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2023.12.9 【全文無料(投げ銭記事)】司馬遼太郎が描き損なった軍人

司馬遼太郎の『坂の上の雲』は“乃木愚将論”に固執することで、世界の称賛を浴びた“和の武人”を描き損ないました。

過去に乃木希典の印象について、何人かの方に聞いたことがありますが、ある方(以下、Aさん)は、
「小さい時、祖母から乃木大将の話や歌を教えてもらいました。今も頭に流れることがあります」
といった思い出を持たれていました。

また、Bさんは、
「私の祖父母は明治32年と36年生まれで、英雄といえば乃木大将でした。私も小さい頃は乃木大将は古いなあ、としか感じておらず、中学の時に先生から『金州場外の作―乃木希典』という詩吟を教わったのですが暗い印象しかなかったです。しかし、海外では乃木大将は日本の誇る英雄であり、敗者のロシアの将軍にも敬意をもって接した武士道が世界に評価されたこと、そして、それが明治天皇からの命令であったことを知り、日本の教育は、どうしてこういう大事なことを教えないのか」
といった感じをお持ちの方でした。

乃木大将は戦前の“英雄”から、戦後は無視あるいは“愚将”と180度評価が変わっています。
そこに現在の教育問題が窺えます。

今回は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を基に、この点について書き綴っていこうと思います。


「児玉は、成功した」という「真っ赤な嘘」

現在の歴史教科書では乃木大将も登場しないので、乃木将軍を知っていても、愚将であるかのように捉えている人が多いのは、司馬遼太郎氏の総発行部数2000万部という超ベストセラー『坂の上の雲』の影響でしょう。

司馬氏の作品群が幕末から明治にかけての自虐史観を払拭したことは大きな功績ですが、時々、その作品を面白くするがために偏った人物描写をしており、それによる歪んだ史観も広まってしまいました。

その最たる例が乃木大将です。

『坂の上の雲』では、“無能な乃木大将”に任せていては将兵が無駄に死んでしまうだけで203高地は一向に落ちず、それでは旅順港内に逃げ込んでいる旅順艦隊は壊滅できず、やがてバルチック艦隊がやってくれば、日本海軍も二倍の相手に負けてしまい、その結果、満洲に進攻している日本陸軍も補給を受けられず全滅してしまうと、当時の日本が直面していた危機を描きます。

そこで児玉源太郎総参謀長が乃木の司令部にやってきて、乃木大将から指揮権を一時的に取り上げて作戦変更し、それが功を奏して203高地が落ちたという筋書きになっています。

作戦変更を命ずるシーンは次のように描かれています。

児玉は奈良をおさえ、
『命令。二十四時間以内に重砲の陣地転換を完了せよ』
と、大声でどなった。
結果からいえば、児玉の命令どおり、二十四時間以内に重砲は二〇三高地の正面に移されたのである。

司馬遼太郎『坂の上の雲』
※奈良(命令に反対する砲兵少佐)

そして、この結果をこう描いています。

児玉は、成功した。
かれは砲兵陣地を大転換することによって歩兵の突撃を容易ならしめ、六千二百の日本兵を殺した二〇三高地の西南角を一時間二十分で占領し、さらにその東北角をわずか三十分で占領した。
明治三十七年十二月五日である。

司馬遼太郎『坂の上の雲』

しかし、陸軍士官学校卒で大東亜戦争では砲兵中隊長として従軍し、戦後は自衛隊で陸将補まで務められた桑原たけし氏は著書で、こう批判しています。

しかし、これは真っ赤な嘘である。
実際に陣地変換した火砲は前述したように十二サンチ榴弾砲・一五門、九サンチ臼砲・一二門だけである。
当時の第三軍の全火砲・三百数十門の数パーセントに過ぎない数である。
二十八サンチ榴弾砲のごとき陣地変換など全然していない。
はじめからできるはずがないのである。

桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』

司馬氏は、<砲兵陣地を大転換>して<児玉は、成功した>と描きましたが、その“大転換”とは僅か砲数の<数パーセント>に過ぎず、“真っ赤な嘘”だというのです。

203高地への攻撃目標転換も重砲の布陣も児玉が到着する前に、乃木軍が既に行っていたことでした。

その上で、総参謀長のような高官が、<数パーセントの重砲>の配置というような下級参謀が担当するような細かな戦術に口を出すとも思えません。

仮令たとえそれが事実だとしても、それが203高地攻略の大きな成功要因になったはずはありません。

<児玉は、成功した>という僅か8文字に、司馬氏の作り話ぶりが如実に表れているのです。

児玉総参謀長は何をしに来たのか?

