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沖縄から物語の力を、今こそ。(前編)

今日は映画の話。

実はたまたま監督と知り合う機会があってDVDを直接もらっていたものなのだけど、1年くらいほったらかしにしていたもので。
(ほんとすいません、監督…。)

数日前にようやく観ることができて、沖縄が舞台と知ってはいつつ、まさかこんなにド直球タイムリーな内容だとは思っていなくて、これは書き留めておかなければなどと思ったりして。

この前編で見どころについて、そして後編では、もう少し踏み込んだ私見と、ありうべき続編について。


仲村颯悟「人魚に会える日。」(2016)

監督は沖縄県沖縄市出身で、1996年生まれ。
撮影が2014年に行われたということであるから、当時18歳。

しかしこれが初作品ではなく、これ以前にも30本以上の映像作品を制作しており、うち唯一の劇場用長編映画であった「やぎの冒険」(2010)が第14回上海国際映画祭のパノラマ部門正式招待作品となっているとか。制作当時13歳。
「人魚に会える日。」はそれ以来の劇場用長編、第2作。

DVD特典として収録されていた、今は亡き樹木希林とのトークイベント上で監督が語ったところによれば、物語の主軸となる高校生3人は芝居が初めてで、撮影スタッフも素人同然。親交のあったアーティスト・Coccoや、沖縄のローカルタレントたちの協力を得ながらほとんど自主制作のような形で撮影されたようで。

制作のきっかけになったのは、慶応大学に進学した監督が感じた沖縄をめぐる本土の人々との意識のギャップ。
特に6月23日が何の日か、というのは、確かにそのギャップが表れやすいポイントで。


沖縄の叫び

テーマは基地。
より限定的に言えば、普天間基地の辺野古移設。

それはフィクションの中でメタファーとして扱われるというものではなく、登場人物たちが真正面から辺野古移設に向き合い、論じ合い、苦悩する。


先月行われた県民投票で辺野古への移設は反対多数という民意が示されたけれども、それは言うまでもなく、全会一致というものではなく、投票率52.4%のうち72%が反対票を投じた、というもので、賛成票を投じた人や投票に行かなかった人もそれはそれで民意であって。

映画は若者の目線と言葉を通じて、そうした「ゆらぎ」をよく伝えてくれていて、その「ゆらぎ」自体はまったくフィクションではないことは、最近出されたこんな記事↓からもよくわかる。

「本当の賛成派なんて…」沖縄・辺野古、地元に暮らす20代の葛藤
BuzzfeedNews,2019年3月15日,籏智広太 

特に映画とも通じる部分。

「地元の人に寄り添うことができてこそ、本当の反対運動だと思うんです。それなのに……」
(中略)
反対運動をする気持ちもわかる。それによって、沖縄の基地問題が認知されていることも、わかる。地元に寄り添っている人や、戦争経験をもとに声をあげている人がいることだって、知っている。
しかし、その手法に納得ができない気持ちも膨らんでいた。


あらかじめ述べておくと、私自身は沖縄県民ではなくて、辺野古移設には明確に反対の立場であって、後にも述べるけれども本土の人間こそこの問題に向き合うべきだと思っているのだけれど、しかしというべきか、こういう私のような人間がいるからこそというべきか、上の記事と同様に、映画から聞こえてくる沖縄の叫びは、「基地はいらない!」ではなく、「ほっといてくれ!」と響くようであって。


知らぬ間に上げられていた闘いの舞台

高校生のユメは基地の移設に関して、「わからん」という立場を繰り返すのだけれど、移設先の海を実際に見たあと、海を壊すべきでないと、「普天間維持」に傾き始める。

しかし行動を同じくした同級生のヒロトは、同じく「わからん」としながらも、「俺らが遊んでる間も、どっかで犠牲になってる人はいるわけだし。」と、加害者性を強いられることに対する拒否感と、基地の存在自体に対する疑問を示す。

意見を闘わせるような構図にユメの表情は曇るのだけれど、この暗さの背景には、意見が異なることそれ自体ではなく、なぜか生まれたときから否応なく上げられていた舞台で友と闘わされているその事態と、しかもどれだけ議論したところで結論について自分たちに決定権などないという、その不条理こそを見るべきだろう。

そしてさらに、幼馴染みで大学生のアヤに次のように迫られるとき、ユメはいよいよ耐え切れずに、その場から逃げ出してしまう。

「基地はあった方がいいと思うけど、早く移設してほしいよね。
基地の反対活動してる人たちいるさ、その人たち、基地があることに反対なのか、移設することに反対なのか、意味わからんわけ。しかもほぼナイチャーだし。
沖縄から基地をなくすことは絶対に無理だし、てかなくなってほしくないさ。アメリカ人いなくなるとかさみしすぎるし。
だから、普天間にそのまま置いとくか、移設するかの2択しかないわけ。
ねえ、わかる?話きいてる?」

繰り返しのようになるが、ユメが耐えられなかったのはアヤの反対意見の圧力ではなく、本土によって用意された舞台で沖縄人どうしが闘い、しかも本土の人間がそれをひっかきまわし、そのうえ沖縄には結論についての決定権がないという、その不条理で。

そこではもはや、移設か維持か撤去かといったような意見の内容は問題ではなくなっており、だから、このあとユメはひとつの決断をするのだけれど、その目的は、海を守ることでもなく、普天間の安全でもなく、沖縄人どうしのこの不条理な闘いを終わらせること、ただそのためだけの行動に出る。


生贄

それは、自分が生贄になるということ。

移設先の村では、山を削ったり海を埋めたりする場合に若い女性を神に生贄として捧げる風習があり、それ自体はフィクションなのだけど、村での反対運動の主張は表向きは海の保護を掲げていたが、裏ではこの生贄の不在が真の理由になっており、ユメはこれに名乗り出たのだ。

反対運動を終わらせ、移設という結論を出し、闘いや諍いをなくす。

結論の是非ではなく、とにかく自分たちの手で結論を出す、そう決断したといえる。

物語のもう一人の主軸であるユウスケは、崩壊寸前の精神状態のなか孤独に移設反対の立場を保っていたが、ここにきて、「もう終わるんだから。それでいいよ…。」と泣き崩れる。

気付いたヒロトは村へ走るが間に合わず、ラストはユウスケが追い求めたジュゴンの映像で映画は幕を閉じる。


本当は、ジュゴンのあとにちょっとしたサプライズのようなものがあったりもするのだけれど、それは実際に観ていただくとして、とりあえず前編はここまで。

続きます。


#映画 #仲村颯悟 #沖縄 #基地 #辺野古 #普天間 #buzzfeed #雑感

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