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ハートにブラウンシュガー 3

ホール内は全員総立ちで、スモークと熱気に溢れかえっていた。レイが弾くレスポールの速弾きギターのリフが稲妻の如く空間を駆け抜けて行く。それにティナのパワフルなヴォーカルが加わる。まるで音の波の中を自由自在にサーフィンしているみたいに絡み合って一体化して行く。
そして、クマの叩くドラムが的確にビートを刻み、サブのベースがズンズンとフロアを伝わり下半身に響いて来る。
集まった若者達は男女を問わず、ブラウンシュガーの演奏に熱狂し、頭を上下に激しく揺さぶったり、全身でその歌声やリズムに酔いしれていた。

走り抜けた30分の持ち時間はあっと言う間だった。ラストの曲を歌い上げたティナは汗ばんで額に張り付いた前髪をそのままに、両手でマイクを掴み感謝の言葉を叫んだ。
観客は一斉に拳を突き上げティナコールを繰り返す。それにニッコリ笑ってティナは客席に向かって投げキッスする。
レイはレスポールをスタンドに置くと、引き終わったばかりのピックを客席に向かって放り投げる。周辺の客達が群がってそのピックを奪い合う。
最後にサブとクマも手を振りながらステージを後にした。二人とも汗びっしょりだ。
今、この界隈で人気No. 1のバンド『ブラウンシュガー』今夜のライヴも最高の盛り上がりを見せた。

ライヴの興奮も一段落し、片付けを終えて裏口からレイは荷物を運び出していた。
誰もいないと思っていた暗闇から突然に声がする。
「久しぶりだな、レイ」
振り向くと、以前に所属していたバンド『スネーク』のベーシスト日浦が壁にもたれて煙草を吸っていた。
レイはチラッとそちらを見ると、少し顔をしかめて、小さく「ああ」と返事して、そのまま行こうとした。
「待てよ。昔の仲間に冷たくするなよ」
日浦は吸っていた煙草を投げ捨てると、レイの側に近寄って来た。
「何か用か?」
「用でも無きゃ話し掛けちゃいけねぇのか? オマエも随分エラくなったもんだな」
ライヴハウスの裏道、日浦はぺっと唾を壁際の草むらに吐き出した。
『スネーク』というバンドはパンクやヘビメタを中心に音楽活動しているのだが、ステージ上で火を吹いたり、機材を投げ倒したり、かなり過激なパフォーマンスを売りにしている。
メンバーも元暴走族上がりで、カラダのあちこちには毒々しい絵柄のタトゥーが刻まれている。
日浦も同様で、タトゥーの他、全身の至る所をピアスで飾り立てている。
言葉遣いや素行も良くないので、ヤクでもやっているのではないかと、もっぱらの評判である。
音楽性の違いからレイは『スネーク』をやめたのだが、未だに顔を合わせると何かと言い寄って来る。

「そうじゃないけど、今はこのバンドにかけてるんだ。今日は疲れたからもう帰るところだよ」
レイは素っ気なく答える。
「あのヴォーカルの女としこたまヤルんだろ?」
と、日浦は好奇の目でレイを見て、今度はポケットからガムを取り出しクチャクチャと噛みだした。
「何が言いたい?」
「へへ、昔の仲間のよしみでこちらにも少し回してくれよ」
ヘラヘラと笑いを浮かべてそう言う。
「そういうタイプのオンナじゃないから」
レイはこれ以上話をしても時間の無駄だと思い、駐車場に向かおうとする。ティナが待ってる。
「おい、待てよ。話はこれからだ」
「何だよ。俺はもうオマエ達とは何の関係も……」
と言い掛けたレイの目の前に、日浦はナイフをちらつかせた。
「今度な、ちょっとした取引がある。人手がいるんだ。オマエの手を借りたい」
「どうしてオレが」
「影山が呼んでるんだよ」
影山というのは『スネーク』のリーダーをしている男で、悪い奴には違いないが面倒見の良い所もあり、レイが借金で苦しんでた時に肩代わりしてくれたのだ。しかもその時に借りた金がまだ返し終わっていない。
「いや、俺はもう……」
「バンドをやめるのは認めてやったんだ。だが、裏切りは許せねえ。もしも頼みを断ると言うのなら、容赦はしねえぜ」
日浦はナイフの先をレイの顔に向け、凄んで見せた。そして胸ぐらを掴み、壁に押し付ける。
丁度その時、ガタンと音がして、裏口のドアが開いた。
ベースを担いで出て来たのほサブだった。その後にクマも続いて、二人は何やら冗談を交わし笑い声を上げている。表に出るとクマが振り向いてドアを閉める。
その時、チラッとこちらを見る。
日浦はチッと舌打ちすると、
「また連絡する」と言い捨てて去って行った。

