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白血病初発から10年

根がネガティブ、略してネガネガな『私らしく』あまり明るいことばかりではありません!笑
前もって書いておきます!笑

17歳、弱小演劇部の私は《脚本/演出/出演・私!》という開き直り無双状態で後輩たちの力を借りて60分の一人芝居で勝負をかけ、地区大会、府大会で最優秀賞と個人演技賞を頂いて、学校初の近畿大会まで進出。
今はもうない、千里中央のよみうり文化ホールのでっかい舞台の上で『東京に行きます!』なんて宣言しちゃうものの近畿大会では無惨に散り、それでも尚キラキラした未来しかないと自信に満ち溢れておりました。
しかし大学に入学して1年目の冬、にょきにょきと順調に伸びていた私の鼻は、呆気なくへし折られることになるのです。

大学1年生の冬、19歳になってすぐのお正月明けの一人暮らしの部屋で、40℃近い熱をだして身動きとれないほどヘロヘロになり帰省。
そのまま熱が下がる事はなく、
数週間後に急性骨髄性白血病という病名を告げられることとなりました。

最初に入院した病院ではなかなか医師に診てもらえず、悪化していくばかりの私をみて『この病院では手遅れになる』と判断した母が色々と病院を調べて、一向に診断をつけない医師に『転院するから紹介状を書いて下さい!』と啖呵を切り、『そう簡単に受け入れて貰えると思うなよ、戻ってきても診てやらないからな』と悪態をつかれつつも、ヘロヘロな私を担いで今の病院に駆け込み、即入院。息つく暇もなく無菌室に入れられ、あれよあれよと抗がん剤治療が始まりました。熱を出して帰省してから、一人暮らしをしていた家には一度も戻ることなく、父と兄が文句も言わず家の退去作業をしてくれたり、家族に支えられて人生の大きな挫折に立ち向かったのでした。

そんな19歳からはじまり、
今年の来たる12月26日に29歳になります。

初発からここまで10年。

初発から5年後に再発するとは思わなかったけど
10年この病気と共に生き延びました。

最近とっても心がザワザワしていて、
その正体をずっと探しておりました。
そして、あぁそうか10年かと行き着いたわけです。

あの頃あったけど、今ないもの、
あの頃なかったけど、今あるもの、
この10年で様々な変化がありました。

産まれた人、死んだ人。
父方の祖父母だけでなく、私より長生きするだろうと思ってた同僚や仲間や知り合いを見送ったり、姪が産まれたり、大学の同期達に子供が産まれたり。

そんな中で、自分自身の一番大きな変化はやっぱり結婚したことだと思います。

いつまで経っても文章は上手にならないし、子供っぽい気持ちもそのままで、私自身は何も変わってないつもりが結婚した途端になんだか人生のステージが変わった気がします。もう私だけの人生ではなくて、私と主人との2人で一緒に歩む人生なんだと思うようになりました。2人と猫2匹の家族だけど、それでも私を選んでくれたのだと思うとやはり独身の頃とは違う責任を感じます。

1回目の移植を経て退院した後の私は、病気になった自分の一切を捨ててとにかく逃げたくて仕方がなかったように思います。
色々なことを、色々な人や色々な物のせいにしておりました。自分が『病人』であるという変えられない事実が嫌で、とにかく予定を詰め込んでハードスケジュールをこなせることに価値を見出していました。そんな振る舞いのせいで、生き急ぐように過ごす私に『病気があるんだから無理しないで』と制止をかけて心配してくれた家族も嫌になり、すごく支えてもらったのにも関わらず一時は絶縁宣言をして連絡を取らない数年を過ごしたりもしていました。
捨てたり、捨てられたり、拾ったり、拾われたり、逃げたり、追いかけたり、作ったり、壊したり、とにかくハチャメチャにその時出来ること、考えつくこと、思いつくことを片っ端から感情のままに突っ走ていたような気がします。
(過去のことみたいだけど、今でもそんな衝動に駆られる時はあります…笑)
今は元気にピンピンしてくれていますが、母方の祖母が危篤と報せを受けて、やっと決心がついて母と再会をしました。母は物凄く怒った顔をして(当たり前ですが笑)、それでも私への一言目は『ちゃんと病院行ってるの?』という心配の言葉でした。『行ってるよ』とぶっきらぼうに答える私に続けて『婦人科は?』と言われ『行ってるよ、行ってるけど、薬貰ってるだけ。子供は無理やねん。ちゃんと言われたわけじゃないけど多分無理なんやと思う。』と伝えると母は余計に怒りだし、『ちゃんとしぃや!あかんやん!そんなん!自分のことやろ』と。何にも知らんくせにと思っているところに続けて『ちゃんと診てもらわないと…あんたが死ぬ時に誰があんたの手を握ってくれるんよ』と。病気が発覚した時でさえ私の前で泣かなかった母が、泣くまいと唇を震わせながらポロポロと泣く姿を見て、やっと私は今までの不義理を反省しました。

