24/06/2020:『So Beautiful』

空港 1

チェックインカウンターはさほど混んでいなかったので、すぐに僕の順番がきた。かっちりと髪をまとめて、無敵の化粧をした美しいグランドスタッフが、

「スーツケースは、こちらのお2つでしょうか。」

と、聞いてくれたので、そのように答えて計りの上に乗せた。

21.7kgと22.5kg。なんとか規定内に収まっている。

「はい、大丈夫です。お気を付けていってらっしゃいませ。」

磨き上げられたフロントガラスのような笑顔だ。

列を抜けて彼女の姿を探す。少し離れたベンチに座って文庫本を読んでいた。


                  ・・・

街 1

授業が始まって15分くらい経った頃、前方の扉がガラッと開いた。履修期間が過ぎでしばらく経った教室には何となくリラックスした雰囲気が漂っていて、教授もいつもより快活な話ぶりだった。

そんな折に、ドアを開けて入ってきた彼女は、松葉杖をつき、首にコルセットをつけていた。その姿は危ういほど儚くて、細いオレンジ色の髪、白いコットンシャツ、薄いダメージスキニーは、装備した医療器具と相対的に強調されるように、彼女の細さを際立たせていた。シミひとつない肌には、猫のような大きな目と小さな鼻。どういうことかわからなかったが、どうやらこの講義を受講するつもりらしい。一瞥くれると、何も言わずに僕の斜め前に座った。学生数は全部で8人とかなり小規模のクラスだったので、30人が入る教室ではガラガラの状態だった。だから適当に目についた席だったのだろう。うんとこしょとたどり着いた。

教授が、

「えっと、あなたは・・・、」

と、尋ねたので、

「履修しているものです。事前に連絡差し上げました。」

「あ、あの。もうお身体は大丈夫なのかしら?痛そうね。」

大学教授には少し世間ズレしている人が多いとは何となく聞いていたが、この状態の彼女を見てよくもまぁそんなことが出てくるなぁと感心した。

「あ、はい。駅からのタクシー通学はお金がしんどいですけど。」

と、彼女は答えた。この街は大学を中心に円錐状に広がっている。駅から続く長い坂を歩けば30分。バスに乗れば15分と行ったところか。おまけに歩道が狭くちょっと歩きにくいので、今の彼女には危ない。そして大抵バスは混んでいるので、そこに乗り込むのも厳しいのだろう。

その後、授業は滞りなく終わった。短いレポートの課題が出たが、これは次回までに提出すればいいとのことなので今日はこのまま帰ろうか。そう思って支度をすると、

「ねぇ、ちょっと。プリント、コピー取らせてくんない?」

彼女に声をかけられた。僕に決定権は最初からない、そんな聞き方だった。

だから、もちろん承諾した。

                  ・・・

空港 2

本から目を離した彼女は、特に待ったそぶりも見せずに、

「じゃ、お寿司でも食べよっか。いいよね、昼間のお寿司って。」

と、歩き出した。

僕はこれから長いこと海外へ出る。最後の日本食が寿司というのは全く悪くない。

「見送り行くから。ターミナルはどっち?そして、あなたが空港に行くのは何時?」

日本を離れる3日前、彼女から連絡がきた。せっかくだからゆっくり食事でもと伝えたのだが、

「私は空港に行きたいの。」

と突っぱねられた。そんな具合で、今、彼女は僕の目の前で穴子を食べている。僕は二貫目の鯵を口に入れた。明るい照明に三味線のBGM。テーブルに紙とペンが置いてあって、欲しいネタの項目にわさびの有無や個数を書き注文する。無機質なシステムにも思えるが、意外と楽しいものだ。

