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2022.5.30 教科書から消えない自虐史観~大東亜戦争~

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中学の歴史教科書読み比べ1ヶ月以上放置していましたが、久しぶりに比較をしていこうと思います。

今回は、今なお日本人の自虐史観が強い大東亜戦争が、どのように書かれていて、多感な時期の中学生への影響度を検証していきます。


彼が必要と考えた戦争を実現した

日米開戦の引き金を引いたのは『ハル・ノート』ですが、東京書籍(以下、東書)版の記述は呆気ないほど簡単です。

<日米交渉の席でアメリカが、中国とフランス領インドシナからの全面撤兵などを要求すると、近衛内閣の次に成立した東条英機内閣と軍部は、アメリカとの戦争を最終的に決定しました。>

しかし、これでは、ハル・ノートが日本政府にとって、どのような意味を持っていたのか分かりません。

この点を育鵬社版は次のように記述しています。

<日米交渉が行きづまるなか、軍部では対米開戦も主張されるようになりました。
1941(昭和16)年11月、アメリカは、中国やインドシナからの日本軍の無条件即時撤退、蒋介石政権以外の中国政権の否認、三国同盟の事実上の破棄などを要求する強硬案(ハル・ノート)を日本に提示しました。
東条英機内閣は、これをアメリカ側の最後通告と受け止め、交渉を断念し、開戦を決断しました。>

この『ハル・ノート』に関しては、当時、アメリカ国内でもルーズベルト政権がソ連の工作員たちに操られて、日本を戦争に追い込んだとの批判が強まっていました。

彼らの狙いは、アメリカが日本を最初に攻撃することによって、アメリカを日独との戦いに引きずり込み、ドイツと戦っていたソ連に手助けさせようというものでした。

ハル・ノートの持つ意味に関して、育鵬社版はアメリカの外交官キッシンジャーの著書『外交』の次の一節を引用しています。

<ルーズベルトは、日本がハル・ノートを受諾する可能性はないと知っていたにちがいない。
・・・もし日本が米国を攻撃せず、東南アジアだけにその攻撃を集中していたならば、アメリカ国民を、何とか戦争に導かなければならないというルーズベルトの仕事は、もっと複雑困難になっていたであろうが、結局は彼が必要と考えた戦争を実現したのである。>

現代アメリカを代表する国際政治学者キッシンジャーが、“彼が必要と考えた戦争を実現した”と指摘した事実は重い。

大東亜戦争をルーズベルトは必要としましたが、日本政府もアメリカ国民も欲しない戦争でした。

自存自衛の戦争

もう一つ、東書版が語っておらず、育鵬社版が指摘している重要なポイントがあります。

<米英に宣戦布告したわが国は、この戦争を「自存自衛」の戦争としたうえで、大東亜戦争と名づけました(戦後は太平洋戦争とよばれるようになりました(3))。
(3)戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)が大東亜戦争の名称を禁止したので、太平洋戦争という用語が一般化した。>

この戦争が「自存自衛」の戦いだったということは、開戦の詔勅に明確に謳われています。

そこでは日本が、
「万邦共栄ノたのしみともニスルハ」
日本が常に国交の要義としてきた所だが、今や不幸にして米英両国と戦端を開くに至ったのは、天皇として
あに朕ガ志ナラムヤ(どうして私の志であろうか)」
という悲痛な嘆きを表明しています。

そして、その続きに、

「・・・帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ、更ニ帝国ノ平和的通商ニラユル妨害ヲ与ヘ、遂ニ経済断交ヲ敢テシ、帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ。
・・・事すでニ此ニ至ル。
帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為、蹶然けつぜん起ッテ一切ノ障礙しょうがい破碎はさいスルノほかナキナリ。」

と、日本が「自存自衛」のため、立ち上がらざるを得ない事を述べています。

「経済断行」によって、国家と国民の生存権が脅かされていたのです。

自存自衛とアジア解放

太平洋戦争か、大東亜戦争か、名称の違いの根底には、重大な史観の違いがあります。

『太平洋戦争』とは、まさしくアメリカから見た戦争です。

日米英の戦いは太平洋上で展開されました。
フィリピンやマレーシア、シンガポールなどの戦いもそれに含まれます。

『大東亜戦争』という名称の背景には、アジア各国の欧米の植民地からの解放という目的があります。

開戦と同時に国内外に発表された『帝国政府声明文』は、天皇のお言葉として出された開戦の詔勅を、政府の立場から補完したものですが、その中に次の一節があります。

しかして、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。
何等なんらその住民に対し敵意を有するものにあらず、ただ米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携あいたずさへて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等これら住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり。>

日本の自存自衛のためには、欧米勢力からのアジアの開放が必要不可欠でした。

米英蘭がアジアを支配していたからこそ、日本はアジアからの資源輸入の道を絶たれ、<帝国ノ生存ニ重大ナル脅威>に曝されたからです。

また、蒋介石との戦争も、英米が支援を続けているからこそ、いつまでも終結しません。

<米英の暴政を排除して>アジア諸国が<明朗本然の姿>、すなわち独立を回復し、それらの国々との自由な交易によって<共栄の楽を分>かつ事が、日本の自存自衛のための道でした。

アジア独立への希望

政府声明の言う、アジアの住民が、
<我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべき>
という願いはその通りに実現されました。

育鵬社版は『アジア独立への希望』という項目で、以下のように詳細に記述しています。

<長く東南アジアを植民地として支配していた欧米諸国の軍隊は、開戦から半年で、ほとんどが日本軍によって破られました。
この日本軍の勝利に、東南アジアやインドの人々は独立への希望を強くいだきました。
東南アジア唯一の独立国だったタイは日米開戦直後に日本と同盟を結び、米英両国に宣戦布告しました。
イギリス軍として戦ったインド兵の多くは、捕虜となった後、インド国民軍に加わり、独立をめざして日本軍と行動をともにしました。
ビルマでは日本軍の進攻に応じてビルマ独立義勇軍がつくられ、日本軍に協力しました。
インドネシアでも義勇軍ができ、日本軍の指導で軍事訓練が行われました。>

