遅発性自閉症のきっかけエレン・ボルトにはすでに三人の子がいた。一九九二年二月、四番目の子どもアンドルーが、コネチカット州ブリッジポートで生まれた。アンドルーは姉のエリンと二人の兄と同じように健康体で生まれてきて、あらゆる面で標準的に育っていた。生後一五か月検診で小児科医を訪れたときも、何の問題もないように見えた。だが医者は、アンドルーの耳を覗きこみ、滲出液がたまっているのを見つけた。耳に感染症ができているから抗生物質で治療する必要があるという。「熱もないし、いつもどおり飲食して遊んでいたので、びっくりしました」とエレンは言う。一〇日間の抗生物質による治療後の再診で、滲出液はまだ消えていなかった。こんどは別の種類の抗生物質を一〇日間、処方された。治療期間が終わり、アンドル
ーの耳はきれいになった。
だがこの治癒は一時的で、再発をくり返した。アンドルーは三クール目、四クール目の抗生物質治療を受けた。 毎回、種類の異なる細菌グループを標的とする種類の異なる抗生物質が投与された。この段階で、エレンはこれ以上薬を使うことに疑問を感じた。 息子には不快感があるようにも、聴覚に問題があるようにも見られなかったからだ。だが医者は、「万一のことがあってはいけないから、抗生物質の投与を続けましょう」と言って譲らなかった。エレンは言われたとおりにした。このころ息子の下痢がはじまった。
下痢は抗生物質のよくある副作用の一つだ。医者は下痢のことには気を留めず、感染症を根絶しようとさらに三〇日間の抗生物質治療を続けた。
この最後の治療期間中に、アンドルーのふるまいが変わった。 最初はちょっと酔っぱらったような感じで、にこにこと、よろめきながら歩いた。「ほろ酔いした人のようでした」とエレンは言う。「息子の姿を夫と笑いながら眺めて、こんどのパーティーであの子に抗生物質を飲ませて、みんなで盛り上がろうか、なんて冗談を言い合うほどでした。 これまで続いていた耳の痛みが消えて喜んでいるのかもしれない、と勝手にいいように解釈していたんです」。だが、ほろ酔いは長続きせず、一週間後にアンドルーは人が変
わった。不機嫌に引きこもっていたかと思うと、とつぜん怒り出し、 一日じゅう叫び声を上げる。「抗生物質で治療する前まであの子は何ともなかったのに、逆に重症の病気になってしまったんです」。 アンドルーには消化器系の症状がほかにも出てくるようになった。下痢が止まらず、大量の粘液と、未消化の食べ物が出てきた。
アンドルーのふるまいは悪化した。 「どんどんおかしくなっていったんです。 つま先で歩いたり、私と目を合わそうとしなくなったり。 以前は話していた言葉を話さなくなり、名前を呼んでも返事をしなくなり、まるで別人になってしまいました」。両親はアンドルーを耳の専門医に診せた。 専門医は小さな管で耳の中の液体を抜き、耳の感染症は治っているので牛乳を飲ませるのをやめるといいと助言した。このときの診察でアンドルーの耳はきれいになっていたので、 エレンは胸をなでおろした。耳が治ったのだから
ふるまいもそのうち元に戻るはずだと彼女は思った。だが、そうはならなかった。
アンドルーの消化器症状はどんどん悪くなり、体重は年齢相応だったが、手足は痩せて腹だけ膨らんできた。 ふるまいはさらにおかしくなった。 ひざを曲げずにつま先立ちで歩く。 部屋のドアのところに立ったまま、半時間も電気のスイッチを入れたり切ったりする。鍋やふたなどモノには異常に執着するのに、ほかの子どもには関心を示さない。なにより、甲高い叫び声を上げる。両親は困りきって、医者から医者へとアンドルーを診せて回った。アンドルーは二歳一か月で自閉症と診断された。
アンドルーがそう診断されたころ、エレンをはじめとする多くの人にとって自閉症のイメージは、一九八八年の映画『レインマン』でダスティン・ホフマンが演じた自閉症の主人公レイモンドだけだった。ホフマン演ずるレイモンドは、社会生活を送ることが極度に困難で、日々の決まりきった行動をくり返す一方、記憶力が抜群で、何年も前の野球リーグのデータをすべて思い出せる。 レイモンドは障害を負いつつ特異な才能を有する 「自閉症サヴァン」だった。だが、音楽や数学、美術に特異な能力を発揮する、メデ
ィアが好んでとりあげるような自閉症サヴァンはごく少数だ。自閉症というのは幅広い症状を包括した呼称であり、平均または平均以上の知力を有するアスペルガー症候群から、学習が困難な重度の自閉症までを含む。アンドルーは後者だった。