domingo, 17 de julio de 2023

何かを求めて外へ飛び出してきた。僕は1日だって考えることをやめたことはないし、今後もそれは続いていくはずだ。それに、僕は葦でもないし、銅像でもない。生身の人間として、動的にずっと生きていくしかない。

悲しみに明け暮れていたわけでもない。長い間、海外で暮らしてきて、そして帰国した。そして一年半くらいの日本での生活を送った。それは僕にとって懐かしく、しかし同時に挑戦という意味合いも含まれていた。学生が終わってから、日本でまとまった期間を過ごすことが初めてだったからだ。

疲労を纏った朝の地下鉄や、最新のパソコンが広がったカフェのカウンター。
マスクで半分隠れた顔と、工具箱みたいなスニーカー。
街は全てがBluetoothで繋がっていて、その見えない電波からはどんな匂いも感じられなかった。
流行り廃りがあるとはいえ、日本という国は僕がいなくても、あるいは僕に日本という国がなくても、何も変わらないのかもしれない。

地球の人口が80億人を突破した。
学生にその話をした日、たぶん、秋の始まり。まだ誰のものでもないヴァージンな雲が広がっていた。
「80億人も人がいたんじゃ、僕がちょこっとどこかに隠れちゃったら、きっと誰も見つけてはくれないだろうな」
と、思った。
実際は、「これから僕らはどう生きていこうか。」
と、もっともらしい言葉を呟いてから、授業を始めた。
その日のテーマは、点過去と線過去の違いについてだった。そのために、僕はまず現在完了の話から始めなけれならなかった。

今と繋がりのある過去、今とは切り離された過去。
習慣としての過去と、一度きりの過去。

これらを区別して扱う言語があるということ、それはつまり、人間が過去をそれぞれカテゴライズし、認識できるということでもある。
でもある、というか、そういうことなのだろう。

しかし、僕らの思考、身体はすべて今までの積み重ねで形成されている。とすると、今と切り離された過去なんてものは、本当のところ存在しないのではないか。
”たま”という名前の犬がきっといないのと同じように。

他方で、認識を失ってしまえば、僕らという存在そのものも消え去ること、その前では経験も積み重ねも無に帰するということだってあるだろう。
たま、なんてそんなの最初からいないのだ。

ちょっと寂しい気持ちにもなるけれど。

生身の人間として、生きていかなければならない。
動的に。

重要で、そして厄介なのは、この二つの考えが、別にどちらが正しいかを問う二者択一というユニットではない。それを巡る戦争も紛争も必要ない。
ポイントとなるのは、それらが今のところなぜか僕らの目の前には、同時に存在しているということで、またきっと互いに包摂関係にもないということなのだと思う。

そうしてまとまった期間を日本で過ごした。
僕の社会的立場は弱く、不安定で、自分の中には自信なんてほとんど見つけられずにいた。
いつの間にか中身が空っぽになった容器、ではなく、お店に並んだまだ誰にも使えわれていない空っぽの容器になっていた。

そして、僕はまた外に飛び出してきた。
飛びつき、うまく引っかかり、戻ってきた。

挑戦に負けたのか。
見えない電波にも引っかからないくらい、空っぽだったのか。

いや、生身の人間として生きていかなければならない。
僕は動的に、ここに来たはずだ。

日本は僕がいなくても大した問題にはならないだろうが、僕は、僕がいないと大変なことになる。
切り離すことはできないのだから。

二者択一でも包摂関係でもなく、そして切り離された僕でもない。

1日だって考えるのをやめることはないだろう。

1日だって。

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