23/09/2020:『Road Song』

琥珀に閉じ込められた蚊。その腹に残った血液から恐竜を再生させるシーンを観た時、僕は子供ながらに驚愕と羨望に心を感電させられたことを覚えている。映画になるくらいだったから、もしかするとすでに学会なんかでは常識のレベルであったのかもしれないが、僕にとってそれは極めてセンセーショナルなものだった。

「でも、それって本当なのかしら?だったら今、この世界に恐竜がわんさか復活していたっておかしくないじゃない?」

目の前でアイスティーを飲む彼女が言った。長い指にはめられた極細の指輪が、小さく可憐な分、強く存在感を誇示している。

「事実、そのシリーズの最新作でも、わんさかいるしね。まぁ、相変わらず暴れまわって、最後には人間たちはそこから逃げていくんだけど。」

僕も一応、ファンとして全ての作品を網羅していたので、言われなくてもそんなことはわかっていた。そして、大人になった僕は、映画で描かれているような復活劇はまだ起こりっこないということも知っている。

「だけどさ、ただ、こう、夢があるっていうか。果てしない時間の流れと深遠な星の巡り合わせみたいなものを感じるじゃない。」

僕はカップの底に残ったコーヒーの残り滓を見つめた。コーヒー占いとかっていうのがあるらしいけど、こんなんで何がわかるのだろうか、と関係のないことを考えていた。

何度も二人で来ているから店員さんとも何となく顔なじみになっていて、

「ポイントカード、そろそろですね。今日もコーヒーとアイスティーで?」

と、言われた。ついでに小さなクッキーも受け皿に置いてくれて、とてもいい気持ちになった。

でも、普段の僕らの生活には、果てしない時間も深遠な星の巡り合わせも感じることはない。できるだけ平和に、そして時に全力で毎日を生きていくだけで精一杯だ。

「さて、旅行の計画立てるわよ。雑誌持ってくるね。」

彼女は席を立ち、併設されているブックコーナーへと消えていった。

                 ・・・

「結局、何もかもそのままでいることが一番なんだよ。手を加えなくていい。余計なお世話だ。じゃ、差し引くのはいいのかって、そういうわけでもない。だって、結局それだって、手を出しちゃってるってことだからさ。自然が一番、なのかな。」

いつかバーのマスターが言っていた。早めにバイトが終わって、終電前に少しだけ飲みたい時によく顔を出していたのだが、僕が行く時間はなぜか丁度そのお店の静かな時間帯に重なるらしく、大概はお客がいなくてマスターが一人でカウンターに佇んでいた。

「でも、「手を出したい」っていう人間のその気持ちみたいなものは、あるいは広く欲望と言ってもいいかもしれないけど、それに従うことも自然じゃないんでしょうか。あるいは、それを押さえつける理性もまた人間が持つ自然のひとつだとしたら、じゃ、一体どういうことなんだろう。」

自然の自然と、人間の自然。

いつになってもどっちがどっちかなんて分かりっこない。

「もう一杯、飲むかい。」

マスターが新しいグラスをバーマットに置いた。

「んー、はい。お願いします。」

と、僕は言った。今日は終電までもう少し時間がありそうだ。

「じゃ、今日は少し、いつもと違うのにしようか。」

マスターは後ろの棚を振り返り、ボトルの棚をカタコトと探り出している。

静かな夜だった。

                 ・・・

しばらくすると彼女が旅行雑誌や紀行文集なんかを抱えて戻ってきた。

「テーブル乗らないな。移動しようか。」

僕らは奥の壁際にある4人席の方に座り直した。

「さて、どうしようかしら。まずは、自然か街か。どっち?」

仕事の都合を二人で合わせて取った休みは、連休も合わせて2週間だった。一箇所に長期滞在型か、あるいは移動継続型か。まずはそこから選択する必要がある。

「そうだね。2週間あるしな。」

行ったことのない国、通ったことのない道。

どこかへと向かいながら、僕らは日々を生きているんだと思う。

それが自然なことなのか、それとも自分たち自身で決めていることなのか。そして、自分たち自身で決めることも、また自然なことなのか。

写真がたくさん載った旅行雑誌。世界地図のページを開く

「せーので決めてみる?」

と、訊いてみた。

「あら、悪くないじゃない。」

彼女は眉毛を片方あげて少し微笑んだ。

二人が挟んだテーブルの真ん中には、大きく見開きの世界が広がっていた。

・・・

今日も等しく夜が来ました。

Wes Montgomeryで『Road Song』。


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