさんを制圧し、マドロスさんもまた嬉しそうに彼女に降伏していたのです。

ああ良かったですねマドロスさん、また春が来たんですね、と私はひそかにお祝いの言葉を送ったものですが、今度の破局は前回より少し早く、3ヶ月後には再びマドロスさんはボサボサになって歩いていました。

そういうマドロスさんの変遷を私は2年ほどの間に何度か見ました。そのたびに離れて見守るうちに、私は隣町に引っ越し、それきりマドロスさんの姿を見かけることはなくなってしまいました。

マドロスさんの行動範囲は意外と狭く、隣町まで来る人ではなかったのです。

それからさらに8年の月日が経ち、私はいつしかマドロスさんのことを完全に忘れていました。
去る者は日々に疎し、とはよく言ったものですが、目の前に姿がないと、人はどんどんその相手を心のコミュニティから遠ざけていくものです。

ところが今朝です、まさに今朝です。私はふとたまには気分転換に隣町のカフェで仕事をしようという気になり、パソコンをカバンに突っ込んで線路を超えていきました。

そして私は見たのです。

おそらく今や80は超えたであろう後期高齢者のマドロスさんが、それまで見た中でいちばん若く、いちばん綺麗で、いちばん頭も良さそうな日本人女性を連れて歩いているのを。

こんなことを小説や脚本に書けば「御都合主義でリアリティがない」と突っ込まれてしまいそうですが、でも現実にはおうおうにしてこのようなことがあるのです。

私は仕事をするためにスターバックスに入りました。

荒唐無稽とか奇想天外が許されるのはリアルだけだよな、と思いながら。

#コラム #佐伯紅緒 #エッセイ #下町 #恋愛 #人生

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