出国は一人のつもりだった。別にさみしくはない。粛々と手続きをして、黙々と並列に並び、淡々と搭乗するだけ。

だから、こうして誰かと空港にいることに少し違和感があった。

何の気なしに彼女を見つめていると、

「そうだ、餞別。ずっとあなたにこれをプレゼントしようと思っていたの。」

そう言って取り出したのは、一本の折り畳み傘だった。

                  ・・・

街 2

プリントのコピーがきっかけとなり、彼女とはその後隣同士で授業を受けるようになった。そして、ついでに遅れていた分の講義を僕が教えてあげたり、そのままお茶をしたりするようになった。そうしていくうち、はじめに松葉杖がなくなり、そしてコルセットもいつの間にか付けなくなっていた。世間はもう夏だった。

彼女には怪我の理由を聞きそびれていた。よくよく考えると聞くのも野暮かと思い、何となく放っておいた。

彼女の美しさは、元の姿を取り戻すように勢いを増して僕を包み込んでいた。相変わらず髪はオレンジで、愛想のない猫目だったけれど、彼女は自然体で僕に接してくれているようだったし、それが嬉しくて、僕もそのままの距離感を保とうと努めた。

同時に手首に巻いた包帯にも触れないことにした。

                 ・・・

空港 3

「傘?」

傘を見て、傘と言った僕の反応に対して、彼女は、

「うん、傘。」

と、反芻した。

「傘をもらうのは初めてだ。」

「私もあげるのは初めてよ。きっと最初で最後ね。」

しかし、なぜ傘なのだろう。プレゼントをくれた人に対して、「なんで?」と聞くのは失礼なんじゃないか。そう思って、代わりと言っては何だが、

「うん、ありがとう。これで飛行機でも濡れずに済むね。」

と俄かには信じられないようなジョークを放った。

「あなたは、またそうやって聞かないのね。あの時から。」

ジョークを無視して言うと、彼女は手首を触った。

                 ・・・

街 3

彼女はハイペースでグラスワインを空けていた。こうなったらボトルで頼んだほうがいいんじゃないか、と思うようなペースだ。

高架下のカジュアルなビストロ。メイン料理は頼まずに前菜だけでテーブルが埋められている。

「コピーと講義のお礼をするわ。週末、駅裏のコンビニ前ね。」

と誘われ、断る余地の残されなかった僕は彼女とここにいる。

待ち合わせ、彼女は特に挨拶もせずに「こっち。」と顎で誘うと、スタスタと先を歩き僕をここまで連れてきた。そして、慣れた様子で色々と注文すると、涼しげな顔で食事を始めた。

そして、案の定、酩酊した。僕は覚えたてのクレジットカードで支払いを済ませると、彼女の肩を支えて店を出た。さて、これからどうしようか。当初、あわよくばと言う気持ちでいた僕だったが、ここまで身を預けられると、正直彼女を心配する気持ちが勝ってしまっている。

「こっち。」

と、彼女の声が聞こえた。その方向に僕らは歩き出した。駅とは反対方向へ向かう。華やかな夜の明かりはとうに後ろへと消え去り、辺りは住宅街だ。たまに通る自転車や、タクシー以外は誰もいない。僕は少し不安になりながら彼女と歩いた。

「ここ。」

そこは紛れもなくホテルだった。僕は戸惑ったが、仕方ない、入ることにした。

適当に部屋を選び、彼女をベッドに下ろす。テレビを付け、いくつかのチャンネルを避けながら、間繋ぎのニュースを流した。

自販機で水を買っていたので、彼女を支えて飲ませた。

そして彼女は服を脱ぎ出した。

酔っているのか、ヤケになっているのか。オレンジ色の髪の毛の先にある表情は見えなかった。酒で真っ赤になった首筋。鎖骨が浮き出た細い肩。ただ1点、斬新だったは、そこから下には無数の傷があったことだ。叩かれたり、引っ掻かれたりしたのか、その種類も1つではないように見えた。治りかけのものもあれば、真新しいものもあり、少なくとも彼女の身体は長いことそれらに耐え続けているらしかった。

「これでもよければ、どうぞ。」

断る余地がない誘いはこれが何回目だろう。だから僕は自分もシャツを脱ぎ、彼女には少し動いてもらって、隣へ潜り込んだ。そして僕は二人に布団をかけると、そのまま彼女を後ろから抱くようにして横になった。一連の動作の中、彼女は抵抗することはなかった。嫌がっていたかもしれないし、あるいは酔っ払ってそれどころではなかったかもしれない。

