さくら

三国志のことをもっと知りたくて、自分の勉強用にノートを書いています。

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  • さくらの三国志勉強ノート

    三国志を勉強するためのノートです。

最近の記事

呉の滅亡〜三国志の終焉

呉の滅亡は、三国時代の終わりを象徴する出来事であり、中国の再統一への道を開きました。280年の晋による呉の攻略は、三国鼎立の状況を終結させ、晋の武帝司馬炎の下で中国が再び統一されることを意味しました。この歴史的な経緯は、正史『三国志』や『晋書』などに記載されています。 攻略の経緯 晋は、武帝司馬炎の指揮のもと、大規模な軍事行動を計画し、呉に対する最終的な攻撃を開始しました。晋軍は複数の方向から呉に侵攻し、その主力は賈充と楊済が率いる部隊でした。 江陵の攻略: 晋軍はまず

    • 呉の政治腐敗

      孫晧(孫皓)は呉の最後の皇帝であり、彼の治世はしばしば政治の腐敗と乱脈な行動で知られています。孫晧の時代(在位:264年 - 280年)は、呉が最終的に晋によって滅ぼされる過程を迎えており、彼の政治スタイルは呉の衰退を加速させたと評されることが多いです。孫晧の治世における政治の腐敗ぶりに関する主な点は以下の通りです。 過度の残忍さと気まぐれ 孫晧は非常に残忍で、気まぐれな性格だったとされ、これが政治的な安定を大きく損なう原因となりました。彼は些細な理由で官僚や一般民衆を処

      • 魏の滅亡〜晋の建国

        司馬炎が魏の元帝(曹奐)から禅譲を受けて晋を建国したのは、265年のことです。この出来事は、魏から晋への政権交代を意味し、三国時代の終わりと晋の統一への道を開いた重要な歴史的瞬間です。この禅譲の模様は、『三国志』「晋書」などの正史に記録されています。 禅譲の背景 司馬懿とその子孫、特に司馬師と司馬昭は、魏末期に政治的、軍事的な実権を掌握していました。司馬昭の死後、その子である司馬炎が後を継ぎ、彼のもとで司馬家の権力はさらに強固なものとなりました。司馬炎は魏の朝廷において絶

        • 蜀の滅亡

          三国時代末期の蜀漢の衰退は、諸葛亮の死後に顕著になりました。諸葛亮は蜀漢の軍事と政治の両面で中心的な役割を果たしており、彼の死は蜀漢にとって大きな打撃でした。その衰退の理由は、以下の複数の要因に基づいています。 諸葛亮の後継問題:諸葛亮は非常に優れた政治家であり、戦略家でもありましたが、彼の死後、その能力とカリスマ性を継ぐことができる後継者が不在でした。江琬や費禕などの後継者は一定の能力はありましたが、諸葛亮のような絶大な影響力を持つことはできず、蜀漢の統治機構や軍事力を十

        呉の滅亡〜三国志の終焉

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        • さくらの三国志勉強ノート
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        記事

          諸葛亮亡きあとの蜀

          諸葛亮の死後、蜀漢の政治は多くの挑戦に直面しました。諸葛亮は234年に五丈原で病死し、彼の後継者として江琬と費禕が指名されましたが、諸葛亮のような強力なリーダーシップと政治的、軍事的才能を兼ね備えた人物は現れませんでした。 諸葛亮の後継者たち 江琬(こうえん):諸葛亮の後を継いで軍師となりましたが、彼の在職期間は短く、健康問題で234年から237年の間に死去しました。江琬の治世は穏健な政策が特徴で、内政に注力しましたが、諸葛亮の北伐の継続には積極的ではありませんでした。

          諸葛亮亡きあとの蜀

          三国鼎立時代

          後漢末期から三国時代への移行は、中国歴史上で最もドラマチックな変化の一つです。この期間は、群雄割拠の混乱から、最終的に三国鼎立の情勢へと落ち着きます。それぞれの国、魏、蜀、呉の建国経緯と、三国鼎立が形成された時代の特徴について説明します。 魏の建国 魏の建国は、曹操によって始まりました。曹操は後漢の末期、北中国を統一し、中央政権の実権を握ります。彼の死後、その息子曹丕が力を継ぎ、220年には漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国し、自らが皇帝に即位しました。この行動により、正式

          三国鼎立時代

          孫権の治世と呉の建国

          後漢末期、孫策によって築かれた基盤を引き継いだ孫権は、呉の建国へと繋がる重要な役割を果たしました。孫権の治世は、江東の安定化と拡大、さらには三国鼎立の時代を形作る上で中心的な役割を果たし、彼の政策と戦略が呉の基盤固めに貢献しました。 呉の建国 孫権は孫策から勢力を引き継ぐ際、若干の年齢でありながら、経験豊かな諸将や顧問たちの支持を受け、江東の安定と拡大に尽力しました。孫権の下での最大の転機は、208年の赤壁の戦いでの勝利でした。この戦いで孫権と劉備の連合は、北方の強敵であ

          孫権の治世と呉の建国

          兄の事業を引き継ぐ孫権

          後漢末期、群雄割拠の混乱した時代背景の中で、孫策は父の遺志を継ぎ、若くして江東の地に勢力を築き上げました。孫策は、父・孫堅が建てた基盤を受け継ぎ、また、弟の孫権と共に、この地での自身の地位を不動のものにしようと努めました。しかし、孫策は200年(一説には199年)に志半ばで暗殺され、その急逝は江東の勢力に大きな衝撃を与えました。この時、孫権が後を継ぐことになりますが、その経緯とその後の展開は、三国志の中でも特に興味深いエピソードの一つです。 孫策が亡くなった後、弟の孫権はわ

