見出し画像

2021.2.22 GHQを出し抜いた昭和天皇

教科書が教えない1946年の秘密

画像1

1945年8月15日の終戦から2週間後…
初めて日本に降り立ったマッカーサーは
「一体、どうしたらいいんだ…」と頭を抱えた。

そこに広がっていたのは、マッカーサーを無言の圧力で迎える何百万もの兵士。

そして、その頂点に立つ昭和天皇の姿…。

まるで敗戦国とは思えないほどの異様な雰囲気に、マッカーサーは圧倒された。
そして、彼の悪い予感は後々的中する…。

マッカーサー率いるGHQは日本を占領後、津々浦々で聖書を配りキリスト教を全国に布教。

更に、天皇制を否定するため、共産主義者を次々に釈放…。

あらゆる手段で日本人を骨抜きにし、本当の意味での“近代化”を図ったが、何をやっても思い通りにはいかなかった…。

実は、日本人の揺るがない精神を保っていたのは、昭和天皇の“たった1つの宣言”だった。

今の教科書では「戦前の体制を否定した」とも言われるこの宣言だが、当時の日本人はこれをきっかけとして、みるみるうちに結束力を取り戻していった……。


今回は、まず先述したその過程として、終戦直後の日本の様子を知ってもらおうと思います。

GHQによる日本弱体化計画

「本当の国難は、ここから始まる…」

終戦直後、やり場のない感情に日本中の誰もが下を向いていた。

ある者は終戦の知らせに泣き叫び、敗戦を受け入れようとはしなかった。

しかし、それ以上に未来に対する不安があった。

焼け野原となった土地、その日暮らしの食糧…

大蔵大臣は、「餓死と病死を合わせて、1千万人が亡くなるだろう」と述べた。

そして、8月30日…
いよいよGHQが占領を開始。

最高司令官マッカーサーは、日本の『民主化』を掲げ、あらゆる改革を進めた。

その中の1つに、『天皇の人間宣言』がある。

日本人は古来から、自然現象を人格化したものを『神』と呼ぶが、これと同じように当時の国民は天皇を神格化した。

そこで、マッカーサーはこう考えた。

天皇自身に「私は人間です」と宣言させることで、『神』である天皇のために戦った日本人は根無し草になる…

そして、日本人の結束力を断ち切ることが出来る、と。

しかし、そもそも日本人にとって天皇は信仰上の神ではない。

昭和天皇が人間宣言をためらう理由は無かった。

そして、陛下のお考えで、その冒頭に“ある声明”を加えようと決意された…

日本の『根っこ』を見抜いた昭和天皇

1946年1月1日
GHQの命令で『新日本建設ニ関スル詔書』(後に、天皇の『人間宣言』と呼ばれる詔書)が発表された。

「自分は神ではない」と宣言される昭和天皇の様子を見て、マッカーサーは満足した。

ところが、詔書の冒頭は『人間宣言』ではなく、陛下の“ある声明”から始まる。

画像2

「遡れば、明治時代の初めに、国是に“五箇条の御誓文”を掲げた」
「この素晴らしい明治天皇のお考えに、何を付け加えることがあるだろうか…」
「私たちは、この考え方に沿って、新しい国を築いていこう」

そして、改めて“五箇条の御誓文”を1条ずつ述べられた。

これが、陛下が加えた声明の正体だった。

では、この声明に隠された陛下のお考えは何だったのだろうか?

その理由について、陛下は当時を振り返り、

「高圧的なアメリカの前に、日本の国民は圧倒され混乱していた。しかし、日本の民主主義は、決して海外の輸入品ではないということ。そして、国民が日本の誇りを忘れないように発表することにしたのだ」
と述べられている。

つまり、明治時代、更にそれ以前から日本には民主主義が根付いている。

そのことを忘れてはいけない…と、昭和天皇は国民に知らせたのだった。

こうして、敗戦の悲しみに打ちひしがれていた日本だったが、眠っていた独自の“根っこ”を思い出し、取り戻した。

事実、各メディアは『人間宣言』を
「国民の平和と生活の向上、そして混乱が収まるよう願っておられる」(朝日新聞)
「陛下と国民は、信頼と敬愛で結ばれ、共にある」(毎日新聞)
と報道。

