見出し画像

2021.9.6 侵略されたのに人口が激増した満洲国の怪奇

「あそこは無法の荒野であって、身の安全を確保するのすら難しいだろう」
そう感想を残したのは、満州を訪れた一人のアメリカ人です。
1930年代に入った満州は世界で一番不公平な土地でした。

例えば、税金制度はデタラメで貧乏人には重く、金持ちには軽い。
田舎には重く、都会には軽い。
働く者には重く、怠け者には軽い。
さらには、徴税する役人同士で税金争奪戦が行われ、職権濫用を繰り返しては、働く満州民から暴力的に金を奪って自分の懐に入れて、民衆から軍人や政治家まで薬物乱用を繰り返し、薬物と汚職と賄賂が蔓延した満州は、さながらアジアのスラム街でした。

それだけではありません。
満洲国の成立以前、軍閥が割拠支配する満州で最も人々を苦しめていたのは通貨の混乱でした。
満州の各省では、それぞれの省の支配者によって紙幣が発行されていて、これらの紙幣は他の省では通用しません。
その紙幣の数はなんと100種類以上になります。
しかも、各紙幣は軍閥が思いのままに乱発するので、数年ごとに紙くず同然になります。
こうして軍閥の支配者は政権を奪取するたびに紙幣を乱発して、巨万の富を蓄えていたのです。

そうした環境にあった満州民の生活は徹底的に破壊し尽くされ、格差社会であったにもかかわらず、もっとも裕福な奉天省でさえ、人口の4割は雑穀しか食べれない生活を送っていました。
そして、残りの6割は物々交換の生活をなんとか送っていたのです。
まさに中世以前の前近代社会です。

しかし、今から見れば、そんな地獄とも言えるような日々を送ってきた満州民に転機が訪れました。

1932年9月15日に日満議定書が日本と満州の間で結ばれ、日本が満州を本格的に統治しにやってくるというのです。

ですが、この日本が統治にやってくると耳にした時、満州民は猛反対しました。
他の西欧列強の統治をみても分かる通り、ただ奴隷のように搾取される未来が見えていたからです。
実際に、スペインとドイツに支配されたパラオでは搾取、惨殺が繰り返されパラオ人の人口は90%も減少しています。

そうした満州民の猛反対は凄まじく、過激な排日行為によって当時から満州に居た日本人が迫害されて日本人の4分の1の家がなくなったと言われています。

しかし、この満州民の心配は杞憂に終わりました。
なぜなら実際に日本の統治生活が始まると…。

まず、極端で独裁的なデタラメな税金制度が改善され、満州が近代国家として脱皮するための新たな礎が打ち込まれました。
その後、満洲国の税収入は着実に増えて安定し、立派に発展していく満洲国の経費を賄いました。
租税に関して、満洲国の民衆の間に不平不満はほとんどなく、紛争や騒動がピタリと収まったのです。

そして、近代的な租税制度の確立と共に、満洲国で最大の成果を上げたもう一つの改革は通貨の統一です。
日本によって満洲中央銀行が設立されて、通貨発行の権限は1ヶ所に指定され、それ以外の通貨の使用は禁止されました。
満洲国の建国当時、各地で反旗を翻した大小様々な軍閥は、どさくさに紛れて紙幣を大乱発していました。
これは本より、日本が責任を負うべき筋のものではありません…。

しかし、被害者の民衆に救いの手を差し伸べて、民心を安定させて信頼を回復するためにも、そのための緊急措置としてこれらの紙くずの紙幣を全て回収し、新しい通貨と同じ額面で交換されたのです。
これらの出血を伴う荒療治によって、満州の通貨の混乱もピタリと収まって、民衆の生活は安定しました。

それだけではありません…。

今まで、雑穀すらまともに食べれない農業国を工業大国に育てるために、満州産業開発5ヵ年計画という大事業を日本がスタートさせました。

しかし、元々資本の蓄積が乏しく、満鉄以外には人材も技術者もいない満州で、こういった大計画を実施しようとすれば、どうしても日本の身を削った方法しかなくなってしまいます。
そこで、日本政府は当時の年間24億円あった国家予算の2倍に相当する約50億円を満洲国に投資しました。