          兄の事業を引き継ぐ孫権

          孫策の江東戦線⑧孫策の死

          孫策の死に至る経緯は、『三国志』「呉書」孫策伝に記されています。孫策は後漢末期に江東地域で迅速に勢力を拡大し、多くの敵対勢力を打倒しましたが、その過程で多くの敵も作りました。彼の死は、そのような背景の中での出来事でした。 経緯 孫策は199年、自身の支配地域内である江東で、少数の随伴者とともに行動していた際に、元来自分に敵対していた勢力の刺客に襲われました。この時、孫策は自らも勇敢に戦いましたが、重傷を負いました。攻撃者は孫策が以前に打ち負かした敵勢力の残党であり、彼らは

          孫策の江東戦線⑧孫策の死

          孫策の江東戦線⑦豫章制圧

          孫策が豫章郡を制圧し勢力下に収めた経緯は、彼が江東地域での勢力拡大を進めていた一連の軍事行動の中の重要な出来事です。『三国志』「呉書」孫策伝には、孫策が江東での支配を確立し拡大していく過程が記されています。豫章郡の制圧は、その過程での顕著な成功の一例として挙げられます。 背景 孫策は袁術の支援を受け、若くして江東へと進出しました。彼の目的は、分裂し割拠していた江東地域の勢力を統一し、自らの支配を確立することにありました。孫策はその卓越した軍事的才能とカリスマを駆使して、迅

          孫策の江東戦線⑦豫章制圧

          孫策の江東戦線⑥廬江制圧

          孫策が廬江郡を制圧し、勢力下に収めた経緯は、三国志の中でも特に注目される出来事の一つです。この戦いは、孫策が江東地域での勢力を確立し、拡大していく過程の初期に位置づけられます。『三国志』「呉書」孫策伝に基づいてその経緯を説明します。 背景 孫策は若いながらも野心的な武将であり、袁術の支援を受けて江東地域へと進出しました。当時、江東は分裂しており、多くの小規模な勢力が割拠していました。孫策はこの地域を統一し、自身の勢力基盤を確立する目的で、積極的に周辺の郡を攻略し始めました

          孫策の江東戦線⑥廬江制圧

          孫策の江東戦線⑤袁術からの離反

          後漢末期、孫策が江東地域で勢力を拡大していた際、彼は最初袁術と協力関係にありました。この関係は、孫策にとって資金や兵力の支援を受ける上で重要でした。しかし、袁術が皇帝を僭称するという野心的な行動を取ったことが、両者の関係に亀裂を生じさせることになります。この経緯については、『三国志』「呉書」孫策伝などに記録されています。 袁術の皇帝僭称 袁術は自らの野心を背景に、197年頃に自らを皇帝と宣言しました。この行動は、当時の政治的な正統性を主張する他の勢力、特に曹操や劉備などと

          孫策の江東戦線⑤袁術からの離反

          孫策の江東戦線④会稽制圧

          孫策が会稽郡を制圧したのは、彼が江東地域で勢力を拡大していく過程の中での出来事であり、この成功は彼の政治的・軍事的キャリアにおける重要な転換点となりました。孫策は袁術の支援を受けて江東へ進出し、迅速に地域を統一していく戦略を展開しました。 経緯 孫策が会稽郡を制圧した背景には、彼の野心と戦略があります。江東地域は多くの小規模な勢力が割拠しており、孫策はこれらを統一し、自らの勢力を強化していく必要がありました。会稽郡はその戦略において重要な地点でした。孫策は、父孫堅から引き

          孫策の江東戦線④会稽制圧

          孫策の江東戦線③呉郡制圧

          孫策は、揚州攻略の一環で、呉郡を攻略しました。また一歩、江東地域の重要な拠点の一つを掌握し、自身の勢力をさらに拡大するための決定的な動きとなりました。ここでは、孫策の呉郡攻略について簡単に説明します。 背景 孫策は袁術の支援を受けて江東地域での勢力拡大を進めていましたが、その過程で呉郡とその太守許貢が重要な目標となりました。許貢は当時、呉郡を支配しており、孫策の勢力拡大の障害となっていました。孫策は許貢の支配する呉郡を攻略することで、江東地域における自身の支配を強化し、さ

          孫策の江東戦線③呉郡制圧

          孫策の江東戦線②牛渚の要塞

          孫策の揚州攻略は、袁術との関係を背景に持ちながらも、彼の江東での勢力拡大に貢献しました。彼は、支配地域だけでなく、人材の獲得も成しえています。ここでは、そんな孫策の揚州攻略について説明します。 揚州攻略の背景 孫策が揚州攻略に乗り出した背景には、袁術の野望がありました。袁術は自身の勢力を拡大し、最終的には皇帝になることを目論んでおり、その過程で揚州の支配地域を手中に収めようとしていました。袁術は孫策に兵を提供し、その才能を利用して劉繇の支配地域の攻略を進めさせました。

          孫策の江東戦線②牛渚の要塞

          孫策の江東戦線①廬江攻略

          孫策による廬江郡攻略は、孫策の軍事キャリアにおける初期の重要な成功の一つであり、彼の勢力拡大過程における重要な転機を示しています。ここでは、廬江郡攻略の戦果について説明します。 廬江郡攻略の背景 孫策が廬江郡を攻略したのは、袁術の命によるものでした。当時、孫策は袁術からの支援を受けており、江東地域での勢力拡大を目指していました。廬江郡の攻略は、この目標を達成するための重要なステップでした。 戦果と恩賞 孫策は優れた軍事戦略と勇猛な戦闘により、廬江太守の陸康を降伏させ、

          孫策の江東戦線①廬江攻略