短編「Crysalis」 2018

 青虫は、さなぎの中で一度どろどろの液体になってから、蝶の姿に再構成されていくらしい。コンプリート・メタモルフォシス。完全変態だ。
「人間と同じだね」
 僕がそう言ったら、女が珍しく大口を開けて笑った。バカにされたのかと思ったけど、続けて「本当にそうねぇ」と女がアンニュイな表情で紫煙をくゆらせたものだから僕は、この女もかつては確かに少女という生き物だったのだと、思い知ることとなった。それはとても、気持ちの悪い話だった。


 塗装の剥げたスチール製の玄関ドアを開けて、ただいまぁと間の抜けた声で言うと、暗い廊下の先から、おかえりぃと声がした。踏み出した床の冷たさが靴下越しに足裏にしみた。半開きだったリビングの戸をくぐると、電気はつけられているのにどこか陰気なそこでは、パンツいっちょの女がソファーに頭をもたげてテレビを見ている。脊椎の浮き出た白い背中。程よく肉のついた足。紐のような黒いショーツから溢れる尻を後ろからボンッと蹴っ飛ばすと、化粧の崩れた顔がゆっくりとこちらを仰ぎ見た。赤か茶色かわからない髪が、汗ばんだ頬でとぐろを巻いていた。
「……なによー」
「それ、死んだ母さんが気に入ってたソファー。触るなよ」
「ああそうだったわねぇ。はい、はい」
 女が気怠げに立ち上がり、今度は灰皿と新聞の置かれたローテーブルに腰掛ける。その動きに合わせてまるだしの乳房がぼうんと揺れる。その柔らかいバウンドに、僕はケッと顔を歪めて学生鞄を床に放った。図書館で借りてきた本が中から溢れて、その下敷きになったリモコンに反応してテレビが沈黙する。
「あぁん、見てたのに」
 纏わり付くような女の声を振り払うように上着を脱ぎ捨て、嫌な臭いのするキッチンでわざと大きな音を立てて冷蔵庫を開ける。作り置きシチューの小さな鍋を取り出し、ガスコンロに乗せる、火を付ける。流し台にはここ一週間で洗い損ねた食器と、割れたグラスの破片と、空のビール瓶と飲みかけの缶コーヒーが積み上げられていた。明日はようやく日曜日だからここも綺麗になるだろう。もっとも、僕が掃除する気になればの話だけど……。
 一分くらいで火を止めて、そこそこあったかくなったシチューを鍋から直接がぶ飲みする。具がほとんどなく、味噌汁ぐらいにサラサラなのは僕がわざとそういう風に作ったからだ。空になった鍋を流し台の横に置いて水道水で口をゆすぐ。ごちそうさま。おそまつさま。手を合わせることもなく、どたどたと足音を立てて僕は母さんのソファーに飛びつきようやく、ふぅっとひと息ついた。
しかしすぐに跳ね起きる。
「……タバコッ!」
「なによ」
「臭いが! ソファーに! しみついてる!」
「あら、」
 女が新しいタバコを咥えて、ライターに手を伸ばす。
「そんなの仕方ないじゃない」
 僕は返事の代わりに、床に落ちていた悪趣味な赤いブラジャーを持ち主の顔に思いきり叩きつけた。
 女は短く悲鳴をあげて、「この、くそガキ!」と、黒く塗られた爪をヒグマのようにぎらつかせて飛びかかって来た。僕の足がとっさに狙うのは女の下腹部、子宮を隠している辺りだ。力任せに蹴飛ばすと女はあっけなく後ろに吹き飛び、ローテーブルを乗り越えて灰皿と一緒に肩から床へと落ちていった。僕はソファーを庇うように腕を広げて、怒鳴る。
「だからっ、タバコは、ベランダで吸えってば!」
 だってぇ、と打ちつけた後頭部をさすりながら女がませた口調で言う。
「もう秋だもの。寒いもの」 
 僕は短く舌打ちをして、放ってあった鞄から急いでスマートフォンを取り出した。タバコ、そふぁ、臭い、消し方。キスするような勢いで小さな画面に顔を寄せて、操作して、その後はまた放り出し、今度はスチームアイロンを求めて押入れの襖に這い寄る。
「……。マザコンッ」 
 背後から女の嘲笑が聞こえてきた。
 僕もそれに対抗して、押入れの暗がりに向かい「クソババアッ」と吐き捨てる。それきり沈黙が降りて、狭い部屋には僕がダンボール箱の中身を漁る音が響くだけになった。