それなら、何のために児玉は総参謀長の重要な仕事を投げ出して、乃木軍の戦いに馳せ参じたのでしょうか?

桑原氏はこう推測しています。

乃木大将が、203高地の攻略に集中するという決心をしたのは11月27日の朝でした。

前日に乾坤一擲の第三回総攻撃を始め、ロシア側の頑強な抵抗に阻まれて難航していました。

桑原氏はこう記しています。

しかし、この決心の変更は乃木にとっては最後の賭けである。
おそらくこの時、乃木は死を覚悟したことであろう。
この決心の変更は直ちに満洲軍総司令部に報告された。
この報告に接した大山も児玉も、多分、乃木の死を直感したのだろう。
盟友乃木を殺してはならぬ。児玉はそう覚悟したに違いない。
十一月二十九日午後八時、烟台の総司令部を出発し、児玉は急遽旅順に向かう。

桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』

かつての西南の役では、乃木は部下の過失から、天皇から頂いた軍旗を失うという失態の責任をとって自刃しようとしました。

隣室で密かにその気配を察していた児玉が、その瞬間に飛び込んで、
過失あやまちを償うだけの働きをしてから死んでも遅くはあるまい、それが真の武士道だ」
と説いて、乃木を思い留まらせました。

乃木と児玉は、このように深く結ばれた盟友だったのです。
その二人の絆を考えれば、児玉総参謀長は乃木の自刃を防ごうとやってきたという解釈は、ごく自然に思えます。

「乃木を替えることはならん!」と言われた明治天皇

児玉総参謀長が、何としても乃木大将の自刃を止めようとやって来たという解釈は、それまでの旅順攻囲戦の経緯を知れば、更に説得力を増します。

乃木大将は第三回の総攻撃の直前、11月22日に明治天皇から激励の勅語を賜っています。

<成功ヲ望ムノ情はなはダ切ナリ 爾等なんじら将卒レ 自愛努力セヨ>
という、正に切々たる御心の籠もったお言葉です。

「攻撃開始前に勅語を賜るとは前代未聞」
と、桑原氏は記されています。

第三軍将兵は勅語に深く感激し、乃木大将は、
<将卒一般 深ク聖旨ヲ奉体シ 誓ツテすみやカニ軍ノ任務ヲ遂行セムコトヲ期ス>
と、奉答しています。

<任務ヲ遂行>という言葉に注意しましょう。
成功するかどうかは分からない、ただ身命を賭して旅順要塞攻略という“任務”に向かうのみという覚悟が窺われます。

乃木大将に随行したアメリカの従軍記者スタンレー・ウォッシュバンは、
「多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかった」
と述べています。

乃木大将配下の将兵たちは、同僚を次々と失いながらも、乃木の采配に決然と従って死地に赴いたのです。

大本営では、膨大な死傷者を出している乃木の更迭案も出しましたが、明治天皇は、
「乃木を替えることはならん!」
と、断乎許されませんでした。

乃木だからこそ、将兵たちが決死の覚悟で戦うのであって、乃木以外の人間に、この死地で従うとは考えられなかったでしょう。

そして、それでは旅順要塞は落とせないのです。

また、乃木大将を替えたら、大将は生きていなかったでしょう。

それでは、乃木大将のためならと死んでいった多くの将兵たちも浮かばれません。

そのような追い詰められた状況の中で、唯一の出口は、乃木大将以下将兵たちの必死の奮戦で活路を開いて貰うしかない。

そういう切羽詰まったお気持ちで、明治天皇は異例の勅語を出されたものと拝察します。

乃木の自刃を止めるために

また、乃木大将は以下のエピソードからも窺えるように、多くの部下を死なせてしまったことに深い責任を感じていました。

旅順攻囲戦の後、将官たちが祝賀の宴を張っていた晩、途中で乃木大将の姿が見えなくなりました。

大将の副官が宿舎まで探しにいくと、こんな光景を目にしました。

小舎の中の薄暗いランプの前に、両手で額を覆うて、独り腰かけて居られた。
閣下の頬には涙が見えた。
そして私を見るとこういわれた。
今は喜んでいる時ではない、お互いにあんな大きな犠牲を払ったではないか。