もしかしたら、泣いていたかもしれない。

僕らはそのまま眠りについた。

                  ・・・

街 4

週が明けても僕らは以前と同じように講義を受けた。そして、断る余地のない誘いや提案をベースにコーヒーを飲んだり、何の気なしに校内を歩いたりを繰り返した。でも、外で会うことはもうなかった。あの夜のことは僕の方からはもちろん、彼女の方からも何も言ってこなかったので、そっと隅においておいた。少なくとも僕はその引き出しを開けることはない。

                  ・・・

街 5

夏が過ぎ、秋が来て、冬が終わった。春が訪れ、僕は教授の計らいで留学をすることになった。小さな国の小さな町。教授は昔、そこで現地の少数言語を研究していたらしい。

いつか出された課題で、その日なんとなく調子がよかった僕は、課題の内容に加えて図書館でいくつかの文献を調べると、それらを体裁よく小論文にまとめた。元々メールでの提出を指定されていたこともあり、ついでに添付して送ったのだ。点数稼ぎでも胡麻擂りでもない。ふと、この先になんかがあるような気がして、そしてその道筋がいつもよりも鮮明に見えたので、そこを歩いてみただけだ。

そして、その小論文がきっかけで僕は教授の研究室に呼ばれ、色々と話をした。思いの外、何かが共鳴したらしい。有意義な時間だった。留学の提案をされた時、教授は当時のことを話してくれた。そしてその少数言語についても。音素の数、格の役割、他動性の強弱、名詞の性。日本語とは遠くかけ離れた言語。

「いい町だわ。きっと気にいるわよ。ただ、少し雨が多くてね。でも大丈夫。その雨すらも、きっと気に入るから。」

そういうと、入学手続き用の資料と分厚い辞書を机に置いた。

「じゃ、がんばってね。」

やはり少し世間ズレしている。

                  ・・・

空港 4

「雨が多い町なんでしょ。」

彼女は教授から聞いたらしい。教授も教授で、僕に世話係のようなことをさせておいた負い目なのか、気にかけてくれていたのだろう。

そして彼女は続けた。

「あの時、あなたは私に傘を差し出してくれた。それまで他の人は「僕の部屋で雨宿りをしよう」「タオルで体を拭いてあげる」みたいなことばかりでーもちろん、そういう意味でー、誰も私と”歩いてみよう”とはしなかった。でもあなたは、違った。私のために傘を差して、歩けるかどうかを一緒に確認してくれた。そして、その時の傘は今も私を雨から守ってくれている。それからずっと。だからこうして、生きていられるのよ。」

そう言うと、彼女はカットーソーの首元を広げ「ほらね。」と胸を見せた。あの時の傷たちは本当に薄く微かになっていた。

「だから今度は私が傘をあげようかと思って。あなたを守る、とまではいかないけど。」

「うん、そうだったんだ。ありがとう。」

会計を済ませると、僕らは特に話すこともなく出発口まで来た。

「一年間、待っているのと、途中で会いに行くの、どっちがいい?」

と、彼女が聞いた。

「初めてだね、僕に決定権があるのは。」

そう答えると、

「じゃ、私が決めるわ。また連絡する。」

と、決定権が即座に移譲された。

僕らは抱き合った。彼女の細い体は僕をそこから離れがたい気持ちにさせた。

出発口に向かう人たちに倣って、僕も歩き出した。

検査を通り、振り返ると彼女はもうそこにいなかった。

でも不思議と悲しくも寂しくない。

誰かが傘を差し出してくれる。その温かさを知ることができたからだろう。

そして、

「うん、やっぱりこれで飛行機では濡れずに済むな。」

と、一人呟いた。

改めて、本当にひどいジョークだと思った。

                  ・・・

今日も等しく夜が来ました。

Robert Glasper で『So Beautiful』です。

かっこいい曲です。それこそ、空港で流したいくらい。




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