30/09/2020:『Champagne Supernova』

目一杯に腕を伸ばしてもやっと親指を掴めるか掴めないかくらいで、そのまま息を止めて10秒耐えた後、本当に苦しくなった。

「風呂上がりのストレッチが一番いいのよ。」

彼女がよく言っていたので、僕も実践してみた。学生時代はずっとスポーツをしていたので、その時の記憶のままに畳の上で体を折り曲げた。でも、思い出の中の僕と現実の僕は、犬小屋みたいな小屋と、小屋みたいな犬小屋くらいに違っていた。

「ま、こんなもんか。」

と、一人で納得してスウェットを着る。水分を含んだバスタオルをハンガーにかけてベランダに干した。自分でも貧乏性だと思うけれど、どうしても一度使っただけでは洗濯をする気にはなれない。

冷蔵庫を開けてアイスティーを出した。ネットで箱買いしているボトルは、すごいスピードでなくなっていく。

「あのさ、もう自分で淹れたら?」

と、彼女は家に来るたびに言っていた。呆れたような、諭すような。

でも、聞いたことがある。

”大丈夫、という言葉に騙されてはいけない。だって、それは大丈夫じゃないから。”

「そうかそうか、そうだよね。」

だから、自動繰り返し便をキャンセルした。これでもう来月からは届くことはない。昨日、仕事の帰りにドラッグストアで安売されていたお茶っ葉を買ってきていた。LINEで写真を撮って、彼女に送ると、

「そう、それでいいわ。」

という返事が返ってきた。

「いつだって、少し歩み寄るだけでいいんだよ。」

と、これまた誰かが言っていたのを思い出した。

                 ・・・

部屋にはテレビがないから、音楽を聴くか本を読むかパソコンをいじるかという選択肢しかなかった。あるいはその全てを同時にするか。それだけあれば十分な気もするが、だけど全てが能動的な作業になってしまい疲れてしまう。だから時々そのどれもしたくないと思うことがあった。自分の見たいものを見たいように、見たい時にだけ見るということは、とてもいいことのようだけれど、世界との関わり合いという意味においては、危険性をはらんでいるような気もした。

「だって、そんなのワガママになっちまうだけじゃねぇか。」

と、彼は言った。汚い居酒屋で、焼き鳥を食べていた。

「見たくないものの方が多いんだぜ、世界は。それに、何が起こるか、何が来るか分からない中で生きていかなきゃならねぇのに、そんな自分本位の世界に閉じこもってたら、そりゃよくないよ。いや、その中に一生居続けるんならいいけど、実際それじゃ生きていけないだろ?」

狭いカウンターにぎゅうぎゅうと押し込まれるようにして座る客たち。崩れた冷奴とわさびの溶けた小皿。

「で、一体何がそんなにお前を悩ませるんだよ。相変わらず面倒な奴だなぁ。」

そういうと、彼は生ビールを追加で2杯頼んだ。

                 ・・・

寝転んで本を読んでいたら電話が鳴った。画面には彼女の名前が表示されている。

「ほいほい、どうしたの。」

そのまま出る。横向き寝ていたから、上になった方の耳に電話を乗せた。きっとこうやって話していることを彼女が知ったら、あまりいい気分にはならないだろう。

「ん、何してるかと思って。今日行っても大丈夫?早く終わりそうなの。」

彼女は都心にある出版社で働いていた。大きな企業だからそれなりに忙しいはずなのだけれど、比較的自由な社風なのか、こういうことが多々あった。

「私ね、今、育児雑誌部にいるの。子を持つ全ての親たちを応援している私たちが、吹き出物ができるくらいに残業してたら説得力ないでしょ。」

とても説得力のある意見だ。

「うん、駅まで迎えにいくよ。ついでにスーパーにも行かないとって思ってたんだ。」

冷蔵庫には残りのアイスティーが何本かしか入っていなくて、あとはろくな食べ物もない。成人男性としては少々恥ずかしい風景が広がっていた。

「ありがとう。でも、そのスウェットで来るのはやめてね。」

「ははは、わかってるよ。」

6時くらいには着くと言い残し、彼女は電話を切った。

僕は耳に置いていたスマホをテーブルへと戻し、起き上がった。履き古して少し色落ちした黒いスキニーとチャコールグレーのカットソーを身に付ける。

「6時間か。あと2時間ないくらいだ。」

ノートパソコンをカバンに、財布とケータイをポケットに入れて、玄関ドアの覗き穴にかけてある鍵に手を伸ばした。少し迷って黒いオールドスクールをつっかける。

最近になって、物を書くようになった。別に大した話ではない。作り話でもなければ、実際に起こったことをそのまま書いているわけでもなく。ただ、その間にあるような、名前の付けようもない領域をゆっくり歩くようにして。

外に出て、アパートを振り返って見る。どうしようもない木造2階建。実家を出て学生を始めた頃から住み続けている。愛着はもちろんあるけれど、だからと言って固執するほどでもない。いつまでここにいるんだろう、という気持ちもある。

「いつまでこうしているんだろうなぁ。」

と、実際心で呟きながら歩き出した。

駅前の喫茶店まで15分。

こうして世界の周縁を歩き続けたら、いつか中心まで辿り着くのだろうか。

住宅街にそんな答えもあるわけがなく、だから僕は自分の中に潜っていく。

西日が夕方の色に変わってきて、電線が黒く視界を囲い込む。

「だって、他に何ができるだろう。」

僕はそのまま歩いていく。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

Liam Gallagherで『Champagne Supernova』。



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