 救いでも何でもない日曜日が終わり僕は学校に行くことになるが、脳味噌はすでに金曜の夜のように重かった。寝不足の朝の太陽は何だか獣くさいし、クリーム色のカーテンは遮光の役割を果たしてくれないから、こういう日だけは窓際の席が嫌になってしまう。秋。十月。もうすぐ中間試験だけど、教室の誰もそんなもの気にしちゃいない。授業中のお喋りのうちに、冬休み、という単語が聞こえてきて、板書を取りながら僕は呆れてしまう。三十秒に一度は視界が霞む。けど僕には後でノートを見せてもらえるような友達がいないから、その眠気に屈服するわけにはいかないのだった。
 人との心の距離を見えない壁って表現することがあるけど、僕にはここ数年ずっと、自分だけが薄くて柔らかい被膜をまとっている感覚がある。ぼんやり。白昼夢。ずれた針が修正されるのを待っている時計みたい。厚いほこりを被って、自分に違和感を覚えながらもチクタク動き続けるしかないんだ。でも大丈夫、自分の時計が狂ってたってこうして一週間は始まるのだし、朝はすぐに昼休みになるから。四限終わりのチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に休み時間モードに変わる。教室中がフワッと浮遊感に包まれる、不思議な瞬間。そしたら僕はいつものように、昼食をとるために机をくっつける女子の間をすり抜け、購買に走る男子の後を追うようにふらりと教室を立ち去って、登下校よりずっと弾んだ足取りでいつもの場所に向かうのだ。
 最近、秋に向けて世話していた植物が一斉にたくさん蕾をつけたので、校舎裏の花壇は少しだけ華やかだ。フェンスと植木に二方を囲まれ、人目につきにくいその場所。なんでこんなところに花壇が? って感じだけど、日当たりとか土地の広さを考えたらここになってしまったんだとか。煉瓦造りの花壇はちょうど腰掛けにできるほどの高さをしていて、今日も秋晴れの下、金魚草やパンジーやコスモスや葉牡丹が美しい緑色を輝かせている。その傍らで昼食のバタークッキーを齧りながら僕は無意識にニッコリしてしまう。ここが学校での唯一の居場所。大海原に浮かぶ小舟のように、閉塞的な小さな寄る辺だった。寂しい奴って思われそう。でも居場所っていうのは、自分がそう認識しないと生まれないものだからしょうがない。歯の裏側についたクッキーを舌で掬いつつ、ひょろりと無駄に細長い足を組んで、ピンクの蕾の先っぽで触覚を動かしているでかい蟻を観察する。ちっちゃい頃に、蟻は虫ではないと勘違いしていたことを思い出す。だって飛ばないじゃん、って。蝶も蛾も蜻蛉も天道虫も飛ぶけど、蟻は飛べないじゃん、って。翅の生えた蟻もいるし、飛べない蛾もいるのよ。と、母さんに笑われた。数少ない思い出……。
 そこでグラウンドの土を蹴るジャッジャッという音が聞こえてきて、僕はすぐさま感傷を引っ込めた。しかめっ面を作り、音の迫ってくる方をじっと見る。
 侵入者だ。
「悪い、遅れた!」
 そう叫びながら駆け寄ってきたそいつから突如、ブワッと濃く甘い匂いがして、僕は思わず肩を震わせた。それはまぁ良い匂いではあるんだけれど、発信源がこいつとなると一気に奇妙なものになる。自覚があるのかないのか、いや、この強烈な匂いに気付かないのならこいつの鼻がブッ壊れている証拠なんだけど、彼は何の悪びれもなく僕にずいと近付いてくる。
「……しくなってきたなぁ」
 彼の声が掠れて、僕は「なに?」と聞き返した。多分、涼しくなってきたなぁ、と言ったと思うんだけど。
「涼しく、なって、きたな!」
 彼が律儀に言い直したので、僕は少し苛ついた。そこは、何でもないとか、やっぱいいわって済ませてしまえばよくない? 人がふたり以上集まったら、何が何でも喋ろうとしてくるタイプなんだこいつは。…………。
 僕らの高校には、園芸部なるものが存在しない。
 そして僕と彼は環境委員の仲間で、さらに細かくいうと、花壇の水やり係だ。
 数ある委員会の中でも比較的楽な環境委員の中から選出されるこの花壇係は、昼休みに校舎裏の花壇に水やりをしに行くというだけのものだ。本来はペアで曜日ごとに交代というシステムで、だけどみんな初めから「え、花壇係? これってジョークでしょ?」みたいな認識だったから、ここ半年、他の誰も仕事に来ていない。だから僕が、奴らの代わりに毎日来てる。
 そして彼。
 彼の名前は柳田という。水やりは水曜日担当。もともと彼だけは担当の日に真面目に水やりをしに来る例外で、だけど夏の太陽が徐々に弱ってきた九月の半ば頃から、僕と同じく毎日花壇を訪れるようになった。元々週一で顔を合わせていたから気不味さはないし、ちょっと口数が多いのがたまに癪に触るけどそれも昼の十数分だけだからまぁいい、いいんだけど、面倒に巻き込まれないかだけが心配だった。柳田が二つ隣のクラスの、いけてる男子軍団の末席に加わっているということは人間関係の薄い僕でも知っていたから(そんなお方が、貴重な昼休みに花の相手をしにくるか? 普通)。
 ふと、水を溜めたジョウロをプランターに傾ける彼の手首に、派手なブレスレッドが着けてあるのを見た。それは陽光をよく反射してギラギラと光り、装飾のせいもあって目立ちすぎる代物に思えた。だからうっかり驚きが口をついた。
「何それ?」
「へ? あッ」
 彼は一瞬それを隠すようなそぶりをした後、「あぁ、うん」手首を僕に向けてぬっと突き出してきた。金色のブレスレッドがきらりと輝いて僕の目を刺した。それには二つ、小さなハート型のチャームがぶら下がっている。ピンクと水色。これって……。
「橋本たちがくれたんだ。昨日、誕生日だったから」
 あいつかぁ、と僕はこっそり溜め息を吐いた。喋ったことはないけど顔なら分かる。橋本は学年のいけてる男子のボスみたいな感じで、よく廊下で騒いでて、そんでもって柳田の話によく出てくる。柳田はそのグループ内でマスコット的な立ち位置らしく、いつも僕に橋本たちからのイジリやドッキリや罰ゲームのことを聞かせてくるのだ。けど正直気分の悪いものばっかりで、いつも「お前それ嫌じゃないのかよ?」って舌の裏まで出かかるんだけど、柳田本人がヘラヘラ楽しそうに話をするので、僕にはどうしようもないのだった。
「似合ってるんじゃない」
 僕がそう言ってやると、彼は一転「エッ」と驚いたような顔をして、みるみる顔を赤くした。え、え? ってこっちまで恥ずかしくなるような、申し訳なくなるほど大袈裟な反応に、僕は堪らず目を伏せた。
 また、あの香りが鼻腔をかすめる。僕はこれの正体を知っていた。この匂い。今家にいるあの女ではなく、去年まで家に住み着いていた別の女がつけていた、ポイズンという香水の匂いだった。