こうして人々の生活は豊かになり、日本が統治した13年の間に人口は3千万から5千万人に増えて、統治した当初に見られた反発も生活が豊かになるにつれ、全く見られなくなりました。
アジアのスラム街だった満州はアジアのオアシスへと大変貌を遂げたのです。

実際に、1931年のロンドンのタイムズはこのような記事を書いています。
<日本は支那の悪政という荒涼たる砂漠の中に青々としたオアシスを作り出したのである。そして、満州での合法的な企業が、数々の妨害を受けてきたという日本の主張は十分に理解されるし、その上で日本国民は、満州で迫害されてきたともいわれている>
と記載されていました。

最初は排日運動・反日教育に没頭していた中国人すらも、日本が統治した満洲国をみて中国各地から移住希望者が殺到しました。
実際に中国の人口の40分の1がわざわざ満洲国に移住してきたと言われています。

そんな日本が統治した満州について、こんな記録が残っています…。

「満州国の時代には、夜、鍵をしないでも安心して寝ることができました。しかし、戦争が終わって中国が入ってきてからは、二重ドアにしなければ安心して寝られなくなりました」

「我々の旅した土地は、わがアメリカの中西部の豊かな農業地帯の風景と似ていた。食糧が豊富に供給されるこの土地では、飢えに苦しむ人など一人もいない。我々が訪れた各都市の新興の市街地では、道路がよく舗装され、近代的な建物が建っているのを見て、私は大変驚いた。これはこの国の新しい首都である新京で、とりわけ顕著だった。この新しい首都の町が目下のところ、急速に開発されているその素晴らしい計画に、強烈な印象を受けた。5~6年前に新政権が成立した時、新京が首都になって以来、これほど多くの業績が成し遂げられてきたのは、実際ほとんど信じられないくらいだ。明確なよく練り上げられた計画に従って建設されているので、新京はその発展が進むにつれて、世界有数の美しい都市の一つになるだろう。」

「私が満州に行って驚いたのは、レベルの高い生活をしていたことだ。建築物全てが煉瓦造りになっていて窓は二重ガラス。地下には子供が立って歩ける大きななトンネルにパイプが巡らされ、全戸スチームで集中暖房の生活。寒い満州ですでに水洗トイレを使用していた。こちらはくみ取り式である。散髪も今と同じ様に座って散髪して洗髪している。上富良野の洗髪は、場所を移してポンプで水をかけてジャブジャブ頭を洗う。スケートも革靴を履いて滑っていた。パンは代用パンしか知らなかったが、白い帽子を被った職人が現在と同じ形のパンを作り売っていた。吉林市には日本人の小学校が朝日、陽明の二校があり、他に中学校、女学校が各一校の合計四校あった。いずれも大きな煙突が築かれ、レンガ建物全体が完全暖房。水洗トイレであった。おとぎの国に行ったのかと思う程生活が違う。今でも懐かしく思い出します。」

日本は侵略者ではなく救世主だった

もし、皆さんが、日本は満州に侵略・占領をして民衆を抑圧し、圧制の元でひどい行為をしたと思っているなら、少し考え直す必要があるかもしれません。

たしかに、私たちが習った教科書には、満州統治は日本の侵略だったとはっきり書かれていますし、当時の西欧列強がしていた植民地支配の常識から考えてみても、“日本が侵略者だ”と誤解されてもおかしくないかもしれません。

しかし、実際には暴動は収まり、近代的な制度が確立し、人口は増え、わずか13年間で工業大国へと変貌しています。
今でこそ、中国から言われなき侵略と呼ばれる満州統治ですが、当時の中国人口の40分の1が移住してきた事実こそが侵略ではなかった確たる証拠なのではないでしょうか。

