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2021.8.12 日本人が忘れた天皇島の日米決戦

全滅した日本兵と姿を消した1000人の島民の謎

サクラサクラ

1944年9月。
日本が統治していたパラオのペリリュー島で日米対戦が勃発。
島を守備していた日本兵約1万の死によって、桜の花のごとく散りペリリュー島の日本兵の全滅を意味する電報が日本へ送られた。
これにより、ペリリュー島での日米決戦は日本の敗北に終わった。

しかし、日本兵は果敢に戦った。
戦車10倍、重火器100倍、航空機200倍という圧倒的戦力差のあるアメリカの前では、2,3日もあれば戦いに決着が着くだろうと言われていたが、日本兵は決して怯まず、持久戦に持ち込み、73日にもわたる死闘を繰り広げた。
しかし、このペリリュー島での決戦には、非常に不可解な点がありました。

それは、アメリカの砲爆撃や激しい空爆の嵐が島に降り注いだにもかかわらず、島に住んでいた1000名近い現地民に、ただの一人も死者や負傷者が出なかったこと。

あなたがもし、日本は戦前、アジアを侵略した残虐な国家だということに少しでも違和感があるとしたら、パラオのペリリュー島での忘れ去られたもう一つの日米対戦の秘話を通じて、
なぜ島民は一人も死亡しなかったのか?
という謎を解き明かすことにより、私たちの記憶から消された『歴史の真実』が見えてくるでしょう。

ということで、今回は日本とパラオの関係を基に書き綴っていこうと思います。

植民地支配されたのに日本を愛する国

19世紀後半、パラオはスペインとドイツに支配されていた。

白人の統治時代には、賃金無しで倒れるまで働かされ、倒れれば鞭打ちの罰を与えられる日々。

暴動を起こせば皆の前で銃殺され、公園の木に吊るされ見世物にされた。

奴隷のように「搾取」「虐殺」され、パラオの人口は減り続けた。

このことにより、パラオの人口は半世紀で90%も減少した。

しかし、ドイツが第一次世界大戦で敗れたため、講和条約で日本がパラオを獲得。
そのため、パラオ人たちは、今度は日本人に支配されて、また虐殺されると怯えていた。
しかし、日本の統治時代は白人のそれとはまるで違った。

日本はパラオに学校を作り病院、道路、水道、電気など、様々なインフラ整備を行った。
さらに、パラオの人々に対し、医療や教育の支援を行い、日本人とパラオ人は共に暮らした。

また、パラオを統治した日本軍は、パラオ本島の南に位置する『ペリリュー島』に進駐し陣地を作った。

ペリリュー島の島民も、はじめは日本兵に怯えていたが、日本兵は島民に丁寧に話しかけ、彼らの警戒心を解いていった。

やがて島民たちは日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に唄ったりした。

忘れられたペリリュー島の日米対戦の秘話

しかし、1944年になると戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

島民たちは日本を尊敬していたので、大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をし、島民の代表数人は、日本の守備隊長のいる指揮所を訪れた。

守備隊長であった中川州男は温厚な人物であったため、島民は、きっと自分たちの頼みを喜んで受け入れてくれるに違いないと、そう確信しており、自分たちも一緒に戦わせて欲しいという確固たる意志を伝えた。

一同の話が終わると、場が沈黙に包まれた。
しばしの沈黙の後、隊長は突然激昂し、このように叫んだという。

「帝国軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

彼らは一瞬、何が起こったのか分からなくなり、自らの耳を疑った。

日本人は仲間だと思っていたのに…。
一緒に肩を組み、歌を唄った日本兵たちの思いは見せかけだったのか?
やはりこいつらは、自分たちを見下しているのだ。

指揮所を出てからの帰り道、島民は裏切られた想いで、皆悔し涙を流した。

船に乗って島を去る日、日本兵は誰ひとり見送りに来ない。

島民たちは重い足取りで船に乗り込んだ。
しかし、船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。

そして、かつて一緒に歌った日本の歌を唄いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

その瞬間、島民たちは悟った。
「あの隊長の言葉は、自分たちを救うためのものだった…」

島の人たちは、何か自分でも分からない声を上げながら、涙で霞む目を必死に開けて、ちぎれるほど手を振り返した。

日本兵は、現地の島民が戦火に巻き込まれないように、別の島へ疎開させたことにより、兵士が全滅するほどの激しい戦いがあったにもかかわらず、現地民には戦死者が一人もでなかったのです。