「その男の子、生意気ねぇ」
 赤いペディキュアを塗りながら女がくすくすと笑う。
「プアゾンは女の香水よ」
「ぷあ?」
「プアゾン。POIZONって書いて、プアゾンって読むのよ」
 数日前に大ゲンカしたにも関わらず、僕と女は仲良く肩を寄せ合ってテレビを見ていた。画面の中では今人気のアイドルがスカートを揺らしながらこう歌っている。王子様を待ってるの、だっておんなのこだもん、おんなのこだから夢を見るのよ。
「あら、明日テストなの」
 英語の教科書を開いた僕に、女がどこか真面目な口調で言う。
「再来週」
「じゃあなんで教科書なんか見てるの? 不吉な子ね」
「うるさいなぁ」
 僕のクラスの英語教師は、授業で扱った長文とその和訳を暗記していけば七割はとれるという雑なテストを作る。そう分かっているのだから、早めに暗記してしまうのが賢いのだ。今回の出題範囲は昆虫の羽化について紹介する文章で、僕はこれを読んで初めて蟻地獄の成虫が薄羽蜉蝣であることと、アオムシがさなぎの中で液体になることを知った。でもちょっと専門的すぎる気がする。完全に先生の趣味でしょって、前の席の子達もひそひそ話していた。
「昆虫に感情があるか知らないけどさ、絶対怖いよね。羽化するのって」
「そうねぇ。でも私たちは身長とおっぱいが大きくなるだけなんだから、楽だわ」
 女が自分のたわわな胸を手の平で持ち上げる。
「僕はもっと分かりやすくなってほしい。羽が生えたら大人とか、手足が生えたら大人とか。だからカエルになりたいな」
「カエルは嫌よ、ヌルヌルじゃなくてスベスベがいいわ」
 そう頬に手を添える女の肌は、シワシワではないけれどどこか元気のない、枯れる前日の花弁のような質感をしている。部屋にペディキュアのシンナー臭が充満していたので、僕はベランダの窓を開けに行った。それを待っていたかのように女がさっとタバコを取り出して、僕が注意する前に素早く火をつける。でも先日僕に蹴り飛ばされて懲りたのか、乾いていない足の爪を庇いながらいそいそと窓際へ尻歩きしてきた。僕はソファーに寝そべり開いた教科書を腹に乗せて、シーリングライトの丸いカバーの内側の、虫の死体らしき小さな影を見つめた。僕が小さい頃はここに家族三人で並んで座ってテレビを見たものだけど、母さんは事故で死んで、父さんはもう僕なんかに興味がない。そしてこの女は父さんが気まぐれで夜の街から持ち帰ってきた女の一人で、僕にとっては何者でもなかった。強いていうなら、身近に感じる唯一の、女、という存在だった。堕落と色気、そして煤けた知能の気配。彼女は大人だった。そして僕は、いつか自分が辿るかもしれない道をこの女に見てしまう。だから子供は、いつでも大人が嫌いなんだ。


 その日、朝から降っていた小雨が二限あたりから急に勢いを増して、昼前にはガッシャンビッシャンバリバリと雷が暴れ始めた。校舎が震えて、女子の悲鳴に呼応するように蛍光灯が一瞬消えたりもしたけど停電とまではいかなくて、天気予報によるとこの雨は夕方四時には晴れるらしいので授業は通常通り行います、という校内放送と共に昼休みが始まった。
 雨の日を、特に雨の平日を過ごすのは苦手だった。なぜって花壇に水やりをする必要がないから。昼休み外に出られないから。それはつまり校内で過ごさなきゃならないってことで、居場所ではないところに無理やり身体を納めていなければならないということ。そんな日はずっと自分の席に座っているしかない。それで雨音を聞きながら、背を丸めて微睡むのだ。僕は眠るのが好きだ。やることがなければ一日中寝ている。特に最近は、花壇に寄りかかってうたた寝をするのが「まなべ」健康的な土の香りがして、植物になった気分になれて、お気に入りだった。秋になってからは姿を見せないけど「まなべ」天道虫が頬にとまったりもしてさ。でも天道虫の幼虫ってキモいよね。なんかとげとげだし、孵化した直後に共食いするらしいし……。
「真辺!」
 えっ、それって僕の苗字じゃんね? と思って伏せていた顔を上げると、机の横に一人の男子生徒がいた。柳田だった。睡眠を妨げられた衝撃と苛立ちが、純粋な驚きに移り変わっていった。
「な、何?」
 困惑たっぷりに僕が尋ねると、彼は朗らかな笑顔で答えた。
「今日は水やり、休みなのかなーって。雨、降ってるしなーって」
「そりゃ、雨、降ってるし……」
「そっかぁ」
 柳田は座ったままの僕の正面に回ってきて、カーテンを捲って窓の外を眺める。
「でもさ、風すごいけど、花は平気なのか?」
「さぁ……」
「さぁって」柳田が困ったように笑う。「心配じゃないのかよ」
 心配? なんで? 僕は呆気に取られて沈黙する。でも、そうか、柳田からしたら、僕は特別な花好きに見えるんだろう。花は、嫌いじゃない、好きだ。けど、僕はあの花壇の神様のつもりでいるから、あの花たちが自然の猛威によってぐしゃぐしゃになってしまってもきっと、あーらら、って済ましてしまえるんだ。その程度なんだ。人の死と同じようには悲しめないし、怒ることもない。
 場の空気が、スン、と落ちる。冷めたのとは違う、お互いに困って口を閉ざしているだけの、気まずい時間。花壇で会っている時はもっと喋るくせに、と僕はうんざりしまった。彼にも、自分にも。花壇以外で会うとこんなに違ってしまうのか。なんと言うか、そう、こいつそういえば、ただの同級生だったなぁ! 肩を回したり、鼻の横を掻いたりしてから、勇気を振り絞ったように「あのさ」と柳田が言う。
「真辺って花言葉詳しい?」
「……なんで?」
「いや、実はさー、俺の家に、昔っから、花言葉の本があってさ。もう誰も読まねえんだけど、どうしよっかなって思っててさー」
「はぁ」
「うん。で、その本、今、ここにあるんだけど……」
 そう言って柳田が唐突に一冊の本を差し出して来たもんだから、僕は大人しく受け取らざるを得なかった。表紙に花の写真が散りばめられた、サイズの小さい図鑑のようなそれ。適当なページを開いてみると、そこには色んな花の写真と名前と花言葉が、読みやすい配置で詰め込まれていた。同じ種類の花でも色によって花言葉が違ったり、贈り物にすると意味が変わって来たりするらしく、なかなか文字の多い立派な花図鑑だった。ただ、全体的にひしゃげているというか、ページが折れていたり湾曲していたり、どう扱ったら本がこんな風になるんだよ? と、小説で暇をやり過ごすことも多い僕はムッとした。
「で、これが何?」
 確かに、少しは冷たい声になってしまったかもしれない。いや、僕の声は普段から熱を含んでいないから、そんなに差は無かったはずだ。なのに、柳田はじわじわと目を歪ませて、ものすごく傷ついた顔をした。こんなにはっきりと絶望を面に出す奴がいるのかと、僕はいっそ不思議だった。
「……それ、やるよ」
「は?」
 いらねぇよ、と答える間もなく柳田が僕の机を離れた。そして僕が腰を浮かす前に、ピューッと言う効果音が似合いそうな速さで廊下へ飛び出していってしまう。
「何だあいつ……」という僕の独り言は、近くにいた誰か一人くらいには届いたかもしれないけど、答えをくれる人はもちろんいなかった。


