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2021.11.27 三島由紀夫『憂国忌』

『憂国忌』と聞いて、三島由紀夫の忌日であることを知る日本人は、現在どれくらいいるでしょうか。

51年前の11月25日、三島由紀夫は自ら結成した『楯の会』の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、会員の若者1人と共に割腹自決しました。

益田兼利ましたかねとし東部方面総監の身柄を拘束し、自衛隊員の集合を求め、彼らの前で演説をした後のことです。

私はこの当時、まだ生まれておらず、テレビの映像や伝記で『事件』を知りましたが、三島由紀夫の名を聞いたことはあっても、どんな人物かは知らず、小説を読んだこともありませんでした。

三島への関心と、ある種の強い共感は、後年その作品を読むようになってから生じたものです。

「同時代というものをほぼ百年だと思っている」
と語ったのはコラムニストの故・山本夏彦ですが、その時間意識からすれば、『三島事件』は今を生きる日本人にとっても同時代の出来事だといえます。

三島はなぜ、この一挙に至ったのか。
想いはどこにあったのか。
三島の『檄文』を一部抜粋します。

<われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのをみた。

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。

われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残ってゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば、男のほこりがどうしてこれを容認しえよう。

我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり武士である。

われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。

あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。

今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。

これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。

もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。>

私は、三島の自衛隊のみならず、日本人に対する命懸けの『問責』に深い意味を見出しましたが、持論を皆さんに押し付けるつもりはありません。

ただ、三島の言葉や行動をなるべく正確に伝えたいと思っています。

総選挙から1ヶ月近く経ちました。
三島なら今日の政治状況をどのように見ただろうかと想像するとき、手掛かりになる言葉があります。

<本当の現実主義者はみてくれのいい言葉などにとらわれない。たくましい現実主義者、夢想も抱かず絶望もしない立派な実際家、というような人物に私は投票したい。だれだって自分の家政を任せる人物を雇おうと思ったら、そうせずにはいられないだろう。>(1960(昭和35)年 『一つの政治的意見』毎日新聞)

<政治行為は、あくまで結果責任によって評価されるから、たとえ動機が私利私欲であっても、結果がすばらしければ政治家として許される。また、動機がいかに純粋であっても、結果が見るもおそろしいものになった場合に、その責任はみずからが取らなければならない。現在の政治的状況は、芸術の無責任さを政治へ導入し、人生すべてがフィクションに化し、社会すべてが劇場に化し、民衆すべてがテレビの観客に化し、その上で行われることが最終的には芸術の政治化であって、真のファクトの厳粛さ、責任の厳粛さに到達しないというところにあると言えよう。>(1969(昭和44)年 『若きサムライのための精神講話』PocketパンチOh!)

いずれも半世紀以上前の言葉ですが、今日に通じる警句であると思います。

ということは、『戦後体制』という欺瞞の中で、日本の政治状況は何も変わっていません。

変わったように見えるのは表層だけで、“本当の現実主義者”もいなければ、“社会すべてが劇場に化し”、ある種の“政治ごっこ”が繰り返されているだけではないのでしょうか。

それでも日本が潰れないのは、まだ多くの国民が『勤勉』であることを大切な価値と思っていること、戦前からの連続性の中にある諸々の遺産のお蔭でしょう。

その遺産とは、政治的に喧伝されるスローガンからは見えず、歴史的に培った国民の常識の中にあります。
三島が問いかけたことは、歴史の中にある日本を取り戻せば当然のことでしょう。

先の大戦を風化させてはいけないという言説はメディアに溢れていますが、それは『反戦平和』を振りかざすだけで事足りるのでしょうか。

<あの戦争についての書物は沢山書かれているが、証人は次第に減り、しかも特異な体験だけが耳目に触れるから、今の若い人たちは戦時中の生活について、暗い固定観念の虜になりがちである。そこにも平凡な人間の生活があり、平凡な悲喜哀歓があり、日常性があり、静けさがあり、夢さえあったということは忘れられがちである。>(1971(昭和46)年 『序(東文彦作品集)』東文彦作品集)

このように、三島由紀夫の言葉は『反時代的』です。
『戦後』という途轍もなく強固な鏡張りの部屋の中で、三島はそれを打ち破ろうとして散った一人の日本人であると、私は思っています。

故・江藤淳による被占領時代のGHQの検閲・言論統制の実証的研究が世に明かされる以前、三島は文学者の直感や体験からその構造を感じ取り、それに挑んでいました。

三島が『事件』の4ヶ月半前に書いた『果たし得ていない約束――私の中の二十五年』という一文を以下に抜粋します。

<二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。

こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。(略)

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。>(1970(昭和45)年7月7日 『サンケイ新聞(元現産経新聞)夕刊』)

「日本」はなくなって云々(中略)それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気になっている。
この一文には私も三島に共感するところがあり、それが時代の価値観だとしたら大いに反時代で行こうと思う。
同じで気持ちでお付き合い下さる方々が居ることを祈ってーー。

今回も最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

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