光と闇の起源について
僕は前から旧約聖書の天地創造神話は、ギリシャ神話を意識して書かれたのではないかと思ってきました。
旧約聖書では、アダムとイブが、神様から食べてはいけないと言われていた「善悪を知る実」を食べてしまいます。そして、エデンの園を追われます。その後、人々は神の名によって祈り始めるようになったと言われます。
ギリシャ神話では、神々から開けてはならないと言われた箱をパンドラが開けてしまいます。箱からは、ありとあらゆる悪徳が飛び出しました。最後に箱の中には「希望」が残っていました。
そもそも、パンドラに箱が与えられたのは、プロメテウスが人間に火を与えたことへの神々の復讐とされています。
つまり、失楽園とパンドラの箱物語は、
1)人が知識や技術を得る
2)神から与えられたタブーを人が破る
3)その結果、罪や悪徳にまみれた苦難の歴史が始まる
4)しかし、祈りや希望による救済の可能性が残っている
と言う点に共通性があるようです。
しかし、「知識を得た」過程について、旧約聖書が人の自律的な行動だとするのに対し、ギリシャ神話は他律的なものとしています。
善悪の実を食べる事を選んだのはアダムとイブ自身ですが、火を与えたのはプロメテウスであり、人間自身が望んで得たものではありません。
罪と救済、苦難と希望、光と闇の関係について、旧約聖書は、ギリシャ神話とは異なったメッセージを告げているようです。
僕は、この事を考えてみて、旧約聖書の物語は、ギリシャ神話を意識した上で、書かれたものなのではないだろうか?と思ってきたわけです。
さて、今日のテーマである光と闇の起源です。
「カオスから幽冥と暗い夜が生じた。次に夜から澄明と昼日が生じた。夜が幽冥と情愛の契りをして身重となり、生み給うたのである(ヘシオドス 神統記)」
「地は混沌であって闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。(旧約聖書 創世記)」
順序として、ギリシャ神話の神統記では、カオス(混沌)が最初にあって、そこから、幽冥、夜、すなわち、闇が生まれています。その後、澄明と昼日=光が登場してくるわけです。
一方、旧約聖書では、混沌状態で闇があり、そこに光が登場してきます。
ギリシャ神話では、1)混沌、2)闇、3)光の順で成立していますが、旧約聖書では、1)混沌・闇、2)光の順になっています。
混沌が闇に先行するのか、それともどちらも当初からあったとする違いがあるわけです。
闇が光に先行しているのは、どちらも同じです。
ただし、闇の中に光が登場してくる理由は違っています。
神統記は「夜と幽冥が情愛の契りをして生まれた」としていますが、旧約聖書では神様の言葉によって光が生まれています。
ここには2つの違いがあります。1つ目、光は闇を起源としているのか、それとも別な起源を持つのか、2つ目、光は情愛の契りから生まれるのか、それとも、「言葉」によって生じたのか、
その2つです。
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