 今はこんなだけど、昔は、っていうか、中学ではそれなりに友達がいた。まぁ、無理を、してたから。周りに合わせてドラマやバラエティ番組を見て、一緒に買い物に行って、陰口にも恋愛トークにもちゃんと相槌を打って、家の事情は必死に隠して。でも卒業式の朝に気付いたんだ、もう疲れちゃったなぁって。その日まで疲れてる自覚すらなかった。だから今はこう。可能な限り誰とも関わらないし、関わらなきゃならなくなった相手にはできるだけ空気を合わせて、でも絶対に親しくはならない。いつでも無かったことにできるところで停止させる。そのことにかけちゃ、僕はプロだった。
 でも最近の、柳田からの好奇心(好意じゃないよ、好奇心)はかなり持て余している。たまにいるんだ、いつも一人でいる僕のことを「過去の何らかが原因で固く心を閉ざしているけれど、本当は寂しがり屋で、救いの手を待っている」みたいなドラマ持ちの人間だと思い込んで、やたらしつこく親しげに話しかけてくる奴が。そのでっちあげのドラマにヒーローとして加わって来ようとする奴が。でも僕はそれを、どっかの休憩所で見知らぬジジババに話しかけられたくらいの感覚でしか受け取れなくて、トラウマなんてないから普通に相手の目を見て返答できるし、さりげない会話で探られても明かしてやる過去も傷もないし。すると大抵の奴はすぐに、期待はずれだったって目をして離れてゆく。一年の時に厄介な女に目を付けられて「この人はわたししか友達いないから」みたいな態度で周りに見せびらかすように喋りかけて回られた時はさすがにムカついて、それを態度に出してたらいつの間にか消えていた。あの人今何してるんだろ? 同級生だからたまには廊下ですれ違ってるはずなんだけどなあ。
 で、柳田はどうなのかといえば、よく分からないんだそれが。今のところずっと、病院の待合室かどっかで始まる初対面ジジババ同士の会話みたいな距離感で(言ってること分かる?)中身は無いけど何となーく楽しい会話をしているだけ。かと思えば僕が好きだと言った小説を数日後に「読んでみた! 面白かったぞ!」と報告してきたり、園芸の知識を着々と蓄えてきたり……。
「そんなの、あんたに気があるからに決まってるじゃない?」
 夕飯のミントアイスを食べる僕に、何を分かりきったことを、と女が煙たい息を吹きかけてくる。
「きもいこと言うなよ」
「人様からの好意をきもいなんて言ってたら、まともな大人になれないわよ」
「まともって何?」
「多分まりもの親戚じゃない」
 何そのくっだらないギャグ……と思いながら、ミントアイスの最後の一口を舌にのせる。冷たくとろっと喉を伝っていって、すぐに体温と同化するから本当に胃に落ちたのか分からなくなる。朝食は目覚ましになるから良いけど、昼と夜は食欲を満たす以外の目的を見出せなくてどうしてもちゃんとした食事をとる気になれない。だから父さんから渡される毎月の小遣いないし食費の三万円うち一万ちょっとはいつも僕の貯金に入る。ざっと計算してすでに五十万は貯まっているはずだけど、正直持て余しているから、今度コンビニの募金箱にでも突っ込んでこようかな。
 スプーンを咥えながら、柳田にもらった(押し付けられた)汚ったない図鑑をパラパラと捲ってみる。正直、僕は花言葉というものが好きじゃない。例えば神様ならいいよ。アフロディーテは愛と美、アポローンは芸術を司り、アルテミスは狩猟と、貞操だっけ? そういう風に生まれついたからしょうがない。でも、花はただの植物の一部で、生殖のために開いただけなのにそれに勝手に意味をつけるなんてバカらしい。この図鑑によれば、僕の花壇には憂鬱と祝福と少女の恋なんかが混在しているそうだよ。くっだらね。
 その図鑑を、改めてじっと眺めてみて、僕は何やら……とてつもない違和感を、感じた。
ページに鼻を近づけてみる。それから本の裏表紙を捲り、そこに書かれているものを見て、僕はすぐにその違和感の正体を突き止めた。口の中で、スプーンをガチッと強く噛んだ。
「彼の匂いでもするの?」
 女のからかう声に、僕は「うん……ううん」と鼻の奥で返事をして、それ以上は考えることをやめて図鑑を乱暴に床に投げ捨てた。明日も雨が降ってくれと願ったのは久しぶりだった。


