見出し画像

映画「バーニング」を観て

 村上春樹の短編小説「納屋を焼く」(1983年)を原作とした映画「バーニング」(2018年)を観た。

 原作は『螢・納屋を焼く・その他の短編』(1984年)に収録されたわずか30ページほどの短い作品だ。読んだのは10年ほど前なので記憶がおぼろげだが、まるで話が途切れてしまうように終わったのが印象的で、読み手に謎を与える作品だった(もちろん最後にまとめ的な段落はあるので小説としてぶつ切りではないが、物語としてはぶつ切りである)。この短編集のなかで物語がその後も続きそうだと思わせるのは「納屋を焼く」だけでなく、たとえば「螢」はその後じっさいに続きが書かれ、あの有名な長編小説「ノルウェイの森」となった。
 「納屋を焼く」の登場人物は3人だ。妻帯者で小説家の「僕」。「僕」とパーティーで知り合って仲良くなる「彼女」。「彼女」が突然出かけたアフリカ旅行で、恋仲になって一緒に帰ってくる「彼」。不思議な三角関係がはじまるが、物語は淡々と進み、そこに嫉妬の色は見えない。そしてホームパーティーで大麻を吸いながら「彼」は言う。「時々納屋を焼くんです」と。
 さらに「彼」は数日内に「僕」の家の近くの納屋を焼くと言い、「僕」はそのイメージに囚われ、翌日以降、家のまわりの「納屋」をまわるが、焼かれた納屋は見つからない。それから、その日を境に「彼女」は失踪してしまった。ふたたび「彼」に会い、納屋を焼いたか尋ねると、「彼」はそうだと言うのだった。
 当時、この小説を読んでいた中学生のぼくは、「僕」と重なり、あたまのなかから「納屋を焼くイメージ」が離れなくなってしまった。「焼かれるイメージ」ではなく「焼くイメージ」。ともかく不思議な爪痕を残す小説だったのだ。

画像1

(何年ぶりかに出してみた。コーヒーかなにかの染みがある…)

 それから10年、ちょうど暇な時間ができたので、昨晩、2018年に韓国の映画監督イ・チャンドンによって映画化された「バーニング」をようやく観たというわけだ。
 映画では舞台が現代の韓国に読み替えられており、冒頭から「整形」や「軍隊」といったいかにも韓国らしい言葉が登場する。また、「納屋」は「ビニールハウス」となり、イ・ジョンスという役名を与えられた「僕」は妻帯者ではなく貧しい若者で、さらに「彼女」に恋をするなど、現代社会に接続しやすいように変わっている部分も多い。この監督は、現代の韓国を使って村上春樹を語っているのではなく、村上春樹を使って現代の韓国を語っているのだと思った。ひとりの村上春樹好きとして、それはむしろ嬉しいことだ。
 さて、たった30ページほどの小説を2時間半のフィルムにするのにはさまざまな要素を足さなくてはいけない。じっさい読むのに2時間半もかからない小説なのだ。どう描かれるのか。
 映画のなかでは、「井戸」をはじめとする村上春樹の他の小説を彷彿とさせるさまざまな主題と、それから村上春樹と関係のない主題が、文脈と関係なく登場し、そういった細かい要素が連鎖しながら物語がすすむ。意味ありげに登場するけれどおそらく意味を持たないナイフや時計、ブレスレット、猫。まるでショスタコーヴィッチの音楽作品のようだ。自作多作を問わず、多くのテーマがそれらのコンテクストから引き剥がされた剥き出しの状態で引用されていく。謎が謎を生むような、原作の精神を増幅させるような演出。ぼくは舌を巻いた。
 そして小説での「ラストシーン」、すなわち物語が途切れるシーンを過ぎてなお、映画はまだ小一時間をもてあましている。このあと一体何が起こるのか。映画のコピーに書かれた「衝撃のラスト」に期待してしまう。
 しかし、「衝撃のラスト」はわたしが期待したのとまったく違うかたちで、「衝撃のラスト」となった。すなわち、いままで宙ぶらりんに放置されてきたいくつもの「謎」——小さなものを含めてそのほとんどすべてが回収され、イ・ジョンスによってその「謎」が片付けられたかたちで映画は終わる。原作ではあくまで読者のなかにしか存在しなかった「焼くイメージ」さえ、イメージを超えて現実に接続される。すべての符号と符号が結びつくのだ。
 これはそんな簡単な物語だったと片付けてしまっていいのだろうか。そんな簡単に片付けるにしては、ざらっとしたリアルな感触を残す映画だった。気持ち悪いほどすべての謎が解かれてさまざまなものが結びついていくさまと、そしてそこに向かって淡々とすすむイ・ジョンス役の俳優の演技は、不思議なてざわりを観る者に与える。あるいはほんとうは結びつかないはずの「現実」を、イ・ジョンスが書くことのできなかった「小説」だと取り違えてしまったうえでおこってしまった悲劇にも、見ることができるかもしれない。
 そう、わたしたちは小説に犯され、イ・ジョンスのように、世の中の出来事を何かの象徴や符号と捉えがちかもしれない。幻想に過ぎなかったものを、最悪の形で現実にしてしまうような悲劇は、現代の日本や韓国でたしかに起こっている。
 いや、しかし……予告編で「究極のミステリー」と謳われていることを思うと、ただ簡単な物語に堕ちたのか……うーむ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?