そして詔書では、『人間宣言』も最後に少しだけ述べられた。

当時、宣言の部分は誰も気に留めなかったが、“五箇条の御誓文”という日本のルーツを聞いたことで、国民はみるみる自信を取り戻していった。

こうして、GHQの期待を裏切る形で、マッカーサーの“お墨付き”を得て日本人の“根っこ”を回復させた『五箇条の御誓文』と『人間宣言』

更に、現地で国民を励ますため、昭和天皇は全国御巡幸に出られた。

最初に訪れたのは、日本の食料生産のカギを握る、神奈川県川崎にある肥料工場。

ここは、GHQの拠点に近かったこともあり、米兵やアメリカの報道陣は昭和天皇を引っ張り回し、様々な要求をした。

しかし、陛下は嫌な顔1つせず、それら1つ1つに応えられた。

そして、工場の説明を熱心に聞き、職員を直接励まされた。

そのお姿を見た工場の職員の士気は上がり、生産は大幅に増えたという。

さらに、全国各地の炭鉱にも自ら潜られた陛下。

坑夫たちは、万歳を控えるように申し渡されていたが、抑えることが出来なかった。

激励を受けた炭鉱の中には、出炭量が5割近く上がった炭鉱もあったという。

そして、広島を訪れた昭和天皇は、初めて直接お言葉を述べられた。

「われわれは、この犠牲にすることなく、平和日本を建設して、世界平和に貢献しなければならない」

原爆を落とされた広島の市民は、焼け跡の広場に7万人が集まった。そして、「万歳!」と声を枯らし、その声が止むことはなかった。

「人間天皇のお披露目」のつもりだったGHQは、広島での国民の様子にうろたえ、巡行中止を命令…

天皇の下で結束し、根っこを回復した国民は、GHQの思惑を打ち破り、復興のエネルギーを得たのです…

このように、昭和天皇が日本の“根っこ”を見抜き、日本が守ってきた民主主義を国民に思い出させたこと。

そして、GHQにも臆することなく、それを国民に共有しようとしたこと…

戦後の目覚ましい復興のエネルギーは、ここから生まれました。

大日本帝国が崩壊して、初めて国民は間近に天皇を見る機会を得ましたが、そこで見たのは、人々と共に悲しみ、涙を流す姿でした。

人々は、天皇が自分達の悲しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じる。

そこから国民全体で頑張ろう、という気持ちが芽生えていったのです。

事実、皇室には古代から『国見』という儀礼があり、この『国見』では、天皇が各地をご覧になり、豊かな国づくりを誓われました。

こうした皇室の祈りが、古代だけでなく現代の日本をも支えているのです。

そして、日本には対外的危機を乗り越える共通パターンがあります。

我が国では、皇室を中心として一致結束することで、危機を克服してきました。

もし、不幸にして負けた後も、皇室を核として国民が力を合わせる。

それにより、国家の滅亡や衰退を防ぎ、新しい飛躍を成し遂げたのです。

実際、過去の日本は元寇や黒船来航、日清・日露戦争など、何度も大きな危機を経験してきましたが、その度に皇室を中心に結束し、乗り越えてきました…

これが、建国以来守り続けてきた我が国の在り方だったのです。

しかし現在、こうした歴史は学校でも教わる機会がありません。

危機に際して、国民全体で結束力を発揮してきた日本人の記憶は、戦後の自虐史観に基づく教育によって奪われ、形だけ真似した欧米流の個人主義が植え付けられるようになりました。

さらに、教育の在り方が変えられてしまったことで、「天皇を中心とする共同体」という伝統的な日本の在り方も忘れられています。

実際、現在でも『皇室への関心』は国民全体の7割を超えていますが、10代~20代に限れば50%を切るほど…

終戦直後、GHQが試みた『皇室』と『国民』の分断。

それから75年以上が経ち、時代が下れば下るほど、その効果をじわじわと現してきています…

更に、皇族の減少に伴う皇位継承問題の議論は、いつまで経っても進むことがなく、

「このままでは、皇室は消滅する」と、有識者がこぞって警告するほど…

政治家たちは、皇室に関する議論を先送りにし、あわよくば外交カードとして政治利用することも厭いません…

将来、このまま皇室への関心が薄くなり、国民が天皇に目を向けなくなれば、日本人の拠り所だった皇室は失われてしまうかもしれません…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?