当時、日本兵に助けてもらった島民は、このように述べている。

ミノル・ウエキ(元駐日パラオ大使)
「日本軍は、ペリリュー島民を全員疎開させることで保護してくれた。だから島民に死傷者は出なかった。日本軍への感謝は何年経っても忘れない。」

アマレイ・ニルゲサン(当時9歳)
「日本の兵隊がダイハツ(上陸挺)で連れて行ってくれた。他の安全な島に着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。2年半ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし残っていたら死んでいたと思った。家族で日本軍に感謝した。」

終戦後の1947年。島に戻った島民は、多くの日本兵の亡骸を見て涙した。

彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体一つひとつをきれいに片付け埋葬した。

また島には、戦死した1万人の日本兵を祀る『西太平洋戦没者の碑』が造られた。

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それには目のモチーフがかたどられており、その目は3200km先の靖国神社の方角を見つめている…。


メディアの報道では、
「日本は大東亜共栄圏という大義名分を掲げ、アジア各国を侵略し植民地支配を行った」
という声しか聞こえてきませんが、現地の証言や事実を紐解くと、パラオをはじめ台湾、朝鮮、満洲などに対して日本は立派な統治をしていたこと、そして現地の人たちからは、とても感謝されていたという真実が見えてきます。

もちろん日本も、ただの援助目的でやっていたわけではなく、「自国の利益のため」という側面もあったでしょう。

しかし、なぜ日本は他の欧米列強の国とは違い、獲得した領土を単に“植民地”として扱い、資源やカネを搾取しなかったのか?

そしてなぜ、終戦前で戦力が足りなかったにもかかわらず、パラオの守備隊長はパラオ人の協力を断ったのでしょうか?

実際にインド兵はイギリス軍として戦っていたように、当時の欧米列強は統治した先の現地民を兵士として戦わせるということは普通のことだったにもかかわらず…。

その理由は、日本は欧米列強による人種差別、植民地支配からアジアを守るという大義を持っていたからです。

その当時の欧米人は、有色人種であるアジア人を人として扱っていませんでした。

大戦中では、日本人はサルの仲間の類人猿とされ、ポスターなどに描かれていました。
しかも欧米人は、過去に下の写真のように顔とあご、鼻などの位置を計測して非人間、つまり有色人種の「サル度」を測定していたのです。

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また下の図は、『黒人とヨーロッパ人とオランウータンの横顔』という題名の図です。
欧米の白人は高潔であって、
「自分たちは神に似せて作られた人間である」
と聖書の記述を根拠にして自分たちの優位を証明し、有色人種が「人間以下」であり、むしろ
「進化の過程で一段下にいる動物に近い」
という理論を打ち立てていたのです。

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有色人種は人間ではない。
白人だけが人間である。
このような狂った思想で、白人は450年もの間、世界を支配下に置いていたのです。

そのため、
アジア人(黄色人種)vs 白人
といった構図があったのです。

日米衝突が始まる前、日本とタイを除くアジアの国は、ほぼ全て欧米に支配されていました。
アジアで唯一、まともに欧米と立ち向かえるのは日本だけだったのです。
そんな状況から脱却するためにも、その当時、一番強かったアメリカに日本が立ち向かい、アジアのリーダーとして戦いました。
日本は自国のためだけでなく、アジアの国を仲間と想い、その仲間のためにも尽くしました。

