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9.幼少期の記憶の断片
私が3歳の時、幼稚園に行きはじめた。とにかく落ち着かず騒々しい子どもだったらしい。通学には電車を使っていた。キノカワ線という私鉄だった。日常的に利用していたはずだが、その当時の記憶はほとんどない。今では、運営する会社が変わっていて、ずいぶんと様相が違う。
いわゆる赤字ルートだった。私が中学生のとき、それを廃線にするかどうかで揉めた。キノカワ市とワカヤマ市が関わり、論争が繰り広げられた。そして、
10.幼少期の別れというもの
その当時、私の祖父(トシオさん)は職業を引退していた。私の祖母(ミツヨさん)と一緒に私を連れて紀南に出かけた。シラハマやカツウラに行った。
私はこの旅をよく覚えている。夜中に私は両親が恋しくなった。「家に帰りたい」と祖父母に言った。それは真夜中だった。家に帰るには三時間はかかっただろう。それでも祖父母は私を家まで送り届けた。
どういうわけかこの記憶が深く刻まれている。残念さと申し訳なさが入り交
8. 私が生きた人生
《3》
ここからは、私がいかにして、今の死に対するアイデアに辿りついたかについて話そうと思う。その目的のためには、私が私の人生をどのように過ごしてきたかをあなたに知って欲しい。
振り返ってみると、思っていた以上に、死は私の人生のあちらこちらにあった。しかし、自分の周囲で起きた死に対して、それなりの対応するには、私はある程度の年齢を重ねる必要があった。
一定の時間を共有した人々の死に直面した時
1. 20歳の生誕の日が幸福であるように
《1》
私の息子、20歳の誕生日おめでとう。あなたの父は、あなたに向けて手紙を書いている。その理由は、通常の生活の中では、伝えるのが難しい事柄を話したいと思ったからだ。
飲み会のテーブルで私は、「若い頃にはこういうことがあったんだ」と語りかけるかもしれない。だが私がそのようなことをしたとき、おそらく翌朝、私は何も覚えていない。
私はそんな不誠実なやり方で人生の中核について話すことを好ま
2. 死はいつもあなたのそばにいる
あなたは死ぬことを望んだことはあるか?
私にはある。
いつから、「私は死にたい」とつぶやくのか習慣になった。家に帰ってテレビを見ていても、突然、ガラスからあふれた水のように「死にたい」という言葉がもれた。
私は実際のところ死にたくはなかった。しかし、この世界に生きることの難しさは感じていた。
逃げることができるならこの世を脱出したい。だが私はそれをすることができない。だから私は、私の心の叫
3. もしあなたが死を選ぼうとしているとしたら
この手紙で書かれていることについて。
「苦難の中で生き続けることもあるだろうが、いつかすばらしいことがある」
そんな説教のようなことを、私は書いていない。
私の人生にはこんな人がいた。誰彼はこのように亡くなった。あなたと私もそうなるかもしれないことを確認している。
誰もがまともでなくなる可能性があり、特に私たちの場合、まともでない人が家族の中にいた。それをあなたの心に留めてほしい。
4. 彼は偶像崇拝によって生を見出す
「この世には頼るべき人がいない。そう感じた時、ヒーニャルナの像を見て、あなたの心を落ち着かせるのだ」
オオツカは私にその像を見せてくれた。
「私の悩みは、端正な女性を見ることでは解決しない」と私はごく自然な反応を示した。
「結局のところ、あなたがすべきことは、人間の問題を解決するか、問題を忘れて進むかということだ」
「それは確かにそうかもしれない」と私はうなずいた。
ヒーニャルナの顔を見
5. この世界には死がありふれているのにも関わらず
確かに、私たちは死ぬことよりは生きる方がよさそうだから生きている。私たち働く方がよさそうだから働いている。そういうものだ。できることなら労働とは距離を置いて生きていたい。
実際のところ社会の構造がそれを許さない。だから、何かの職業を選び、これで大丈夫だと思って、規定のレールに乗り、時にはその上で迷いが生じているのだ。
今日も私たちの日常生活は続く。夕方のテレビでは、病院において新しい人
6. 人生の意味を知らない弟
その年の夏、千葉の弟から手紙が来た。チヒロは高校を卒業した後、千葉の国立大学に通った。彼は私と比べてずっとスマートな頭脳を持っていた。そして、私よりはるかに歪んだキャラクターを持っていた。
「私はもはや人生の意味を知らない。どうにかして管理しようとしても、状況は改善されるとは思えない。生きているのはいやだ」
彼から時々この種の手紙を書いた。私も別に生きる意味なんて持ってない。私自身の意味な