こうした歴史の矛盾を1つひとつ丁寧に紐解いていくと、今まで見えてこなかった日本人の功績が浮き彫りになり、歴史の見える絵柄がガラッと変わります。

日本から満州に人材を送り込んだ時に大蔵大臣の高橋是清はこのような演説を行いました。

「このたびは満州が新たに国づくりをしようとしているのだ。君たちはそこに手伝いに行くんだ。真に満州のためを思って行かなければならない。日本の利益を計るのを第一としてはならない。満洲国の人たちの身になって、満洲国の人たちの真の幸福を図らなければならない。それがまた結局、日本にとって本当の利益になるのだ。日本だけの利益を図るのが愛国心だ、などと思っている人がたくさんいる。ことに外国や植民地に行っている人に、そういった人が多い。困ったことだ。この連中のために日本がどんなに損をしているか、分からない。私は君たちが羨ましい。できることなら、私自身が満州へ行きたいとさえ思う。私がもしも、もう30年若かったら、この仕事は私が引き受けていただろう」

こんな記録が残っていても、果たして日本は“残虐な侵略者”のままなのでしょうか?

日本に濡れ衣を着せた首謀者の正体

しかし、一体いつから日本は侵略者扱いになったのでしょうか?

そこにはアメリカの陰謀がありました。

当時まだ見ぬ巨大戦艦を持ち、『眠れる獅子』として欧米列強からも恐れられていた清国を打ち負かし、日本の11倍の陸軍総兵力を持ち世界最強とも呼ばれていた大帝国ロシアを葬り去り、明治維新で急成長を遂げ、アジアで唯一欧米列強と張り合える戦力を持った極東の小国…。

そんな気味が悪いほど強かった日本を2度と見たくなかったアメリカは、東京裁判で日本に通訳もせぬまま、でっち上げの侵略の罪をなすりつけたのです。
こうすることで、
「日本=侵略者」
「日本=アジアに迷惑をかけた」
の構図が国際的に成り立ち、日本は戦後の教科書でも自ら“侵略者の冠”を被り続けることになりました。

また、同時にGHQの指令によって「中国批判」は禁じられ、その後、『日中記者交換協定』などで、メディアは中国の嘘に反論することさえできなくなりました。
結果、日本人は、日本人の功績と共に正しい歴史を見失う羽目になったのです。

これでは、そんな嘘の歴史を突きつけられて育つ日本の子供たちが日本を誇ることができません。
「日本人は残虐だった、アジアの国々を侵略して迷惑をかけた、中国には謝らないといけない」
と教科書で嘘の歴史を学んだら、私たちやそのまた上のお父さん、お母さん、お爺ちゃん、お婆ちゃんの世代のことを恥ずかしく思うかもしれません…。

満州の真実を語ることが一種のタブー

しかし、こうした状況をなんとかしようにも、実際には戦後の歴史界では東京裁判史観が厚く信じられているので、満州の真実を語ることが一種のタブーとされています。

満洲国は日本の敗戦と共に消えてしまったため、現地の資料の整理もされませんでした。日本軍が降伏した後もソ連が火事場泥棒的に攻め寄せてきて資料をかっさらっていったからです。

なので、戦後私たち日本人は満州と日本の関わりについて、真正面から向き合うことを避けてきた最も不得手な分野と言えるかもしれません。
しかし、だからこそ満州の歴史をどう見るのかということは、日本人の歴史観を問う鏡のようなものです。
実際、満州には戦前日本のエッセンスが凝縮されています。

なぜなら、戦前の日本が、明治から終戦までのわずか70年そこそこの間に成し遂げた近代化の試行錯誤の結果を遺憾無く発揮した場所が、この満州だったからです。

つまり、満州のことを正しく理解することは日本を理解する、ということだといえるのです。
日本は生存のため、欧米に抑圧された自己を開花させるため、この満州の土地に命を懸けたのです…。

〔編集後記①〕

皆さんはご存知でしょうか?