もし、あの当時、日本がアジアのリーダーとして立ち向かってなければ、今もなお、欧米による植民地支配、白人による人種差別が続いていたかもしれません。

今だって、私たちの先人の貢献がなければ、アメリカで黒人のオバマ大統領が誕生することなんてなかったかもしれません。

それくらい、私たちの先人は世界にインパクトを与え、世界の歴史を変えたのです。

そして、日本だけでなく、世界の国々が今もなお、その恩恵を受け続けているのです。

その証拠に、日本への称賛の声がこんなにもあるのです。

タナット・コーマン(元タイ副首相)
「あの戦争によって世界の至るところで、植民地支配が打ち壊されました。これは日本が勇敢に戦ってくれたおかげです。」

ゴーチョクトン(シンガポール第2代首相)
「日本軍の緒戦の勝利によってアジア人は、自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。」

マハティール・ビン・モハマド(マレーシア第4代首相)
「私の心の中にアジア人としての自信が次第に芽生えてきた。マレー人だって日本人のように決心すれば、何でもできるはずだと。」

もし仮に、戦後の教科書やメディアが言うように、
✔その当時の日本は狂った野蛮な国
✔アジアの開放ではなく、アジアを侵略したのだ
✔自分たちの父祖は侵略者であり犯罪者である

これが史実だったと言うのなら、なぜ日本は自らの命を顧みず、他国のために尽くしたのでしょうか?
かつての素晴らしく尊敬された日本人の精神性が徐々に失われている…。
そんな状況、もうやめにしませんか?

日本人の尊厳を侵し、思考を歪めたアメリカ

アメリカは戦後、日本が二度と立ち上がって復讐できないように、前例のないほど、特別な占領政策を実行しました。
日本との戦闘は約3年半で終わったのに、占領期間にはその2倍近い7年間も掛けました。

なぜか?

それは、人種差別・人種戦争という真実を日本人の記憶から消し去り、新しいでっち上げの記憶に塗り替えるため、それだけの時間が必要だったからです。

私たちの父祖が乗り出して行かざるを得なかったこの時代の「人種差別・人種戦争」の視点を持たないと、
✔なぜ織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉や征韓論で知られる西郷隆盛が、朝鮮半島に乗り出そうとしたのか?
✔なぜ日本は李氏朝鮮の王妃である閔妃(びんひ)を暗殺しなければならなかったのか?
✔なぜ日露戦争までは味方だったアメリカと僅か数十年後に戦争をする羽目になったのか?
✔なぜ日本は台湾や朝鮮を統治したのか?
これらの真実が見えてきません。

その結果、日本の統治やその他の外交の意図が見えず、一方的に侵略的であったという歴史観を押し付けられ、日本はアジアを侵略した悪い国だと、日本人自身が言い続けています。

戦後、GHQによって刷り込まれた自虐史観が続くせいで、今の現役世代から若い人に至るまで日本人としての誇りを失っていますし、個人主義に走っています。

まさに、今の中国や韓国と同じ様になりかけていませんか?
戦前・戦時中の気高い精神を持った日本人が少なくなっています。

戦前の日本人を擁護すると、すぐに「極右」だの、「戦争主義者」だのと、冷たい視線を浴びせられる気味悪さ。
これは戦後、GHQによって骨抜きにされた自虐史観が植え着いている証拠です。

戦後76年、祖国のため、アジアのために散っていった先人たちに最大限の敬意を表し、地に落ちた誇りを取り戻さねばならない。
正しい歴史認識を取り戻し、私たちの先人がやってきた事を後世に継承していく。

それが今の私たちができることだと思いますし、それを語り継いでいくのが使命だと思っています。


マッカーサーはアメリカ上院の聴聞会で、こう発言しました。
「私の個人的な見解だが、アメリカが過去100年で太平洋で犯した最大の政治的過ちは、共産主義が支那において勢力を拡大しているのを黙過してしまったことである。次の100年で代償を払わなければならないだろう」

どういうことか?

マッカーサーの発言は、ソ連封じ込めの提唱者として有名なアメリカの外交官ジョージ・ケナンの言葉と完全に符号します。

ケナンは回想記『アメリカ外交50年』の中で、こう言っています。
「アメリカは日本の勢力を支那本土、満州、朝鮮から駆逐したことで、自分たちの目標を達成したかに見える。しかしその結果、アメリカは過去半世紀にこの地域で日本が直面し、対処してきた問題と責任を日本に代わって引き受けなくてはならなくなっただけだ」

つまり、日本の資源を断ち切って追い詰めたのはアメリカです。

そして、アメリカが日本を追い詰めた目的は、支那大陸から日本を排除することでした。

なぜ日本を排除したかったのか?