日本軍がマレー半島1000kmの英軍を打破しつつ、70日間で南下してシンガポールを占領できたのも、マレー人の道案内やイギリス軍妨害の協力があったからこそでした。

大東亜会議

『帝国政府声明文』に謳われていたアジア諸民族の独立と<相携あいたずさへて共栄の楽を分たん>という祈念を、アジア各民族のリーダー達と再確認したのが『大東亜会議』でした。

育鵬社版は『大東亜会議の開催』の項で、次のように述べています。

<戦局がしだいに悪化していくなかで、わが国は1943(昭和18)年11月、東京で大東亜会議を開きました。
会議には中国(南京政府)、タイ、満洲国、フィリピン、ビルマ、インドの代表者が集まり、これらの地域を米英の支配から解放することなどをうたった大東亜共同宣言が採択されました。
わが国の南方進出は石油資源の獲得をおもな目的としていました。
この会議以降、欧米による植民地支配からアジアの国々を解放し、大東亜共栄圏を建設することが、戦争の名目として、より明確にかかげられるようになりました。>

この大東亜会議に、自由インド仮政府首班として参加したのがチャンドラ・ボースでした。

育鵬社版はボースの写真に、次の説明を添えています。

<チャンドラ・ボース(1897〜1945)とインド国民軍
ボースはガンジー、ネルーと並ぶインド独立運動指導者。
自由インド仮政府を樹立し、インド国民軍を率いて日本に協力した。>

次々と自力で独立を勝ちとっていきました

育鵬社版は、『日本の占領とアジア諸国』の項で、日本軍が侵攻した地域で、現地人の犠牲者が出たり労働に使役された様を記述しますが、その後を次のような一文で結んでいます。

<欧米諸国による支配からの独立を求めていたこれらの植民地は、戦争が終わった後、十数年のあいだに次々と自力で独立を勝ちとっていきました。>

その典型例がインドネシアでしょう。
この節の末尾に、『列強の植民地とアジアの民族活動』と題した2頁のコラムを設けて、インド、ビルマと共に、インドネシアの事例を以下のように紹介しています。

<オランダ領東インド(現・インドネシア)では、1920年代にさまざまな独立運動がおこりましたが、いずれもオランダによってつぶされていました。
太平洋戦争で日本軍がこの地域を占領すると、独立運動家のスカルノらは日本軍の求めに応じてその占領統治に協力し、日本の軍政下で勢力をのばしていきました。
終戦をむかえると、スカルノはインドネシア独立を宣言し、この地域の再植民地化をはかるオランダと戦って独立を勝ち取りました。>

日本軍が降伏した後、オランダ軍が戻ってきて、再び植民地にしようとしましたが、日本軍に鍛えられたインドネシア将兵はオランダに対する独立戦争を戦いました。
そして、1000人とも2000人とも言われる日本軍将兵が現地に残って、共にインドネシア独立戦争に加わったのです。
彼らの何人かは、今もインドネシア国立墓地に眠っています。

日本人は、はからずも歴史的なことを成しとげた

日本軍による人材養成や戦後の独立戦争参加なども、良き支援となりましたが、やはり各国が独立できたのは、同じアジア人種の日本人が近代兵器を駆使して欧米勢力を駆逐して見せたという点が大きい。

それを見て、アジア各民族は、自分たちもやればできるはずだと立ち上がったのです。

この点を育鵬社版は、『トインビーが見た「第二次世界大戦と日本」』と題したコラムで明らかにしています。

<イギリスの歴史家A・トインビー(1889〜1975)は、日本はその近代の歩みの中で、第二次世界大戦での破局をむかえたが,日本人は、はからずも歴史的なことを成しとげたとして、こう記しています。
「アジア・アフリカを支配してきた西洋の帝国主義者たちが、過去200年間そう思われてきたような無敵の存在ではないことを、日本人は他の人種の人々に証明した。われわれ欧米人はみな、日本人によって、次々とたおされたのである」

現地の住民の日本に対する期待はじょじょに失われ

以上のアジア独立に関する点を、東書版は一切記述していません。

『植民地と占領地』という項で、以下のように日本軍の“悪行”を書くのみです。

<東南アジアにおいても、日本軍は、労働を強制したり、物資を取り上げたりしました。
また、 日本語教育などをおし付けました。
そのため、現地の住民の日本に対する期待はじょじょに失われ、各地で抵抗運動が発生しました。
日本軍は、抗日的と見なした人々を厳しく弾圧し、多くの犠牲者が出ました。>

記述の一面さを露呈しているのは、<現地の住民の日本に対する期待はじょじょに失われ>という表現です。

育鵬社版のように、<この日本軍の勝利に、東南アジアやインドの人々は独立への希望を強くいだきました>という面を全く書かないので、突然、<現地の住民の日本に対する期待>と言っても、読者には何のことかさっぱり分かりません。
ただ、この東書版の著者陣ですら、当初は<現地の住民の日本に対する期待>があったと認めていることには注意したい。

その事実は認めつつも、文面に詳しく書かないのは何故かは分かりませんが…。

日本が成しとげた“歴史的なこと”は、現代世界にも多大な影響を与えています。

今日、ASEAN諸国が独立して、日本がこれらの国との友好関係や自由貿易を享受しているのは、この“歴史的なこと”のお陰です。

今年も東書版で学ぶ中学生たちは、こういった事実を教えてもらえない事で、現代世界を正しく理解できなくなってしまうことでしょう…。

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