「おい、何かあったか?」
クマが声を掛ける。
「いや、何でもない」
「誰だ? あいつは?」
「スネークのベーシストの男だな」
クマの呟きにサブが答える。
「おまえ、まだあんな奴らと付き合ってるのか?」
「いや、たまたま会っただけだ。何でもない」
レイはギターケースを持ち直すと、
「お疲れ」と言って、駐車場に向かった。

その日の夜はレイのアパートにティナも泊まった。
夜食を食べた後、二人は激しく抱き合った。
以前はホテルを利用する事が多かったのだが、最近はもっぱらレイのアパートにティナが泊まりに来る事が多くなった。
節約するつもりもあった訳だし、何となくそうなった。それに簡単なものではあるが、ティナが夜食や朝食を拵えてくれるので、レイにはそれが嬉しかった。
ティナにはこういう家庭的な一面もあったのだ。
深夜、二人が夢うつつの状態になった頃、突然、マナーモードにしていたレイの携帯が振動した。
隣ではティナが寝返りをうっている。
レイはベッドを抜け出し、携帯を耳にあてた。
「俺だよ」
聴こえて来たのは『スネーク』のリーダー影山だった。
レイはティナに気付かれない様、携帯を持ったまま洗面所の方へ移動した。
「ああ……」
「寝てたのか? 悪いな」
「いや、大丈夫だ。それより……」
心なしかレイの声は掠れている。
「明日の夜、会えないか?」
「明日? 今夜て事か」
「そういう事だな。もう日付は変わってたな」
影山は可笑しそうに含み笑いをした。
「日浦に会ったよ」
「それなら話は早い」
「その事なら……」
レイは断るつもりでいた。
「とりあえず、来てくれ、話だけでも聞いて欲しい、おまえにとっても悪くない話だ。じゃ、いつもの所に11時だ」
それだけ言うと一方的に通話を切った。影山らしいやり方だ。
オレにとっても悪くない話? レイは影山の言葉に少し首を傾げた。
ティナを起こさない様にそっとベッドへ戻る。
「誰から?」
すかざすティナが訊いた。
「起きてたのか?」
「何だか良くない相手の様ね」
「いや、大丈夫だ。心配すんな」
「そう、だったら良いけど」
ティナはそう言うと大きな欠伸をして、両手でレイの顔を包み込み唇を押し当てた。
レイの口内に入り込んだティナの舌が別の生き物の様に激しく動き回る。
レイは再びティナの裸の胸に手をやり激しく弄(まさぐ)った。そして抱き寄せると背中からヒップの柔らかなラインを掌で擦(なぞ)った。
ベッドの上で二つの身体は縺れ合い絡み合った。