私たち日本人にはアメリカの真意は分かりません。
しかし、恐らく日本の強大化を防ぎたかったのでしょう。
だから難癖をつけて、日本を戦争に引っ張り込んだ。

そして排除して初めて気づいたのです。
「自らの本当の敵は日本ではなく、共産主義だったのだ」
と。
我らと戦ったアメリカの当事者たちですら、あの戦争を省みて新たな教訓を得ているのです。

私たち日本人もそろそろ、過去75年間の歴史観を見直し、失われた『日本人のための歴史』を取り戻すときではないでしょうか?

マッカーサーは、こうも言っています。
「勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方が良い結果を生み出すことはない」

事実に基づき、正しく過去と現在を解釈しなければ針路を誤ります。

「知識は力なり」
と哲学者のフランシス・ベーコンは言いました。
現代では、様々な知識が本やネットで手に入ります。
しかし、どんな知識よりも『自国の歴史の知識』ほど力になることはないのではないでしょうか?

仕事のやり方など技術的な知識を得れば、その人の能力が上がって給料が上がるかもしれません。
しかし、自分の国の歴史を知らなければ、その人間は確固たる信念や価値観、軸を持てず漂流してしまうでしょう。
どんなに仕事が上手くいったとしても、どんなにお金を稼いだとしてもです。

自分の祖先の歴史を知ることで、自分自身が何者か気づくことができ確固たるアイデンティティや信念を持つことができます。
そして『自立した人間』になれるでしょう。

アメリカを始めとした連合国は戦後、我々日本人の祖国の歴史への誇り、故郷や同胞への愛着、そして私たちの精神的な強さをとても恐れていました。
二度と強い日本を見たくないと思い、私たちの思考を破壊し、精神を打ち砕くべく、私たちから『日本人のための歴史』を奪いました。

祖先の歴史を知ることは、力なりです。

我々は今一人も残さず、過去の先人たちの想像を絶するような努力と献身の上で生活しています。
誰一人例外なく、その恩恵を受けていない人はいません。
それを知らぬ存ぜぬでは無責任ですし、何より恥ずかしいではありませんか。

今回も最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

〔編集後記〕

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皆さんは
「日本は非道で残虐だ」
と広めた写真の女性をご存知ですか?

彼女の名前は、宋美齢(そう びれい)です。

中華民国総銃夫人で、大きな影響を及ぼしました。

1942年に開かれたアメリカ議会において、彼女は流暢な英語で中華民国に対する日本の非道な行為を訴えました。

この演説により、
「残酷で野蛮な日本人と戦っている美しくか弱い宋美齢」
というイメージが全米のアメリカ人に共有され、多くの人が彼女の虜となり、米国を中国の味方につけることとなりました。

そして、日本に対する憎悪感を世界へ広げていったのです。

しかし、知っていますか?

宋美齢が主張する「残虐非道な日本」と裏腹に、世界で初めて平和を提唱したのは日本であるということを…。

1919年、パリ講和会議において、日本代表団代表の牧野伸顕元外務大臣は、人種差別の撤廃を提唱しました。

このような提唱は世界で初めてでした。

多くの国が賛成する中、イギリスやアメリカを含む5ヶ国が反対し、アメリカのウィルソン議長は、全開一致でないことを理由に不採択としました。

当時、世界は白人列強により有色人種は差別されていました。

実際にアメリカのフィリピン征服は非常に残虐でした。

虐殺や水責めの拷問…。

アメリカ軍の行動に抵抗した村には、罰として男の子供を全員死刑にしました。

このような非道な行為により、およそ100万人の命を奪ったのです。

つまり、日本は世界に平和を作りたかったが、白人国家のアジア進出を進める都合により、その機会を失ったとも考えられるのではないでしょうか?

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