レッツ・サイGo-Go-!

西郷隆盛を知れば知るほどファンになっています。私なりの西郷さんを表現しています。202…

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西郷隆盛を知れば知るほどファンになっています。私なりの西郷さんを表現しています。2022年よりFBに投稿している記事をまとめました。毎月最後の日曜日に千代田区神田にて西郷隆盛翁の勉強会を開催しています。

最近の記事

”神田郷中”「自分にできることは何か。 心の中の自分に問う。」

”神田郷中” 「自分にできることは何か。 心の中の自分に問う。」 報徳敬愛経営塾「神田郷中」とは、 ニッポンの最果て、薩摩から桜島を望み、 太平洋に行き来する異国の船を遠望して未来像を描き、 昇る陽から国旗「日の丸」をデザインした薩摩人。 その創造力は藩内の若者を啓発し、自己創造の道を開いた薩摩藩の自由塾「郷中」に他ならず、 その現代版が神田郷中である。 神田郷中のシンボルは郷中から身を起こし、 自己創造し、近代日本の礎となった西郷隆盛である。 塾の方針は、

    • 知らないことを知る大切さ

      4月28日(日)10時~ 「第23回敬天愛人フォーラム未来」 A子:「ブロックチェーン、NFT、トークン、マイニング、ステーキング・・・?」 「お母ちゃん、この辺の言葉はさっぱりわからへんわ!」 母:「そんなわからんもんには手を出したらあかんで! 騙されるで!」 「未来を変える暗号資産の可能性」 まだまだ賛否両論ある「暗号資産」や「仮想通貨」ですが、 人は知らないモノ・人に対してはとても不安や警戒心を持ちます。 知らないことを知り、知識や情報が得られることで、不安や

      • 西南戦争田原坂戦没者追悼式に参加しました

        ~雨は降る降る 人馬はぬれる 越すに越されぬ 田原坂~ 西南戦争田原坂戦没者追悼式に 参加してきました。 西南戦争から147年、 この小さな丘で約3500名が亡くなったそうです。 西南戦争最大の激戦区でした。 今ではそんな情景を思い描くことが出来ないほど 穏やかで優しく、美しい丘です。 兵力もお金も武器も交通手段も通信手段も食料も 明かに劣っていたのに 何故立たなければいけなかったのか? 同じ郷土、肉親で何故戦わなければいけなかったのか? 急速な文明開化の裏で起こ

        • なぜ私が西郷隆盛をやっているのか?

          第13回敬天愛人フォーラム銀座が終了いたしました。 今回のゲストスピーカーは 「世界のSONY」伝説を語る日本で唯一の男、田村槙吾先生。 SONYの西郷どん「森園社長」の豪傑かつ人情味あふれた人柄のお話から始まり、 気になる「井深メソード」は 「ものつくり」の追求ではなく、 「人つくり」の追求だった。 そしてなんと! 組織を作らない会社だったそうです。 「組織の無い会社ー!」 井深さんの人間の大きさを感じます。 会社も政治も、 すべては上に立つ者で決まる

        ”神田郷中”「自分にできることは何か。 心の中の自分に問う。」

          「後世必ず清を知る」に秘められた西郷南洲の想いとは?

          のんびりしておりましたら、 気がつけば1月も半分過ぎております。 告知が遅くなりました。 さて、今月の「敬天愛人フォーラム未来」は、 『「後世必ず清を知る」に秘められた西郷南洲の想いとは?』 というテーマで内さんに語って頂きます。 この言葉は、西郷さんが、 明治6年10月遣韓使節問題で内閣を去り、 鹿児島に下野した際に謳われた詩の最後の一節です。 ======================== 独不適時情 豈聴談笑声 雪羞論戦略 忘義昌和平 秦檜

          「後世必ず清を知る」に秘められた西郷南洲の想いとは?

          西南戦争の流れを簡単に、少々長いです、、

          (西南戦争の流れを簡単に、少々長いです、、) 明治10年2月17日、 鹿児島では珍しい大雪の日、 西郷さん率いる5番大隊は鹿児島を出発しました。 普段鹿児島では、雪が降っても10センチ程度ですが、その日は鹿児島市内には約30センチの積雪、 県北の大口市では1メートルの積雪があり、 先に出発していた隊員たちは、腰まで雪につかりながら前に進んでいたと言われています。 「なぜこんな日にわざわざ?」 と、疑問に思いますが、 明治6年の政変(征韓論)後、 西郷内閣の

          西南戦争の流れを簡単に、少々長いです、、

          「ブライアン山下物語」と西郷さん

          第17回敬天愛人フォーラム未来が終りました。 今回は、「ブライアン山下物語」から「ウイリアム・ジェニングス・ブライアン」について。 アメリカ大統領候補だったブライアンは 「世界中に正義が定着するまでは、普遍的な平和は訪れない。 全ての土地で権利が勝利し、全ての心を愛が支配するまで 政府は最後の手段として、力に訴えなければならない。」 と主張していました。 もしブライアンが、大統領になっていたら、後の世界大戦も起こらなかったと言われています。 そのブライアンは、

          「ブライアン山下物語」と西郷さん

          獄中有感(ごくちゅうかんあり)

          =獄中有感(ごくちゅうかんあり)= 朝に恩遇を蒙り 夕べに焚坑せらる、 人世の浮沈 晦明に似たり。 縦い光を巡らさざるも 葵は日に向かう、 若し運開く無きも 意は誠を推す。 洛陽の知己 皆鬼となり、 南嶼の俘囚独り 生を盗む 生死何ぞ疑わん 天の付与なるを、 願わくは魂魄を留めて 皇城を護らむ。 =解釈= 朝方には君公より大事にされながら、 夕方には穴の中に生き埋めにされてしまう。 人間の運命というものは、空の雲のように定まりないものだ。 葵という花