その日の夜遅くレイは影山の元を訪れた。
港に近いマンションの一室である。
部屋には影山が一人でいるらしかった。
リビングに通されたレイは影山と向き合い、缶ビールを手渡された。
「バイクだから」と断ると、
「少しくらい良いじゃないか。それとも真面目な男にでもなっちまったか?」
と影山は笑みを浮かべて言った。
レイは缶を開け、一口だけ口に含み、テーブルに置いた。
影山はラッキーストライクの箱から煙草を一本取り出し火を着けた。
気持ち良さそうに煙を吐き出す、たちまち部屋中に白い煙が広がった。
そして影山は早速、本題に入った。
「日浦の言ってた話しだけどな。取引は今週末だ」
「その件は……」
「オレが頼んでるんだ」
影山は有無を言わさぬ強い口調でレイの言葉を遮った。
「……」
「取引の内容をお前は知らなくていい。ちょいと見張りが足りねえから居て欲しいだけだ」
レイがスネークにいた頃からこんな事が何度かあった。影山達はヤクの売人をしているとの噂を耳にした事もある。
大きな組織と連携しているという事は知っているが、詳しい事は誰にも話さない。
レイが黙っていると、
「もし、手伝ってくれたら、あれは無しにしてやるよ」
「あれ?」
「お前に貸した金だが、まだいくらか残ってたよな」
影山の言う金額とレイが記憶してる金額には少しの誤差があった。
「……もっと少ないはずだが」
「利息ってものが付くのを忘れるな」
影山の言葉に、レイはムッとして黙った。
「それでもお前が最初借りてた町金よりはずっと良心的だぜ」
その当時レイは町金からそこそこの借金があり、取り立て屋に追われて逃げ回るという苦しい生活をしていた。
それを影山が肩代わりしてくれた訳なのだが、影山もそれほど善人ではない。
レイの生活では月に数万円程度を返済するのが精一杯だった。不定期ではあったが、この2年間でそこそこ返済はしていたのだが……。
「それを全部チャラにしてやろうと言う話だ。悪くないだろ」
影山はそう言ってレイを見据えた。
「これが最後という事なら」
と、レイはよく考慮した上で、最大限の譲歩をした。
「分かった。そういう事にしよう」
影山は軽く頷いた。


それからの2、3日、レイはバイトに明け暮れていた。ティナが再びレイのアパートにやって来たのはそんなある日の夜遅くだった。
「最近疲れてるみたいね」
「ちょいとバイトが立て込んでてね」
「明日は練習日よ」
「それは大丈夫だ。予定してる」
「ふ〜ん」
ティナは気の無さそうな振りをして部屋の中を見渡した。
「ねえ」
「ん、何だ?」
「週末、何か予定あるの?」
「いや、どうして?」
「カレンダーに何か印してあるから」
レイは一瞬しまったと思った。
昨夜、日浦から電話が有り、取引当日の場所と時間を連絡して来たのだ。その時にカレンダーに印を付けてしまっていた。
「いや、何でもないんだ」
レイはカレンダーを外してくるくると丸めると机の隅に押し込んだ。
「ふ〜ん」
ティナはそれ以上何も言わずに、その日は夜遅く帰って行った。

翌日はバンドの練習日になっていた。
練習はスタジオFというレンタルスタジオを借りて週一のペースで定期的に行っている。
今夜からは新しい曲にも数曲取り組むので、まだ慣らしの段階とは言え、急ピッチで細部にいたるまで念入りに練習を繰り返した。
「これでは、まだまだだな」
一通り通してみた後で、クマが全体の感想を述べた。
「ティナは歌詞を覚えてないし、入りを間違えてる。レイのギターリフも盛り上がりに欠ける。全体的にメリハリがない。来週からは本腰入れないと次のライヴには間に合わないぞ」
クマの言葉に全員頷くしかなかった。
「よし、来週もう一回合わす。それまで自主練しておいてくれ」
そう言って、その日の練習は終わる事にした。
「ティナ、送ってくよ」
レイがそう声を掛けると、
「今日はいいわ」
珍しくティナはそう返事した。
「何だよ? 何かあるのか?」
「ちょっと涼子さんと約束してて」
「え? 涼子さんと? なんで?」
涼子と言うのはクマの奥さんだ。
「えへへ、実はこっそり料理を教えて貰っててね」
ティナはそう言ってウインクした。
「へぇ、そうなんだ」
それで最近、ティナの手料理の腕が上がって来たのかとレイは合点がいった。
まあ、それならそれで仕方ない。その日レイは一人でアパートに帰った。
何だかどんよりした蒸し暑い初夏の夜だった。