 僕が花を好きになったのって、あれらがいわば植物の生殖器だってことに気づいてからなんだよね。それを知ってから、うっとりした顔で摘んだ花の匂いを嗅いでるアニメのプリンセスとか、ドラマで男がプロポーズする時にでっかいバラの花束を贈るシーンとかを、心底笑えるようになったから。植物には感情があるっていう説、僕は嫌い。喜怒哀楽があったとして、じゃあ、恋愛感情は? 嫉妬は? 羨望は? みんなみんな黙って何も感じずに、身体の形に従順で、種族の繁栄だけを考えている一生であればよかったのにね。週が明けて空が晴れ渡り、試験はもう三日後に迫っていた。
 いつも通り四限が終わってすぐに、バタークッキーをポケットに突っ込んで数日ぶりの花壇に向かうと、驚いたことにそこにはすでに柳田がいた。珍しくジャージ姿だった。といっても彼は別に水やりをしていたわけではなくて、どこか思いつめたような顔でじっ……とマリーゴールドとサルビアの間を見つめているのだった。踵を引きずってわざと音を出すと、彼は肩を跳ねさせてこちらを向いた。
「真辺」
「うっす。……だいじょぉぶ?」
 幼稚園児に向けるような声になってしまった気がするけれど、柳田は笑った。それから思い出したように水道の方へ歩いていき、二つのジョウロに無言で水を汲んで、片方を無言で僕に差し出してきた。僕は釈然としないままそれを受け取った。小さなプランターにはジョウロで水をやり、横長の花壇にはホースで左右からそれぞれ水を撒いてゆくのがルーティーン。今日もちょうど花壇の真ん中、マゼンダ色のインパチェンスの前で肩が並ぶと彼は「ゴ~ルっ」と囁きながら、僕の持つホースのシャワーヘッドに自分の拳をこつん、とぶつけてくる。僕は、うん、と唸るように返事をした。昼休みはまだ半分も残っていた。
 いつもならここで、さっさとジョウロもホースも片付けて「じゃっ」と手を上げて去っていくのに、この日の柳田はホースを握ったまま花壇の縁に腰掛けた。僕は立ち尽くす。柳田は前屈みになって自分の靴をじいっと見下ろしているだけで、動こうとしない。この前教室で喋った時の気まずさを思い出して、僕は焦った。だってここは僕の安寧の地、台風の目のはずなんだ。こんな居心地の悪さ、あっちゃいけない。
「エマージェンスは羽化で、メタモルフォシスが変態。だよな?」
 そんな淀んだ空気の中で柳田が振ってきたのは、なんてことはない。英語の試験範囲の話だった。うん、と僕は答えたけど、会話は続かなかった。話す気力をなくしたと言うように押し黙った、彼のつむじ。
「……羽化は、変態の一種で」
 そこに向かって、僕は独り言みたいな声の出し方で喋り出す。話題はなんでもいい、どうでもいいよ。僕がなにも気にせずに済むのなら。
「蝶とか甲虫とか、幼虫に翅はないけど成虫にはあるのは完全変態で、蜉蝣とか蜻蛉とか……あとは蝉もか、幼虫にも一応ちっさい翅があるのが不完全変態。こっちにはさなぎの時期ってものがなくて、一晩でメタモルフォシスする、そんで……」
 僕は柳田を友達とは呼ばない。
 花壇でだけ成り立つ関係。廊下や教室ではうまく機能しない関係。それでいい。上辺だけの交流で良い。柳田のことなんて微塵も知りたくない。傷を見せ合うことも腹を探り合うこともしないままで。だって、ここを失いたくないんだ。僕を怯えさせるものなんて何もない、僕だけの庭を。だいたい柳田は、そうだ、お前は侵入者だったろ。なら、せめて、侵入者のままでいろよお前。他人のままでいろよ。僕に何も、悟らせるんじゃねぇよ。
「真辺」
「なに⁉」
 声が予想以上に鋭く喉から飛び出して、しまった、と思ったけど、
「……今の、もう一回言ってくんね? 俺そこがビミョーに分かってないんだわ」
 そう、思いがけず柳田が話に乗ってきてくれたから、僕は全身の力を抜いた。それから彼の望み通り、同じ内容をもう少し詳しく説明し直した。コンプリート・メタモルフォシスと、インコンプリート・メタモルフォシスの違い。揚羽蝶のエマージェンスの過程、さなぎの中の様子。青虫は一部の神経と呼吸器官を残してどろどろになり、十日という時間をかけて蝶に、大人になる。
「人間の思春期と似たようなもんだね」
 何となくそう付け加えてしまったところでまた、しまった、と僕は思った。今まさに思春期にいるガキが、わざわざ思春期って言葉を使うの、自分を客観視できてるアピールっぽくてダサいし恥ずかしい。あれと同じだ、小六とか中一くらいの時、生理とかセックスって言葉をいかにもサラッと口にして、ギョッとする周りの友達を見てこっそり得意げな顔してる奴、いたじゃん。ああいうの、すごく苦手だった。
「俺は逆だと思うよ」
 しかし柳田は何の茶化しも白けもなく、そう返してきた。
「大人になる、ってか……何かきっかけがあって、生まれ変わる。変わっちゃう、っての。そういうのって、だいたい一瞬じゃねぇ?」
「……。経験あんの」
「うーん、良くも悪くもかなぁ」
「あっ。……フゥン」
 その話題は、自然とそこで終わりになった。代わりにテストの問題予想のこと ―― 例えば、蝶のさなぎはchrysalisで、他の昆虫のさなぎはpupa、cocoonは繭を意味していて、この違いはきっと記号問題に出るだとか。発音問題にもなりそうだとか。でも綴りは多分書かされないだろうとか。アオムシには攻撃されると鳴き声を出す奴がいて、同じ「なく」でも、泣くはcry、鳴くはbarkであるとか ―― を、僕らは腕時計をしていたのに時間を気にすることをせず、ずっと喋り続けていた。
 柳田はいつものようにヘラヘラ笑って。
 僕は始終、どきどきしていた。
いや、どぎまぎ? ぞわぞわ? なんだろう……。
 昼休みの終わりを告げる始業ベルが、遠くの雷鳴みたいにくぐもって耳に届いた。


