過去の懺悔
こんにちは。
ayです。
近頃、韓国の芸能界で「いじめ問題」が浮上しているのを知っていますか?
韓国では学校でのいじめ「校内暴力」、アイドルグループ内でのいじめ=「グループ内での暴力」など、過去の問題から最近の問題まで関係者に暴露をされる形で10代から20代の若いアイドルたちが「いじめの当事者」として社会の批判を浴びています。
その中には私がデビュー前から応援していたアイドルもいて、少し複雑ですね。
今回はそれに関連して「いじめ」特に「学生時代のいじめ」について書いてみようと思います。
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「いじめ」
もちろん何があろうと故意に相手を傷つけるような行動や言動は許されるものではありません。
これは大前提です。
でも。
いじめの加害者になってしまった側も、いつかその出来事を振り返り、自分自身の行動を心から顧みることができたとき、いくら幼い頃であったとはいえ自分の犯した過ちによって自分自身を傷つけ続けるはずです。
いじめって、何もないところには起こらないと思うんです。
家庭で問題を抱えていて、その不安感やストレス、社会に対する不信感の矛先が誰かに向いてしまう。
相手や周りに価値のある存在であると認めてもらえずに、その感情をそのまま相手に仕返しという形でむき出しにしてしまう。
いじめの加害者も、誰かによって傷ついた、つけられた人間である場合も多いと思うんです。
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大人になっても、社会に出ても、会社で働いていても、親になっても「いじめ」って存在しますよね。
大人になってからの「いじめ」は幼い頃の「いじめ」とは少し質が違うと思います。
幼い頃、誰かが誰かを「いじめ」るのは、周りの大人の責任も大きいと思います。
幼い彼らは、自分の中で抱えきれなくなった感情の矛先をどこに向ければいいのか分からず、信頼していた大人を頼ろうと思ってもいなかったり、裏切られたり。
そうやって挙げ句の果てに、自分を傷つけた相手や周りにいる自分より弱い誰かを傷つけることで自分を守ることしかできなくなってしまう。
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世の中は他人には無関心だから。
「いじめをした人」=「悪者」
「いじめられた人」=「かわいそうな人」
そういう目でしか見てくれません。
そんな世の中だから「いじめ」はなくならないし、この瞬間にも「究極の選択」をする人、そこに向かっている人がいるという現実に対して社会がもっと関心を持つべきだと思います。
社会人になれば社会の中で生きていくのに精一杯で、学生社会のことなんて振り向く機会なんてないですよね。
そんな中で学生たちは置き去りになっていく感覚もあるのです。
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私は今、学生生活を終えて社会人として歩き始めたばかりだから学生社会に目を向ける機会があるのですが、これからこういう機会はなくなってしまうのかなと思うとすでに自分に対して失望しますね。
今日このnoteを書いたことを忘れずに、いろいろな世界に目を向けられる人間であることを目指したいと思います。
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タイトル「過去の懺悔」
私も過去、「いじめの当事者」だったことがありました。
市の教育委員会にまで話が行くとか、親が登場するとか、それほどの大きい事態にはなりませんでしたが、紛れもなくあのときあの場所には「いじめ」が起きていた。
頼れる大人であった先生は、ろくに話を聞いてくれず、幼かった心は傷ついた。
私自身、その記憶を遡るとまだ傷が鮮明な部分も残っているし、とてつもないトラウマと罪悪感、自己嫌悪、いろいろな感情にさいなまれるときもあります。
でも私は、過去のことはしっかり受け入れて今いられるのです。
だからそんな自分に負けないように、今を精一杯生きていこうと強くなろうとしています。
というわけで、今日は「いじめ」について書いてみました。
ちょっと自分的にこの話を書くのは勇気がいることでしたが、書いてみることにしました。
では。
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