そして、あっと言う間に週末の夜がやって来た。
例の影山達に見張りを頼まれた取引の日だ。
港の8番倉庫に夜の11時、と日浦から聞いていた。
レイは他人に目撃されない様に少し離れた空地にバイクを停めると、そこからは歩いて8番倉庫に向かった。
この港の埠頭はだだっ広い。倉庫も街の方から埠頭の先に向かって1番から9番まで、番号のついた倉庫が建ち並ぶ。それ以外に貨物置場や空地、車輌などが置かれていて、メインストリート以外に迷路の様に脇道がいくつかある。
ただし、8番倉庫から先は、三方を海に囲まれたどん詰まりになる。

倉庫のドアは開いていた。辺りは漆黒の闇だ。
潮の香りがプ〜ンと鼻を過ぎる。
中に入ると影山達はもうすでにスタンバイしていた。倉庫の中はガランとしていて貨物は少ない。
皆、緊張した面持ちで、レイを横目で見た。
「いいか、あと10分程で大岩組の連中が来る」
影山が声をひそめて指示を出す。
「俺と日浦が荷物を受け渡しする。田村は東側、中山は西側の通りを見張れ、レイは南側だ。いいか、取引が無事に終わったら、それぞれ別行動で1番倉庫の向こう側の広場に集合だ。いいな」
それぞれが持ち場に別れる。
レイはいざという時のためにポケットにペンライトと小型の折りたたみ式ナイフを忍ばせている。
何があるか分かったもんじゃない。
レイの持ち場、南側は埠頭の先に続く道路があるだけで、あちらに行ってしまえ袋小路だ。用心しなければならない。危険な場所だ。

暫くすると、車の停まる音がして大岩組の男が2人スーツ姿で現れた。
手にはアタッシェケースを持っている。
影山が歩み寄り、日浦がその後に続く。
緊張感が伝染してその場の空気を張り詰めたものにする。
4人で2言3言、何やら言葉を交わしている。話の内容までは聞き取れない。
日浦が手提げ鞄をスーツ姿の男に手渡す。
中身を確かめた男はもう一人の男に頷き、アタッシェケースが影山に手渡される。
影山もケースの中身を確認する。
その中の一つの袋を手に取り、端の方を引き裂き、指先に微量のその白い粉を付け、一口舐めて本物である事を確かめると、小さく頷き男達に合図した。
影山はスーツ姿の男達と握手を交わした。
取引は成立した様子だ。

と、その時、遠くからサイレンの音が聞こえて来た。くるくる回る赤いライトが徐々に近付いて来る。パトカーだ。
「くそ、タレコミやがったな」
スーツ姿の男達はそう言って内ポケットからピストルの様なものを取り出し、影山らを威嚇しながら走って外の車に乗り込んだ。
車が走り去った別の方の道からパトカーらしきサイレンの音と回転灯の明かりが倉庫に近付いて来る。ヤバい!
「おい、みんな、逃げろ」日浦が叫ぶ。
「レイ、9番倉庫の方に走って、そちらにパトカーを引きつけろ。その先に空地があるから暫くそこで隠れてろ。後で迎えに行く」
影山が指図し、皆が一斉に走り出した。
仕方なくレイは埠頭の先、9番倉庫方面に向かって走った。パトカーのライトに一瞬身体が照らされた気がした。まずい、逃げ切れるか?

影山と日浦はアタッシェケースを抱えたまま、倉庫の裏通りに置いた軽自動車に乗り込み、倉庫街の細い小道を走り1番倉庫方面に向かう。
「大丈夫すか、レイの奴は、9番倉庫の方は追い詰められたら逃げ場が無いっすよ」
日浦が車内で心配そうに呟く。
「いいんだ。奴は捨て駒だ」
影山の言葉に日浦は驚く。
「え、最初からそのつもりで?」
「さあな、いざとなったらの場合だ」
日浦は影山の非情さに鳥肌が立つのを覚えた。
影山の作戦が上手く行ったのか、サイレンの音は後方に過ぎ去り、埠頭の先9番倉庫に向かっている様であった。

