恋とか愛とか、女性としてとか
「かわいいね」
自慢じゃないのだが、
人生で人並みには言われたことがある。
そのとき、私の感情の表出は、大雑把に2つ。
「うぅん?」か、
「照」か。
深く考えて解決するものと思っていなかったが、
ずっと違和感のあったこの2つの違いに対し、
愛しい人たちを想像しながら散歩をしていたら、
突然解のようなものが見えた。
自分のためにも、そして同じモヤモヤを抱える人がいたら知って欲しいという気持ちも込めて記しておく。
人として愛してくれ
これまた人並みにだが、私は恋人というものが何人かいたことがある。
その時、相手から「かわいい」「守ってあげたい」と言われるとゾワゾワした。
いや、本当に失礼な話なのだが、ゾワゾワした。
頭を撫でられたり肩を抱かれたりするのも、なぜか居心地が悪かった。家族や友人(これは性別を問わない)にされるのは、全く嫌でなかったのに。
それを友達に言うと、
「え!!それが嬉しいんじゃん!女の子扱いされたいよ」
と言われたり、
「そもそも言われて嬉しくないって、相手のこと好きじゃないんじゃない?」
と言われたりした。
後者のコメントについてはまた別の議論になってしまうが、
とにかくいわゆる"世間一般"的には「女の子扱い」されて喜ぶ人が多いようなのだ。
少し違った角度の事例を出すが、
学生時代、飲食のアルバイトで「油はね危なくてやらせられないよ」と言われたり、
仕事で「こんな助けてあげないよ若手の男だったら」と言われるのもゾワゾワした。
どれに対しても、私がゾワゾワする理由は、
言葉の頭に隠れた(女の子だから)がいるからなんだ、と、気づいた。
最初の事例で言えば、
今日のメイク可愛いね、とか、おしゃれだね、とか、言動・行動が動物みたいで可愛いね、だったら全然嬉しい。
努力の部分や、私の可愛いと思うものを相手も可愛いと思ってくれたことが嬉しいし、生物的に、性別抜きに存在的に可愛いと思ってくれることは嬉しい。
(女の子らしくて)かわいい、
だとか、
(女の子で弱いから)守ってあげたい、
が腑に落ちなかったわけだし、
生物学上、重い=筋力的に無理、だとか、世間的に夜道危ない=女性社員を遅くまで残すのは怖い、だったらわかるのに、
(女の子に怪我させられないから)やってあげるよ、
だとか、
(女の子に大変な仕事はやらせられないから)力になるよ、
がムズムズだったのだ。
なんだ?その女性の特権、とやらは?
漠然と、そんな気持ちになる。
生物学上の男性と2人でご飯に行こうよ!となって、
男女2人で食事をする、すなわち恋愛モードになる、というのが苦手な理由もここにあった。
さきが好き、だからドキドキする、
だったらいい。(偉そうですみません)
女性とご飯、だからドキドキする、
これは、
私を見てる?
あなたが見てるものは何?
と悲しくなる。
私が 女性 じゃなかったら優しくしてくれないのか?
私が 女性 じゃなかったら恋愛的に好きにはならないのか?
私が 女性 じゃなかったら愛してくれないのか?
ここが、一番のネックだった。衝撃的な気づき。
私は、
私が さき であるから助けたい
さき であるから好きになって欲しい
さき であるから愛して欲しい
のだと思う。
逆に、
私の人間性がまるっと変わってしまって、
もう さき でないから手を差し伸べられない
さき でないから好きじゃない
さき でないから愛せない
だったらなんら嫌な気持ちはしないし、
甘んじて受け入れられる。
私が私であるからこそ・それがベースでのlikeやlove、そこから表出する「可愛い」だったら例えそれが外見(顔の造りや服装など)であっても構わないが、
「女性である」という謎のカテゴリーにlikeやloveを感じられるのが、
私を見てよ‼︎
人として愛してよ‼︎‼︎
と、たまらなく叫びたくなるのだと思う。
なんだか、スッキリした。
愛する人が増えたおかげで、
なんでその愛する人の愛は嫌じゃないのか?と考え始めて、
なんというか、
人との関わりの中で自分への理解も深まるって、
こういうことだ。
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