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『痛みと悼み』 二十五

茶話会の終わったお昼過ぎ、皆の話をめぐむは聞いていた。今日の説教のテーマの話−心の貧しい者は幸いであるという、聖書からの引用で、それらの者は幸いである、それは満たされうるからだと言っていた−に関して、輪の中のひとりの年老いた男性が、自分たちが聡二さんの教会に来るまでの人生の失敗を楽しそうに話していた。アルコールで周りに迷惑をかけることを繰り返し、生活が乱れて自暴自棄になって路上で生活していたとき、聡二さんがそれでもしつこいくらい諦めずに来てくれたこと、教会の名刺を置いて言ったこと、そして、最後の一言がとても嬉しかったことを、めぐむが教会に来るようになってまだ日が浅いことを意識してだろう、わざわざ話してくれた。普段、こんなことを言う人じゃないんだよと、後で聡二さんはめぐむに話してくれた。最後に話してくれたこと、それは、あなたを教会は必要としているんだと言われたとことだった。今までそんなことを言ってくれた人はいなかった、言ってくれたことはあっても、それは貧困ビジネス−めぐむもなんとなく知っていた、生活保護の代理受給という形で彼らの生活保護をピンハネし、そのかわり粗末で不衛生な住まいに何人も押し込む−くらいで、分かっていてもそれに縋るしかなかったのに、そうじゃない人から言われたこと、それが嬉しかったと言った。

 「それは、どんな風に必要だと言われたのですか。」

 唯一、めぐむが男性に話した質問だった。

 「そう、普通だったら、そんなこと言われても鼻で笑ってあしらうよね。でもね、富永さんは、今のあなたが、自分の失敗だと思うことを抱えて教会に来てくれたら、それでいいんだってね。失敗に気づいてそのまま来てくれること、気づきや気持ちを他の人と共有することが、ほかの人を助けることになる、それが必要なことだって。そんなこと言われたらね、あなた。」

 そこで男性は、言葉を詰まらせる。暖かい沈黙がその間を埋める。周りで、パイプ椅子に座っていた5、6人の同じような男性が、俯いて微笑んでいた。皆、黙って頷くようにパイプ椅子の足元を見る。

 めぐむは、教会で聡二さんがやっていることと、今日の説教の意味が少し分かったような気がする。貧しい者は幸いである、それは、めぐむのことかもしれない。でも、めぐむは、今、自分自身が救われる価値があるのかさえ疑問に思うほどの、自覚できない失望の中にいる。それは、警察署からの帰りの轟音の川の音とともに、めぐむの中に静かに根深く横たわる。

 茶話会がお開きとなり、紙コップなどを片付けて、また、軽トラックの置いてある駐車場に向かうところだった。信者の人たちを見送っていた聡二さんが、最後になっためぐむを、また、駐車場まで見送ってくれた。

 「また、来てくれると思ってたよ。」

 「一つお聞きしたいことがありまして。」

 「聞きたいこと。」

 聡二さんは、道で珍しい鉱物を見つけた子供のように、並んで歩いていた右側から覗き込むようにめぐむを見る。頭一つ分身長の高い聡二さんの高い鼻が正面から見える。めぐむは、駐車場にひかれたバラスの上で立ち止まると、少し軽く息を吸って、それから吐き出すように尋ねる。

 「あの、取りにいらっしゃった本のことです。檀一雄の全集。なぜ、あれを取りにこられたのかなあって。本当は、こんなこと、この仕事では聞いちゃいけないんですが。」

 「そのことに、興味を持った。」

聡二さんは、面白そうに答える。

 「どうして、気になったのか、先に聞いてもいいかな。」

 聡二さんは、めぐむの好奇心の源の方に興味があるようだった。めぐむは、少し考えを巡らすようにしばらく、聡二さんの脇の駐車している自分の軽トラに目をやりながら、おもむろに口を開く。

 「わかりません。でも、普通、何かを取りに来られる方は、大事な金銭的なものの確認に来られる方とかが多かなと思います。富永さんは、あの本だけしか要らなかったとおっしゃったので、あの本ってよほど大事だったんだろうなあと思って。」