そんな、家族ともぎこちなくも微かに雪解け始めて、更に遠い昔に片想いしていた人(後に結婚する主人)と再会して一気に幸福へと好転し始めた矢先、再発を告げられまたこの病気や人生と向き合う機会をぶち与えられました。

再発したことには
もう…ほんんんとうに心が折れました。笑

・再発そのもの
・また家族を心配させること
・恋人への申し訳なさ
・尾形や羽室への申し訳なさ
・親友や皆さんに心配をかける申し訳なさ
・色々と予定していた舞台を降板したこと
・不妊であることを確定診断されたこと
・将来への淡い希望や期待が白紙になったこと
・というか普通に治療がイヤ 笑
・生涯使える抗がん剤の70%既に使用してるお報せ
・移植の前処置で抗がん剤に加えて放射線治療も要ること
・2回目の移植は更に過酷という事実と、
・いつどこで再発するか分からないという現実
・お芝居が出来ないこと
・コロナのせいで舞台に復帰出来るか不明なこと

もぉ、本当に沢山のことで心が折れ。笑
2回目の移植も終えて生き延びたけれども、関節やら骨やらがボロボロで車椅子を使う生活。
今年の3月に両足を全人工股関節にして、
それでもまだ膝やら肩やらに壊死があり、可動域が狭い上に、今でも毎日痛み止めを飲んでやり過ごす日々です。

この10年を思い返すと
やっぱりキツかったし、こんな経験は出来ることなら回避したかったし、体にたくさんの傷痕が出来て、こんな痛みは出来ることなら今すぐ取り払って欲しい…とまぁ、嫌なことが盛りだくさんに出てくるのですが、

家族との関係を修復出来たこと、親友や仲間や先輩方や主人や家族がずっと私を支え続けてくれたこと、猫と日向ぼっこできること、また美味しいものを沢山食べられたこと、色んな場所に旅行に行けたこと、また歩けるようになったこと、いま働かせてもらえてること、また劇場で観劇できていること

私にとっては当たり前ではないことをヒシヒシと感じております。

もうすぐ10年かと思うと、
人生の3分の1が病気と共に生きる人生になり、
これが40歳になったら人生の半分になり、
50歳になれば人生の半分を超えて、
60歳になったら…以下省略。

紆余曲折10年生き延びた感触としては
私はまだまだ生きるだろうなぁと勝手な、
なんの根拠もない自信を持っています。
20年経ちました!30年経ちました!
と言う自分が何故か頭に浮かんでいます。笑

19歳を迎えてすぐに白血病になった時、
絶望が私の全てでしたが
29歳になった今、
10年前の自分に
『こんなもんやと思ってんの?まだまだ悪いことがこの先に起こるよ笑 でもその100倍幸せに過ごしてるよ。安心して。大丈夫。素敵な人にも沢山出会うし、メンタル的にも身体的にも痛いことはあるけど笑 乗り越えていく気合いと根性と心強いみんなのサポートを受けて乗り越える。自分の直感と選択を信じてとにかく進め!』
とポジティブとネガティブが混ざり合う『私らしい』言葉を贈りたいと思います笑

そして期待を込めて10年後の私へ。
『私の細胞、頑張って持ち堪えさせろよ!!!これ以上、みんなのこと悲しませないように!もし悲しませても100倍幸せに出来るように絶対諦めずに最期の最後まで頑張れよ!』
という言葉を贈りたいと思います。

12月26日
もうすぐ29歳
初発からもうすぐ10年

なんだかんだ幸せは自分1人では作れなくて、
1人で治療していても独りだと思ったことはなくて、
良くも悪くもきっちり思い出になって、
なにが言いたいかと言うと、
結局は
みーーーんなに支えられて
みーーーんなのおかげで幸せでした!
ありがとうございます!!!!!

10年後も20年後も同じこと言うてますように!笑

髙道屋 沙姫

白血病の私はコロナや特発性大腿骨頭壊死症などで働くことが難しいのが現状です。頂いたサポートは医療費や生活費として大事に使わせて頂きます。私の経験がお役にたてば、応援して頂けると幸いです😌