こういう部下思いの将軍が、心を鬼にして旅順要塞に立ち向かっていたのです。

乃木大将の人柄から見れば、もし最後の203高地総攻撃が失敗したら、明治天皇、亡くなった将兵たち、それに日本国に対して申し訳ないと、文字通り腹を切って自決することは十二分に有り得ることでした。

児玉参謀総長からすれば、個人的な盟友を失うのみならず、旅順攻略の責任者が自決してしまったら、国際社会に対しても、日本の敗色濃厚である事を知らしめることになってしまうわけで、何としても止めなければならないことでした。 

乃木愚将論で失われた人間性の真実

旅順に出発する前に、児玉総参謀長は大山元帥から『第三軍の指揮権移譲』に関する書類を貰っていたと秘書官の一人が語っており、司馬氏は、これを乃木から指揮権を奪うためと解釈しています。

桑原氏は、抑もこれが事実かどうかについて非常な疑問を持ちつつも、百歩譲って事実だとしたら、児玉総参謀長は乃木の自刃を止められなかった場合、自分が第三軍の指揮を執るつもりで、大山元帥からその承認を得たのではないかと推察されています。

もし乃木が亡くなったら、ルール上は部下の師団長級が代行することになりますが、それで乃木自刃の全軍及び国際的な衝撃を抑えられるはずもありません。

その場合は、総参謀長の自分が替わってなんとかするしかないと考え、そのために大山元帥の一筆を事前に貰っていました。

天才軍略家の児玉源太郎なら、そこまで用意周到に準備していたとしても不思議はありません。


結局、司馬氏は“乃木愚将論”という嘘を描くために、乃木の成功を“天才軍略家”の児玉に帰するという嘘を重ねざるを得ませんでした。

更に、そのためには、乃木の指揮権を奪う冷徹な“天才軍略家”に、児玉参謀長を貶めてしまったのです。

国家と天皇と将兵のために自決まで覚悟した乃木大将、その乃木を殺してはならないと駆けつける児玉総参謀長、二人の深い絆をきちんと描けば、自ずから日本国史上の名場面として、国民の心に永く訴えるドラマになっていたはずです。

しかし司馬氏は、“乃木愚将論”に執着することで、それを単なる“愚将”と“天才軍略家”の物語にしてしまったのです。

世界から尊敬と希にみる所の賞賛を受けた『和の精神』

もう一つ、司馬氏の偏向記述は、ロシア軍降伏後のステッセル司令官との会見にも現れています。

そこでは、会見後の両軍相まみえての写真撮影のことが触れられていません。

日本軍とロシア軍の将官たちが入り交じり、肩を並べて、あたかも同盟軍の軍事演習の記念写真であるかのように見える有名な一葉です。

この写真が世界に報道され、乃木の武士道に基づく『和の精神』は、世界に感銘を与えました。

乃木はこの6年後に欧州各国を歴訪しますが、ある欧州人は、
「彼が殆ど全欧州諸国より受けた王侯に対するが如き、尊敬と希にみる所の賞賛」
と、形容した歓迎を受けたのです。

戦前の小学唱歌『水師営の会見』は、この情景を歌ったものです。

昨日の敵は今日の友 
語ることばうちとけて 我はたたえつ 
かの防備 かれはたたえつ 我が武勇

という一節などは、冒頭のAさんが、
「小さい時、祖母から乃木大将の話や歌を教えてもらいました」
と、言われた一部でしょう。

こういう歌から、乃木大将の『和の精神』を教わることは、司馬氏の“乃木愚将論”を読むよりも、よほど深い人間教育になるはずです。

戦前において、日本国民に『和の精神』を具体的な態度で示し、また世界から“尊敬と希にみる所の賞賛”を受けた“和の武人”を我々は忘れ去ってしまったのです。

戦前の“軍国主義”を敵視する余りに、こういった歪んだ歴史を教えるという事は、なんと愚かな罪深いことかと思わざるを得ないと私は考えます。

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