 それから四日に及ぶテスト期間が始まって、手応えがあったりなかったり、午前にテストを終えて家に帰ったら父さんと女がリビングであれこれしているところに出くわしてしまったり(よくあることだった)、父さんが夜の仕事に行った後も全裸のままでいる女に気まぐれであれこれのことを尋ねてみて、返ってきた答えの生々しさに怯んで怒鳴り散らしたり、結果どうなったかというと、僕は試験最終日の一限、保健体育のテスト中に貧血でブっ倒れた。早退させられて、花壇には行けなかった。僕の花壇。管理者は僕で、僕がいなきゃ枯れ果ててしまう庭。それを一日でも手離すことは貧血より身体に悪い気がしたけど、水やりは柳田がちゃんとやってくれるはずだと信じることにした。ふらふらしながら帰った家には珍しく誰も居なかった。空気の淀んだ薄暗いリビングで、鈍く痛み続ける頭と、体調不良の時に訪れるあの独特の心細さに耐えきれず、僕は母さんのソファーに抱きつきながらちょっとだけ泣いた。泣いていると、自分の身体がふやけていく感じがする。ふやけて、腐って、溶けて、このまま人間を辞められるような気さえする。
 母さんに会いたい。酔っ払いのバイクに引きずられて死んだ母さんの顔にかけられた白布を捲って「……おまえは見るな」と言いながら霊安室で気絶した父さんの姿が恐ろしくて、僕はその死に顔を最後まで見られなかった。そのせいで記憶の中のあの人はいつでも綺麗で優しいまま、なおのこと頭の中で神聖化してしまうんだ。あの日から父さんは馬鹿みたいに生きた女をとっかえひっかえ、若い頃の母さんにそっくりだという僕とは顔を合わせてくれない。小六になった年の夏からずっと。あの日以前に戻れたら……。母さんの作った夕飯を食べられて、悩みという悩みもなかった、あの時代に……。
 さなぎの中のどろどろの正体は、きっと涙だ。なんて、どうしようもなくしょうもないことを僕は思った。だって絶対に心細いだろう。狭いさなぎの中でひとり、見届けてくれる人もいないから褒めても慰めても貰えずに、自分が自分ではない何者かに変容していくのをじっと耐えなきゃならないなんて。泣きたくもなる。身体がほんとうに崩れるほど、泣き叫びたくもなるさ。
 しばらく泣いたらすっきりして、ついさっきまで真剣にめそめそしたりポエミーになっていた自分を恥じながら、今度は少し前に女と交わした会話を思い出した。大人になる前にどろどろになる青虫を、人間と同じだと僕は言った。本当にそうねぇと答えた女の横顔はどこか切なげで、正直、気持ちが悪かった。受け入れたくないんだ。あの女だけじゃない、今まで父さんが連れ込んできた女たちに、僕と同じ高校生だった時があって、少女だった時があって、彼女たちが、女、というひとかたまりじゃなく別個の人間であるということが。母さん以外の女の人なんで僕にとってはどれもみんな同じなのに……。見える世界が広がるってことは、実はそんなにありがたいことじゃないのだ。 


 中間試験期が終わり、日曜日も通り過ぎ、訪れた月曜日の三・四限は授業振替があって、来月末の校内合唱コンクールに向けた合同練習が行われた。本番では全学年のクラス対抗で順位をつけるのだけど、今日は二年生全員が体育館に集まって三クラスが代わり番こに合唱を披露し、お互いの現状を知るという中間発表会のようなものらしかった。僕らはA組だから一番手で、ひな壇の作られたステージに上がるよう急かされて、気合いの入った先生の指揮に合わせて大きな古時計を歌う(高二なのに……?)。背の高い僕は最後列でアルトパートを囁くように歌いながら、体育座りをしてこちらを見上げる生徒たちの中に柳田の姿を探した。でも見つけられなくて、あれっ、あいつB組だったっけ? と思ってそっちにも目をやった。でも発見できずじまいだった。休みか、サボりなのだろう。僕は苛立ちに似た失望を抱いた。柳田には授業をすすんでサボるような奴であってほしくなかった。は? 何それ。僕に関係なくね? 他人だし。ちょっと一緒に花の世話をするようになったくらいで、何を勘違いしているんだろう僕は。
 昼休み開始のチャイムがなった後、なぜかA組のアルトメンバーだけが体育館に残らされて、パートリーダーをやっている子が「ウチらだけばらばらじゃんやる気あるの優勝したくないの」と泣きながら怒ってきて、それを他の女子が慰めて青春劇場みたくなっちゃって、最後にはなぜか円陣を組むことになり、肩をきつく組んで一気にオオオオーッと雄叫びをあげる連中にポーズだけ混ざりながら、こういうのが嫌でアルトを選んだはずだった僕は困り果てた。去年のアルトメンバーはやる気ない奴の集まりだったのになぁ……。両肩に残る、仲良くもないクラスメイトの柔らかな腕の感触。雄叫びを上げた直後に一瞬だけスッと冷めた空気。高校生って皆、へんに早く成熟しようとしてる感じがする。大人になるきっかけを、自分らで無理矢理作り出そうとしてるみたいだ。
奇妙な熱のこもった体育館から解放されたのは昼休みが半分過ぎた頃で、それはいつも柳田が花壇に姿を見せる時刻だった。今日は学校自体を休んでいるのか、それとも今頃花壇で僕が来るのを待っていて、「遅かったな」なんて笑うんだろうか。もし会えたら、C組せっかくいい曲なんだからちゃんと合唱練出ろよって、そう言ってやろう。
 けれどいざ校舎裏に着くと、そこに柳田はいなかった。代わりに、でっかい水入りバケツを空中で勢いよくひっくり返したように、地面が広範囲に不自然に濡れていた。そこに、輪っか状に巻いてまとめて置いたはずのホースが蛇の死骸のように伸びて横たわっている。けど一番端のプランターの中の土はカラッとしていて、花の水やりが終わっているということではなさそうだった。僕は急に不安になって、「柳田?」と呼びかけた。返事は、もちろんない。
 そして ―――― 。
 僕はようやく気が付いた。
 花壇の様子がおかしいことに。
 微生物の気配すら感じられない、真昼の陽光を浴びているのに不気味な空気をまとったそこに、恐る恐る、歩み寄れば。咲き誇っているはずのパンジー、マリーゴールド、コスモス。は、あらゆる暖色の花弁が引き千切られ、無残に根から引っこ抜かれて、まるで、ばらばら殺人の現場のような、凄惨な花壇が、纏っているのは、裂かれた緑と、濡れた土の、そして、知っている、分かる、これは。タバコの臭い。そして、それを誤魔化すように、濃く漂っているこの、甘い、毒のような匂いは。
 プアゾン。


 ぶ、ぶ、ぶっ殺してやる、という独り言は冗談でも大袈裟でもなかった。
 自分のクラスよりも二つ分職員室に近い教室の引き戸を勢いよく開け放つと、弁当やお菓子、制汗剤のきつい臭いが一気に鼻腔に吸い込まれてきて、僕はその場で軽くえづいた。うっと口を押さえて身を震わせた後、椅子が入り乱れる教室の中を、身を捩りながら進んでゆく。知らない奴ばっかり。C組。全く同じ作りなのに自分のクラスよりも居心地が悪い、異世界のような他クラスの教室。その、一番奥。カーテンが全て開け放たれ、空気が薄そうな秋の空をフレーミングする窓、際、の席で。上履きを履いたままの片足を椅子に乗っけて、サンドイッチを頬張りながら仲間たちと談笑している、目的の相手へと、ようやく、辿り着く。
 僕は右手にプラスチックのジョウロを持っている。
 ピンと伸ばされた象の鼻のように長いその注ぎ口を、両手でしっかりと握る。バットのように振りかる。それを、突然現れた僕を見上げ、カツサンドを齧ったばかりの口をポカンと開けている、奴に向かって ――――
「やめろッ!」
 