レイはひとり9番倉庫の先の空地に身を隠した。
大きなコンクリート塊の陰に隠れて、パトカーをやり過ごすしかない。辺りは草むらだが、高さは膝下あたりまでなので身は隠せない。さらに地面は砂利が敷き詰めてあるので音がする上に走り難い。身動きが取れない状況だ。
じわりと額に汗が滲む。
サイレンの音が止まって聞こえなくなった事が返って不安を煽る。
波の音が辺りを支配し、夜の海はどこまでも暗い。
遠く対岸にあるコンビナートの明かりが点滅してるのがここからだとよく見える。
くそ、どうしてオレはいつもこんなについてないんだ。
心の中でレイはこれまでの自分を悔やんだ。
どれだけまともに生きようと思ったって、こうやって悪い繋がりがいつまでたっても自分を追いかけて来る。仕方なくここに来てしまった事を今更ながら悔やむ。
しかし、そんなことより今は何とかこの状況を打破しなければ、と気持ちだけが焦ってしまう。


レイが身を隠しているコンクリート塊の片側から一人の人物が足音を殺して一歩一歩近付いて来る。
レイからは背中側になるので気が付いていない。
迷彩柄のズボンにスニーカーを履いたその人物はもう手を伸ばせば触れる程の距離までレイに近付いていた。

蹲った状態で息を殺して様子を伺っていたレイはふいに背後から近付いて来た人物に右腕を捕まれ、驚いて飛び上がった。

「はい、捕獲!」
その人物、ティナはキラキラした瞳をレイに向けてニッコリ笑った。
「ティナ! な、何でここにいる?」
訳が分からずレイはティナを見詰めた。
迷彩柄の帽子まで被っている。
こんな時の感想としては妙だが、よく似合っている。
「驚いた?」とティナは訊く。
「心臓が止まるかと思ったよ」
レイは答える。
「おーい、いたよー」
とティナは振り向いてどこかへ声を掛ける。

すると、工事現場で使う様な回転灯を持ったクマと、メガフォンみたいなものを手にサブが現れた。
サブがニヤッと笑ってメガフォンに取り付けられたハンドルをくるくる回すと、ウーウーとサイレンの音がした。
「さっきの音、これだったのか」
「上手く行ったろ、これドンキで見つけたんだ」
サブは愉快そうに笑った。
「レイ帰るぞ。ここにいても影山達は迎えに来ない。お前はおとりにされたんだ」
「そんな事だと思ってたよ」
「今頃、奴らは1番倉庫の先の広場で本物のパトカーに囲まれてるかもな」
と、サブが言うので、
「通報したのか?」
レイは驚いて訊いた。
「ま、それは言わないでおこう」
クマは鼻先でフフンと含み笑いをした。
「でも、何でここが分かった?」
「いろいろとな、ティナからも話を聞いて情報を集めた」
レイはちょっと呆れてみんなの顔を眺めた。
こいつらヤケに瞳がキラキラしてやがるな。
そんな印象を受けた。
港の明かりのせいかな。


後日、影山や日浦、『スネーク』の奴らが警察に捕まったかどうかは分からなかったが、どこのライヴハウスやスタジオからも奴らは出入り禁止を喰らったらしい。

次の週、レイのアパートにクマがふらっと現れた。
「ほら」
と差し出したのは、レイが影山に渡した借用証書だった。
「これは?」
「もう変な奴から金は借りるな」
とクマは言った。
「金はどうした?」
「見張りをしたら借金はチャラにするって事だったんだろ」
「まあ、そうだが……」
「そしたら、それでいいじゃないか。約束は守らせろ」
「影山に会ったのか?」
「奴とは昔、ちょっとした因縁があってな」
「あいつら、あの夜、警察に捕まらなかったのか?」
「ああ、あれな……」
クマはぽりぽりと頭の後ろを掻いた。
「あれは嘘だ。誰も通報なんかしてねえ」
「そうだったのか……」
何となくそんな気がしていた。
ガッカリした様な、ホッとした様な、どちらとも言えない、複雑な気分だ。
「レイ、お前、奴らがあそこで何の取引してたのか、知ってるのか?」
「いや、知らない」
「じゃ、それでいい、何も訊くな」
「…………」
「俺も知らないんだ」
その話はそれで終わりにした。

