帰国日記③ものすごくうるさくて、ありえないほど無自覚

もっとも奇妙なことは、牛丼屋で起きた。

私は、ホテルから出て国道を少し歩いたところにある牛丼屋へ行った。受付の人が、チェックインのときに渡してくれた地図に載っていた。

その国道沿いは、何度も何度も通ったことがあるように思えた。大学のあった広島にも、旅行で訪れた熊本にも、愛媛にも、静岡にも北海道にも、そして私の故郷の沖縄でも。2車線道路の両脇に、国産の自動車屋、ファミリーレストラン、ラーメン屋、家電量販店が並ぶ風景だ。並びのひとつに牛丼屋があった。まっすぐ行けばきっとラブホテルがあるだろう。

その牛丼屋は、とても、うるさい。

ドアを開けて中に入った私は、出てしまおうかと思った。けれどそれも面倒なので、店員さんが指さす券売機のほうへ進む。
赤や青や黄色や緑や、とにかくいろいろな色が使われて分かりづらい券売機の画面を押して、牛丼の並、持ち帰りをオーダーする。
店は小さくて、ひとり客が3人座っている。バーカウンターのような作りで、中央に店員さんが動けるようになっている。

うるさい理由は、客のお喋りではない。
スピーカーから、大音量で案内が流れているのだ。
それは、新型コロナウイルス対策のため、食事のとき以外はマスクを着用し、手を消毒するように、という案内だった。

それがとてもうるさくて仕方がない。

私は聴覚過敏で、とくにスピーカーの注意音が苦手である。だから日本にいたころはイヤホンで音楽を聴くか、耳栓をしていた。カバンに耳栓を入れたけれど、財布と携帯だけを持って出たので今は手元にない。

その音は、客が静かだからかえって大きく感じられる。

客はいずれも男性で、どんぶりや定食の味噌汁のお椀に視線を向けてうつむき、もくもくと食べている。彼らは離れて座っていて、店員さんとの間でも客同士でも会話というものはない。
彼らは食べるためにマスクを外しているけれど、食べ終わればすぐにマスクをつけて数秒のうちに店を出ていくだろう。
にも関わらず、なぜあんな内容の案内音が、延々と流れ続ける?

私は音の純粋な大きさ以上に、そのことに頭がくらくらした。牛丼屋はとても素早くパックにご飯を盛り、牛肉と玉ねぎの煮たのを盛ってフタをして袋に入れる。それは1分半もしなかっただろう。そのわずかな間に、私は注意音が3巡目に入るのを聞いた。

誰も、マスクなしで騒いでなんかいないのに!


私がどうして案内音声が苦手なのかは次の3つの理由で説明できる。
①耳は閉じられない
②音が必要以上に大きい
③意味のない案内をするという概念に納得がいかず、不愉快である

①は、視覚はまぶたと目線の変化によって、見ないというコントロールができるけれど、聴覚はそうはいかないということだ。そこに見たくないものがあれば、少なくとも目をつぶったり、そらしたりして、見ないことはできる。けれど音は、事前にイヤホンや耳栓を用意していなければ、そこにいることとその音を聞くことがイコールになる。その強制に私は耐えられない。

②は、音声案内のボリュームが大きいということ。誰にでも(お年寄りにも)聞こえるように設定されているので、音がとても大きい。大きい音に敏感なため、私は耐えられない。

①と②について、私はこれまで周りの人に愚痴のようにこぼすと、同意を得られることが何度かあった。

けれど③は、ほとんど同意されることはなく、何の反応もないか、「そんなこと気にしていたら生きていけないぜ」と言われるかであった。哲学者の中島義道がずっと以前から唱えていることであり、また、村上春樹がエッセイで書いていることである。

エスカレーターでは、「手すりにつかまり、黄色い線の内側にお乗りください・・・」と案内が繰り返し流れている。それはエスカレーターに生まれて初めて乗る人にのみ有効な案内だ。一度乗ってしまえば、次に乗るのは簡単なことだから。もしエスカレーターに乗るのが難しいならば、それは注意音が不十分だからではなく、乗るタイミングをつかむのが苦手だったりといった、ほかのことに原因がある。
エスカレーターの注意音声は、利用客のために存在するのではない。何か事故が起きたあとに、「いえ、私たちはちゃんと注意音声を流していましたよ」と証明するためにある。

注意さえしておけば、利用者はそれにしたがってくれ、何か起きた際の言い訳になる。という構図で、日本の社会というものは出来上がっている。

トイレや、最近増えたスーパーやコンビニのセルフレジ、駅、デパート、病院、いたるところに注意音は流れている。
今まで気にしたことのなかったという人は、よく耳をすませてみれば、どんなに環境に音声があふれているか分かるだろう。日本に住む人はそれに慣れきっているので、とても鈍感になっている。

「お客様の安全のため」「お客様に分かりやすくお伝えするため」と、設置者は言うけれど、それは違う。いくつもの注意音と注意書きが入り乱れていれば、結果的に利用者の注意は散漫になる。
機械で注意音を流すことで、伝えたつもりになり、そこで終わり。というコミュニケーションが、日本のやり方。それはとても一方的で、無味乾燥で、人を鈍感にさせている。

無駄で、効果がない(少ない)ことなのに。

何か注意を発するということは、相手の意識を向けさせるということである。そのことに非常に無意識で、無自覚なことが、とても不愉快。

村上春樹の場合は、意味のない標語(五・七・五調の言葉や、「交通事故をゼロにしよう」といったもの)を嫌っている。街や国のお金をかけて設置しているが、設置者の満足にすぎず、効果がなく不愉快であると彼は指摘している。私も同じ感想だ。

目で見るものは、①で言ったように目をそらす、視線を向けないという対策ができるわけだけど、聴覚という、その場にいることと聞くことがほとんど同義なことを、人に強制している、そしてそのことにとことん無自覚である日本の景観意識の低さに、はっきり言ってヘドが出る。


私は牛丼を受け取ってホテルに戻った。店の中で男たちはとても静かだった。コロナ禍で、喋りながら食べるような客は本当にわずかだろう。マスクなしでいる人もわずかだろう。牛丼屋はそもそもひとり客がほとんどだ。彼らはとても小さく孤独に、私なんかよりもっともっと孤独に見えた。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?