 やめるわけがない。

 額をかち割る勢いで振り下ろしたのに、柔らかいプラスチックはぺこーんと間抜けな音を立てて、あっけなく僕の手から弾け飛んだ。少し遅れて、タンッ、タンタタン……とジョウロが床を小さく跳ねる音。教室の喧騒は少しも衰えることがなく、ただ、僕の一撃を目撃したごく少人数だけが、時が止まったように呆けていた。彼の額は傷もなく綺麗なまま。僕は自分の無力加減に愕然とした。同時に戦意もぷしゅっと消えた。どこか底冷えた気持ちになって、奴の眉毛が怒りと困惑を交互に表現してピクピク痙攣するのを、ぼうっと見つめた。それからすぐ我に返った。
僕はできるだけ怖い顔を。冷たい、目をして。
「お前、いっつもヤニ臭ぇんだよ。……橋本」
 それだけ言って、ちょっと離れた場所に落ちたジョウロを拾い上げ、もう他に何をすればいいか分からなかったのでそのままC組の教室を去った。振り返ることもなく。それ以上、言えることもなく。
 柳田が経験したっていう、あれ。突然、子供でいられなくなる、生まれ変わっちゃう、一瞬。それは、大切なものを、理不尽に、無意味に、ぐちゃぐちゃにされた時だったのかな。それとも、理想の自分と現実の距離を、突きつけられた時だったりしたのかな。


 柳田はグラウンドの隅の植木に隠れていた。
 あたりの空気を吸い込むとプアゾンのにおいが口と肺に充満して、香水をそのまま舌に乗っけたような濃厚な不快感に襲われた。地面に放られたずぶ濡れの白シャツがその出処らしく、持ち主であるところの柳田は上半身裸のまま、茂みの中に体育座りでうずくまっていた。その頭には花弁や千切れた葉っぱや土がたくさんこびりついていて、背中の震えに合わせて、細かい土の欠片がぱらぱらとその短い髪を滑り落ちていた。声をかけると彼は飛び上がって、僕の顔を仰ぎ見た。
「ま、な、真辺? な、なん、……」
 その震えがこの気温から来るものだと分かって、僕はひとまず安心した。着ていたセーターを両手でポンと放ると、柳田はだいぶ躊躇ったけど最後にはそれを羽織った。
「真辺、なんでここに」
「鼻が利くんだ」
「いやそうじゃなくて……授業は?」
 僕はうーんと喉の奥で唸って、彼の横に人ふたり分の距離を空けて座り込んだ。柳田は拗ねた子供のようにそっぽを向く。その後頭部に、かろうじて花の形を残したキバナコスモスが一輪引っかかっていた。僕は何となく、そっと、奇妙なくらいゆっくりと、それに向かって指を伸ばしていった。理由の分からない緊張で、指先が痺れるような、ふやけるような感じがした。そして、あと少しで花弁を摘めるとなったところで、柳田が口を開いた。
「花壇、見たか」
「うん見た」僕は指を引っ込める。
「……ごめんな」
「いや、お前に謝られても」
 彼は、僕が全て察していることを分かっているようだった。いや、どうだろう? 僕も、柳田も、お互いの心の内をどれだけ分かってると言えるだろう? でも、そもそも教室の居心地が良い人間は、せっかくの昼休みにあんな、校庭の隅っこの花壇に来たりしないことは、確かなんじゃないかな。
 ハートのぶら下がるブレスレッド。女物の香水プアゾン。それらは、柳田が望んで身に付けていたものじゃない。そしてあの図鑑も、彼の家で時間をかけて汚れたものじゃない。だってあの本が発行されたのは、先月だ。奥付にしっかりそう記されてあった。ページだって新品くさくて、表紙の汚れからは、新鮮なカツソースの匂いもした。
 橋本をジョウロで殴って来たことは、言わずにおくことにした。仇をとった、と言えるほどのことはできなかったのだし……。僕がキレた理由、あいつらには分からないのだろう。だから反省もしないし、そもそも考えもしないんだ。自分たちが喫煙所代わりにしたあの花壇の、ほんの遊びで千切ったその一株一輪に、毎日水をまいて慈しんでいた人間がいたことを。
 つい一時間ほど前の花壇で、何が行われていたのかを僕は思った。いや違う、今日だけじゃない。柳田の地獄は、今日だけのものじゃないんだ。僕はそれを知っていた。橋本とその仲間たちに、ゲームと称して、イジリと称して、無理やり化粧をされて校内を歩かされたり、体育の後にズボンを隠されて次の授業に出られなかったり、ポルノ雑誌の下品なポーズの真似をするように強要されたり。そんな毎日を、僕はあくまで笑い話として柳田に聞かされていた。それらが友情のもとに許される類の戯れじゃないことくらい分かっていたけど、柳田はそれを甘んじて受けることを選んでいるようだったから。何も、言うまいと。僕には、関係がないんだと。昼の数十分間、彼に逃げ場を提供することしかしてこなかった。その結果が、これだっていうのかよ。
 柳田の頭のキバナコスモスを、今度は素早い動きで摘まみ取る。振り向いた彼と目が合う。不気味なくらい凪いでいる、でも、引っかき傷のついたガラスみたいな、ちょっと曇った瞳をしている。赤みを失った唇が吐き捨てる。
「俺ホモくせぇんだって」
「は?」
「なんか分かんねぇけど、急に、お前ホモだろーとか言われ出して。まぁ橋本が始めたんだけど。で、中村のこと好きだろ? みたいな。あ、中村って分かる? 野球部の」
「坊主のやつ?」
「うん、まぁそうだけど、野球部はみんな坊主だろ……」 
「あそっか。……で、そのノリが高じて、プアゾンなの?」
「ぷあ?」
「香水」
「あぁ、うん、まぁそういうこと」
 酷い話だけど、橋本たちの侮辱に柳田がちゃんと傷付いていたことに、僕は安堵した。彼は、愚鈍じゃない。柳田はちゃんと怒っていて、だからこそ、その従順も諦めも沈黙も、何かしらの思惑があってのことで、自分の尊厳を守る柳田なりの戦略なんだと、僕は自分に言い聞かせることができた。ぜひそうであってほしかった。だってそうじゃなかったら、僕はこの怒りと悔しさをどこにやったらいい? こいつの腕力なら素手でだってあいつらに傷を与えられるだろうに。
「真辺」
「ん?」
「スカート汚れちゃうぞ」
「……。今更?」
 呆れた僕はわざと大きく足を投げ出して、見せつけるように胡座をかいた。捲れたスカートの襞から、僕の青白い腿と膝小僧がのぞく。柳田はそれをちらっと見てから鼻で溜め息をつき、分かるか分からないくらいのさりげなさで、ケッと顔を歪めた。
 僕はこの時初めて、柳田と親友になりたいと思ったんだ。