          獄中有感(ごくちゅうかんあり)

          魅力的な西郷さん

          第15回敬天愛人フォーラム未来が終了しました。 今回は 「魅力的な西郷さん」として、西郷さんがどんな人柄だったのか、 いくつかエピソードをお伝えしました。 少しご紹介しますね。 ●「肥え汁をかけられて」 ある日の夕方、西郷さんが田んぼのあぜ道を散歩している時、 狭い道を肥料桶を担いで通りがかった百姓のおじさんが、 行ずりに西郷さんが通られると気付き、 ヒョイと腰をかがめて挨拶した瞬間に 桶の中の肥え汁がチャプンと飛び出し、 西郷さんの着物の裾にさっとかか

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          赤坂離宮と「南洲翁遺訓集第10か条」

          「南洲翁遺訓集第10か条」を後に紹介。 先日、迎賓館(赤坂離宮)に行ってみました。 2016年から一般公開が始まったようです。 西郷さんを学び始めて、裏の歴史を知ることで 最近はモノの見方が変わり、 うんちくを語り出す、何処かのおじさん のようになってきている自分は、 かなりやばいです。 迎賓館は東宮御所として 明治32年に着工、 明治42年に完成とされています。 外観も室内も、 世界に引けを取らない明治の西洋宮殿。 驚きの絢爛豪華な室内! 大きな

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          桐野利秋(人斬り半次郎)を感じたくて

          2023年10月10日筆 薩摩藩士、桐野利秋(人斬り半次郎)を感じたくて 「旧岩崎邸庭園」に行ってみました。 西郷さんが参議を辞職して、鹿児島に帰るという時、 「桐野利秋」は、与えられた地位も財産もあっさり捨てて、 この「旧岩崎邸庭園」を去り、 西郷さんについて帰郷しました。 ここ「旧岩崎邸庭園」は、越後高田藩の江戸藩邸だったところで、 維新後、戊辰戦争の戦功が認められ陸軍少将の地位についた「桐野利秋」の東京での居宅として払い下げられました。 今では敷地も狭

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          日本人の誇りを取り戻す「世界No,1ブランド ”日本シルク”」

          2023年9月4日筆 世界No,1ブランド ”日本シルク” 日本人の誇りを取り戻す 「養蚕農家復活プロジェクト」 皆さんご存じ、 世界文化遺産の「富岡製糸場」。 これは、明治5年(1872年) 西郷内閣時代に官営工場として操業を開始しています。 富岡製糸場と薩摩は非常に繋がりがあり、 鹿児島の宮之城には、富岡製糸場の操業を受託していた片倉製糸の工場がありました。 また、日本で唯一蒸気機関を扱えた、薩摩藩士石河確太郎は、 富岡製糸場に技師・先生として呼ばれ、

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          西郷と横山安武

          2023年7月25日筆 第14回のテーマは、「征韓論」を取り上げますが、 西郷さんが、なぜあれほどまでに強い思いで 朝鮮との外交を平和的に話し合いで解決しようとしてたのか、 この本を読んでわかりました。 「横山安武」(薩摩藩士) 安武は、初代文部大臣の森有礼の兄です。 政府に建白書を出して、諫死するぐらいの人物なので、 よほど過激で、育ちもどうなのかなと気になりましたが、 森家は教育熱心な父親、感情豊かな母親に愛情深く育てられ、 4人の男兄弟も仲良く、勉学

          三島由紀夫「銅像との対話ー西郷隆盛」

          銅像との対話ー西郷隆盛『産経新聞』昭和43年4月23日付より ///////////////////////// 西郷さん。 明治の政治家で、今もなお「さん」付けで呼ばれている人は、 あなた一人です。 その時代に時めいた権力主義者たちは、同時代からは畏敬の目でみられたかもしれないが、後代の人たちから何らなつかしく敬慕されることがありません。 あたは賊として死んだが、すべての日本人は、あなたをもっとも代表的な日本人として見ています。 恥ずかしいことですが、実は私は

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          「196歳・西郷隆盛生誕祭」と新しい出会い

          先日の12月3日はお天気にも恵まれ、 「196歳・西郷隆盛生誕祭」は、 大盛況のうちに終了することができました。 これもひとえに皆様方のご支援とご協力のおかげです。 本当にありがとうございました。 西郷隆盛翁のもとに集い、皆さんの笑顔、楽しんでいる様子を見るだけで、こちらもとても嬉しくなりました。 皆様と楽しい時間を共有でき、素晴らしい一日となりました。 心より感謝申し上げます。 来年に向けて、また毎月の勉強会も楽しんで参りますので、引き続きよろしくお願いいたします。

          「196歳・西郷隆盛生誕祭」と新しい出会い

          我が家に伝わる「西南戦争」

          我が家に伝わる「西南戦争」 (親戚・従姉妹たちが集まったときにいつも話題になる話をシェアします。) 西南戦争(1877年)終結後も、鹿児島にはまだ政府軍が残っていました。 生き残りの士族を探していた とも言われています。 西郷さんが亡くなった後も、政府軍としては薩摩軍は目の上のたんこぶのような存在だったのかも知れません。 その時代の男たちはほとんど西南戦争に参加し、戦死したにも関わらず、 生き残っている男はいないかと政府軍はあちこち探しまわっていたのです。 男の

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