現在の日本の教科書は韓国、中国の検閲を受けていることを…。

さらに、捏造された歴史に上書きされていることを…。

と、いうのも1982年。

「日本の教科書の内容が、中国への“侵略“から“進出“に変わっていた」

という誤報をきっかけに、文部省が日本のメディアや中国、韓国などから非難を受ける教科書誤報事件がありました。

この事件をきっかけに、
「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」
という『近隣諸国条項』が教科書の検定基準に加えられたのです。

早速、韓国はこの条項を根拠に、日本の教科書を収集・検討し、日本政府に対しあらゆる変更を要求しました。

例えば、
・創氏改名推進⇒創氏改名強要
・徴用⇒強制連行
・日本語教育⇒日本語強制

に書き換えられました。

つまり、中国や韓国の都合の良いように、日本の教科書が改造されているということです…。

既に皆さんもご存知のように、実際に日本が韓国に対してそのようなことを行なった証拠は何もありません。

しかし、今日本の中学校で一番普及している教科書では、依然として日本は侵略者扱いです…。

確かに、日本が満州を統治すると言った時、中国人は大反対をしていました。

しかし、実際に日本の統治生活が始まると、本編の内容にあるような統治がなされていたのです。

〔編集後記②〕

日本が金儲けのために、傀儡国家にしたと言われている満洲に現在の価値で約1兆円を持ち込んだ日本人がいたことをご存知でしょうか?

というのも、本編の内容の通り、当時の満洲国では、満洲産業開発5ヵ年計画という満洲を農業国から、工業大国に変貌させる計画が始動していました。

しかし、満洲には日本政府が国家予算の2倍の資金を投入したにもかかわらず、熟練労働者と機械が無かったため計画は滞っていました。

ですが、そこに現れたのが、鮎川義介です。

鮎川は、当時からトヨタと並ぶ日本の二大自動車メーカーである日産の創業者です。

満洲国の状況を見かねた鮎川は、遂に決心して総資産2億円の日産をそっくりそのまま会社ごと移転させました。

当時の2億円といったら、現在の貨幣価値に換算して1兆円くらいです。

ここに、満洲国は初めて世界的水準の企業を国内に持つことになり、満洲の人々も日本の一流企業が満洲の開発に取り組む姿を見て、心の底から喜びました。

日産汽船など錚々たる大企業も漸次、満洲の開発に動員投入していくというのが、鮎川義介の抱いていた最終構想でした。

つまり、日本は金を搾取するどころか、逆に資金を投入していたということです。

〔編集後記③〕

皆さんは、なぜ満洲国が日本の傀儡国家と呼ばれるようになったかご存知でしょうか?
その理由を2つお話しします。

①日本人が政治を仕切っていた。
②日本人だけの給料が高すぎた。

この2つは実は、嘘ではなく事実です。

実際に、満洲国の行政はほぼ日本人の官僚でしたし、給料も4割ほど高給でした。

しかし、ここからが重要です。

なぜなら、まず①については、1932年6月に満洲国の方から日本の大蔵省に対して、新国家の財政制度を創設できる有能な人材を送ってほしいと依頼をしていたのです。

こうして、送り出されたのが国有財産課長の星野直樹たちでした。

次に②については、日本人の官僚と満洲人の官僚の能力差があるから、給料が高いのは当然でした。

日本は明治維新後、既に60年経過していて、富国強兵、殖産興業を成し遂げ、世界の先進国の仲間入りをしていました。

官僚制度も整備され、世界一とまで称賛された日本の官僚の能力の高さは定評があります。

満洲国に対して日本の果たす役割は、大人が子どもを手取り足取り教え導いていくようなものです。

これは、かつて明治政府が、外国人のお雇い教師に総理大臣クラスの報酬を払って日本に迎え入れたようなものです。

その結果、高い能力を持った日本の官僚たちはボロボロの満洲をたったの13年で工業大国へと大変貌させました。

これを金儲けとか侵略とか呼ばれる筋合いはないのではないでしょうか…?


今回も最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?