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エッセイとコラムの書き方を知る

〈はじめに〉
※これから語られる言葉は少し長いかもしれませんが、なんども読み返してください。
※できれば声に出して読んでください。文章のリズム、語感がしぜんと身につきます。

今回からは、実際の文章をもとにしながら、より具体的に、より実践的に、文章の書き方を学んでいきましょう。まずはもっとも出番が多そうで、書きやすそうで、おそらく一度はどこかで書いたことがあるであろう「エッセイ」と「コラム」を取り上げます。

 最初に問いかけてみましょう。「エッセイ」と「コラム」の違いはなんでしょうか。

 ヤワラカイものがエッセイで、カタイものがコラム? 筆者が日々の暮らしのなかで感じたことを書いたのがエッセイで、社会や政治経済について書いたものがコラム? エッセイは女性が書いたものが多くて、コラムは男性が書いたものが多そう? 気軽に読めるのがエッセイで、小難しいものがコラム? エッセイストは雑誌にいて、コラムニストはテレビにいる? どちらも、なんとなく同じようなものだと思っていませんか。

 もちろん、エッセイとコラムの境界線はここにあります。と、どこかにはっきり示されているわけではありません。それでも、みなさん自身の感覚として、なんとなくエッセイ風、なんとなくコラム風。エッセイっぽい、コラムっぽい。違いをはっきり理解していなくても、少なくとも、ふたつの文章にはなにか違いがありそうだ、くらいのセンサーは働いていることでしょう。

 そのセンサーを大切にしてください。なにか違うぞ、なにかありそうだぞ。「なにか」の内容は、いまのところはっきりとわからないけれど、それでも「なにかある」。そういう感覚がつぎのステップの前提です。気づかなければ、素通りしてしまうことでも、なにかが引っかかって、ちょっと立ち止まってみる。すると、あたらしい世界に出会うチャンスが生まれるのです。


〈エッセイの肝〉

 まずは、エッセイから考えてみます。エッセイと聞いて、なんとなくのイメージが頭の中に浮かんでくるでしょうか。みなさんの好きなエッセイはありますか。好きなエッセイストはいますか。わたしの好きなエッセイは、たとえば、山口瞳のエッセイです。池波正太郎の、時代小説ではなく、食べ歩きグルメエッセイなんていうのもよく読みました。もちろん、辰巳浜子やクニエダヤスエなど、女性作家のエッセイも大好きです。

 エッセイの魅力は、読みやすさ、とっつきやすさはもちろんのこと、自分の好きな作家(たとえ故人であっても)の好きなものや興味のあるものと、自分の好きなものや興味のあるものが似通っていてうれしかったり、同じような体験をしていたり、あるいは、同じ店に通うことができたり、同じものを見たり、聞いたりできる。そういう作家との共通体験や一体感を味わうことができることです。

 ひとつ典型的なエッセイを読んでみましょう。


 『ふたたびの家族旅行』

 ふだんは写真嫌いな母が、風光明媚な景色に誘われて、進んでフレームに収まっている。
「昔と同じ、きれいな海ね。何だか私だけ悪いみたい」
 もうすぐ喜寿を迎える母は、はしゃいだり、しんみりしたりと忙しい。母と兄と私で久し振りの旅に出ている。
 家族旅行など、またいつでも行けると思っていたが、父が存命の間には、とうとう実現しなかった。
 私たち兄弟は、故郷の町を離れ、自分の家庭を持ち、実家にあまり立ち寄れない年月が続いた。
 弟の私は呑気なもので、両親はいつまでも達者なものだと信じきっていた。たまに帰省すると、「ちゃんと食べているか」「風邪はひいていないか」と、子ども時代と同じ会話が繰り返され、自分が親を気遣う側に回るとは、想像もできずにいた。
 皮肉なことに、父の病気がきっかけとなり、両親と過ごす時間が増えた。
 父の衰弱もこたえたが、元気なはずの母だって、ずいぶん老いて、あちこち具合が悪くなっている。そのことにようやく気付かされた。
 ひとり暮らしになった母を、今は兄弟が交代で見舞う日々が続いている。
 昔、家族でよく来た海の景色が、今日は心に沁みた。
 こんなふうに、あと何回母と旅行ができるだろうか。気遣えなかった時間を、今から取り戻していこう。

 (花王「暮らし百景」第237回より)


 これは、どこの家族にも共通して持っている思い出をテーマにした文章です。家族、母、旅行、老い。だれもが共感できるエピソードを軸にしたエッセイというのは、実に個人的でありながら、普遍的なものになるのです。

 そして、個人的なことが普遍性を持つ。普遍性のある個人的なエピソード、とでもいうことができるでしょうか。エッセイとは何か。この問いへのひとつの答えがここにあります。

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