 その夜、僕は柳田のシャツにアイロンをかけていた。しゅうしゅうと吹き出すスチームを、香水の染み込んだ袖口や襟や胸元に押し当てると、蒸気と一緒にプアゾンの匂いがリビングに広がっていく。一方女は窓際でいつものようにタバコの煙を吐きながら、僕と柳田と花壇の話を聞いてきゃっきゃっと笑った。
「それで男の子のシャツを持って帰ってきて、そんな顔でアイロンをかけてるの。やるじゃないあんた」
「だってあいつが捨てるとかいうから……え、なに? 僕どんな顔してた?」
「好きだなぁって顔」
「は?」
「プアゾンの彼のことよ。好きなんでしょ」
「……ああ!」
 僕は一発自分の頬を叩いて、眉間に力を込めた。
 柳田を見ていると、ふと、胸が苦しくなることがある。尖った喉仏。角ばった手の甲。腕のライン。背中の広さと胴の薄さ。しゃがんだ時、ズボンの中で窮屈そうにしている膝。長く太い、手足。高いのに深みのある声。あれこそが男の身体だと僕は知っている。柳田は男だ。そして僕の身体といえば、彼とは対になる、まぁるくて柔らかい肉の塊だ。
 これは羨望か。
 はたまた恋か。
 それとも嫌悪か?
「どうでもいいけど、傷つきたくはないなぁ」
 独り言に、女が咳のような乾いた笑いを漏らす。大丈夫よぉ、と諭すような声で言う。
「人生なんて所詮、喫煙所巡りみたいなものなんだから」
「どういうこと?」
「疲れたら逃げて、傷ついたら逃げて、弱虫だって言われてそれが正しいじゃない? でも結局、逃げた先でもまた傷ついたりして、何度でも逃げるものよ。本当に安らげる場所を求めてさ……喫煙所なんてどこも変わりないのにね……そうだ、あんたも私みたいに高校なんか辞めて、夜の街に来たら?」
「それは嫌!」
「あそこでは身体の形しか大事にされない。あんたの気も、楽になるんじゃない」
 僕は、自分の顔が憎悪で歪んでゆくのを感じた。いつものように何かを投げつけようとして、とっさに柳田のシャツを鷲掴んでしまう。柔らかくて温かい布に爪を立てた瞬間はっとして慌てて手を引っ込めたけど、シャツにはすでにくっきりと握り拳の内側の形にシワが寄っていた。爆発しかけた昂りはすでに身体を行き過ぎていた。僕はまた、自分の戦意喪失のあっけなさに打ちのめされることとなった。
 アイロンが僕の代わりに、ぷしゅぅう、と濃く熱い溜め息を吐いた。


 その後の話を、ちょっとだけしておこう。
 予想より早く返却されてきた英語のテストで、僕は一ヶ所だけ綴りのミスをしていた。hを抜かしてしまったその単語をけれど僕は気に入って、誰にも言わずにそっと胸にしまいこんだ。誰にも言わずにっていうのはなぜかと言えば、そういう話を聞いてくれていたあの女が突然家からいなくなったからだ。父さんが次に連れ込んできたのは醜くたるんだ身体をしたババァで、僕の顔を見る度に「お前さえいなきゃあの人と一緒になれる」と唾を飛ばしてくるような本物のクソババァだった。「なにそれ。父さんがそう言ったの?」僕がそう返すと、ババァは涙目になってどんどんと地団駄を踏んだ。
 そして、校庭の桜に裸の枝が目立つようになった十一月のある日、僕はうんと早い時間に登校して、しばらく風を通してすっかり臭いを抜ききったあのシャツをちっちゃく畳んでビニール袋に入れて、柳田の下駄箱に突っ込んだ。
 そしてその二日後(水曜日だった)柳田があの日以来、初めて昼の花壇に顔を出した。取れかけていた第二ボタンが縫い直されてあることに気付いて、迷った末に直接礼を言いにきたのだという。申し訳なさそうに花壇をちらちら見ながら話す彼はもうあのブレスレッドを着けていなかった。それが何を示唆しているのか、本当のことは何も分からなかったけれど、僕はこう言った。この先また疲れて逃げたいことがあったら、ここ、僕の場所、この花壇を、休憩所とか避暑地とか、そういう風に思ってくれて構わないと。
 植物は抵抗をしない。その代わり挫折もしないし、諦めない。それが当然のことだとDNAか何かにインプットされているんだろう。だから、半身が千切られても残った蕾は花ひらく。
 僕はいつも家のソファーでやっているように、花壇の縁に仰向けで寝転がった。風で舞い上がるスカートを気にせず。胸の形が崩れるのをそのままに。僕はこうして自分の肉体に反抗する。けれど、反抗していることを、周囲には秘密にしている。
 男か女か。子供か大人か。その間を揺蕩うしかない今は、とても生き苦しいものだ。でも、いつか僕が少女でも娘でも女生徒でもない、ただの僕として立つことができたなら、それが僕にとってのあの瞬間になるんだろう。子供が子供じゃなくなる時。自分が今までの自分じゃなくなる一瞬。コンプリート・メタモルフォシス。でも僕らはまだ未熟で、無垢なままではいられなくて……けれど、大人でもなく。泥に溺れるように日常をやり過ごすしかない。
 僕らはさなぎだ。
 泣き叫ぶさなぎだ。


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