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取材時の好奇心から始まって、気づくと夢中になっていた障害者支援

ちょうど今から2年前の2021年も終盤に差し掛かるころ、ある取材をきっかけに障害者を支えるための勉強・資格取得をしてみたいと思うにいたった。早速、年明けから学校に通い、3月までに行動援護従業者研修と介護職員初任者研修を修了した。当初はあくまで執筆業のための知識を蓄える勉強のつもりだった。しかし晴れて障害者支援に従事できる身となったのだ。せっかくなので養成学校から紹介された福祉事業所で実際に勤務してみることにした。

それからというもの、身体および知的障害者の入浴介助、移動支援、行動援護、家事などの自立支援、公立中学校の特別支援学級の生活支援員と、障害者支援に夢中になっていく。現場経験を積みながら、同年暮れには介護福祉士実務者研修を修了した。障害者支援に携わって丸2年を迎える来春には、社会福祉士の養成学校に1年間通う予定でいる。再来年春に国家試験の受験を目指すつもりだ。

中学校時代、身近だった知的障害児の姿

私の障害者との関わりは中学校時代にさかのぼる。通っていた中学校には「I(アイ)組」という特別支援学級があり、比較的重度な知的障害児10人以上が在籍していた。I組のみんなは、毎朝校門に立って笑顔で私たちを出迎えてくれたり、体育館での全体朝礼では突然壇上に上がって踊りはじめたり、体の成長は私たちと同等でありながら幼い子がするような無邪気な笑顔や行動を間近に見て驚くこともあった。しかしそうした行動もすぐに日常の光景として馴染んでいった。

高校時代のクラスメートに、突発的なできごとが起こると平常心を保てなくなって奇声を発したり、自分の頭を叩いたり、座っていられなくなる男子がいた。そうした行動を周りからおもしろがられ、やがてからかわれ、イジメのような嫌がらせが頻発し、結局彼は自主退学してしまった。個人的には、彼は単に環境の変化や音に敏感な、繊細な性格の人というだけで、障害がある人と当時は捉えてはいなかった。

忘れられない知的障害児とのできごと

高校を卒業して以降、自分が子育てをするようになるまでは、知的障害者と呼ばれる方と関わる機会が一切なくなったように思う(多忙で気づかなかっただけなのかもしれない)。

次男が2歳のときのこと。夕方、児童館の休憩スペースで子供たちとお茶を飲んでいると、エントランスから一人の女性介助者に付き添われた少年(5年生くらいと見られる)が私たちをめがけて突進してきた。介助者がいるため気を許していたが、気づくと彼はすぐ目の前に来ていた。そしておもむろに次男の髪を鷲掴みにした。私は咄嗟に力づくで彼の手を掴み、髪を引っ張る手を解こうとした。一足遅れて介助者が走ってきて、彼の手首を力づくで掴み、髪の毛から離そうとした。次男の髪は抜け千切れるばかりに力一杯引っ張られ、「手を離してください!」と何度も説得しながら、二人の大人の力でなんとか手を解くことができた…。

幸い髪も抜けずにことなきを得たが、あのときの恐怖は今でも忘れることができない。特に目の前でその様子を見ていた長男にとっては大きなトラウマになっている。実はそれから半年後、同児童館で少年と再び遭遇し、靴を投げつけられたこともある(幸い当たらなかった)。が、このときは男性の介助者が羽交い締めにして、少年は身動き取れない状態になっていた。

2度も直接的な被害に遭ったため、児童館に苦情の連絡をした。児童館から少年の介助を行う事業所に問い合わせてもらったところ、「彼の障害レベルでは介助者は二人必要ない」とのこと。しかしこうした事態になったため、当面は介助を二人対応にしてみるとのことだった。

なんでもこの少年は、放課後等デイサービスで過ごしたあと、毎日閉館間近まで児童館で介助者とともに親の迎えを待っているのだそうだ。実は、少年にとってこの児童館は落ち着かない環境で、日々フラストレーションを溜めていたのかもしれない。髪を引っ張っているとき、靴を投げているとき、彼はまるで鬼の形相で、怒り狂ったような目をしていた。何が彼を怒らせたのか…。もしかすると、私たちの和やかな団欒の様子が勘に触ったのかもしれない。と勝手に自分なりに解釈してみたが、真実はもちろんわからないままだ。この経験も、知的障害者への興味につながったように感じる。

言葉のコミュニケーションがそこまで重要なのか…

今、現場に携わるものとして、支援上大事なことは、第一には当然ながら利用者さんから目を離さないこと(先の介助者の支援には明らかに問題があった)。また本人が好まないと思われる場所を避けるようにするなど、気持ちを乱れさせないよう気をつけることだろうか。知的障害者だから何も理解していないわけでは当然ながら決してない(と私は思う)。

言葉のコミュニケーションはできなくても、気持ちが通じ合っていると感じる瞬間はあるし、むしろ知的障害者の方と行動をともにしていると、本能的な動物的勘の鋭い方が多いように感じることがある。障害者だからすべてが特別ということではなく、健常者にだって生理的になど人それぞれ気に入らない・受け入れられないものはある。発語がない場合、支援する側は理由を理解できないこともあるが、急と思われる行動にもそれぞれそれなりの理由があるのだと日々感じている。まだ勉強中の身の私が言うのもなんだが、そもそも「障害者」と「健常者」を明確に分断できるものだろうか…と感じることもある。

日々悪戦苦闘、悩みながら「支援」に関わらせていただいているが、私が現場で感じたことをこれから数回に分けて連載していきたいと思う。


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