クマは話題を変えた。
「聞いてるか? 最近ティナが涼子に料理を教わりにたまに来てるんだ」
「ああ、聞いたよ」
「ここにも来るんだろ」
「週に2、3回くらいかな」
「なかなか筋が良いらしいぜ。涼子が言ってた」
「そうなのか」
「お前達、結婚すんのか?」
「あ、いや、そんな話は一度も……」
「そうか、それはどっちでも構わないが……」
クマはちょっと何か言おうか言うまいか、躊躇している様に見えた。
「何すか?」
「ちょっと小耳に挟んだんだが、少し前に須藤のオヤジにティナは声かけられたんだってな、ソロシンガーとしてプロにならないかと」
「ああ、その話……」
須藤というのはライヴハウスの経営者だ。元ミュージシャンで今も音楽プロデューサーをしている。
「断ったって言うじゃないか」
「そうらしい」
「う〜ん、その気持ちは嬉しいが、ちょっと気になるよな」
「ティナはバンドでやって行きたいらしいすよ。ブラウンシュガーで」
「そうだな。バンドでデビュー出来たら、最高なんだけどな」
「どっかから声掛けて貰えればいいけど……」
「俺はな、この2、3年が勝負だと思ってるんだ」
「2、3年すか」
「ああ、結局、音楽で飯を食ってけるのは、ティナとお前の2人だ。俺とサブはそこまでの腕はない。だがな俺とサブはそれぞれ家業がある。俺の家は建築屋でサブの所は酒屋だ。いずれはそこに収まる。それまでの間の、ちょっとした夢の時間だな。もしバンドで行けるなら、勝負に出てもいいと思ってる」
「勝負?」
「デビューするにはオリジナル曲が必要だ」
「オリジナル……」
「どうだ、お前、作曲、やってみないか?」
「俺がすか?」
「ああ、最低でも2曲は必要だな。歌詞は何とかなる。問題は曲だ。バンドを代表する様なノリのいいやつと、もう一つはバラードでどうだ?」
「……急にそんな事言われても」
「いや、お前なら出来そうな気がするんだ」
「まさか」
突拍子もない話だ。
「将来、ティナと所帯を持つとしても生活費を稼がなきゃならんだろう。お前とティナは音楽の世界でやってけるよ。俺はそう思う」
「いや、しかし……」
「まあとにかく、考えてみるだけでも無駄じゃない」
「今、ブラウンシュガーはノリに乗ってる。この勢いに乗るんだ。そしたらバンドデビューも夢じゃない。よく考えといてくれ」
そう言うと「さ、帰るわ」と腰を上げた。
レイも立ち上がって、
「クマ、……いや、茶倉さん」と声掛ける。
「お、何だよ急に、改まって」
「俺は、ブラウンシュガーに入れて貰って良かったと思ってる」
クマは、レイの顔をしげしげと見つめて、ふっと笑顔を見せた。
「そうか」
「ティナに会えた事も大きいが、あんたやサブさんがいるから、やって来れた。こないだの影山の取引に利用された時も、助けに来てくれて、……何と言うか、その、……、感謝してると言うか……」
クマはうんうんと頷いてレイの肩をぽんぽんと叩いた。
「あれはあれで、こっちも結構楽しかったぜ」
と言って声を上げて笑った。

「じゃあな」と軽く手を上げてクマは帰って行った。

レイはその後ろ姿を見ながら、ティナがソロシンガーでのデビュー話を断った事を少し理解出来た様な気がした。
ブラウンシュガーで暫く夢の時間を過ごす。
バンドでオリジナルやってデビューか、
それも悪くないなと思った。

その夜、レイは自分の将来、ティナとの未来。そんな事を夢想しながら、心が沸き立つのを感じた。

「オリジナル曲か……」
レイの心に小さな灯りがともった気がした。
ふと思いついてレスポールを手に取り、アドリブでギターリフを、あれこれ繰り返してみた。
レイは心が浮き立ち、胸がワクワクするのを感じていた。

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