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同じ話を何度もする人

同じ話を何度もする人は、他者にあまり敬意がないように感じてしまう。目の前にいる相手は誰でもよくて、その話をする自分が重要なんだろうと。同じ話を繰り返す人は、罪悪感なく饒舌に、何かのスイッチが入ったように、出来上がったストーリーを機械的に語り出す。その時間は自己完結した話者中心世界であり、聞き手は不在だ。聞き手は分別の負担を強いられ「その話は以前にしていたよ」と口を挟む不粋さを飲み込まざるを得ない。

そうした会話には2つの問題がある。ひとつめは情報創造性の欠如だ。会話の醍醐味は双方向性と偶発的な情報創造であり、相互の関心に基づいて差し出された情報が上手く絡み合い、膨らんでいく過程にある。それは即興性を伴う現在時制の行いだ。一方、会話に「同じ話をする人」が紛れると、会話の全体構成の中に過去時制の時間が生まれる。VTRが流れ出すように、他者にとっての既知情報が差し出される。テレビ番組のワイプに同じく、分かりきった結末に対する分かりきった反応をして場をやり過ごさねばならない。もちろん話者も「一々誰に何を話したか覚えていない」と言うだろうし、聞き手も「一々誰が何を話してくれたかを覚えていない」とも言うだろう。けれど話者の話に真剣に耳を傾けている一部の人たちにとっては、同じ話をされることに、聞き手への敬意の欠いた不快さを覚えるかもしれない。ふたつめの問題はまさにここにある。相互の関心と話量のバランスに心を配り、公平性が守られた会話こそ健全だと思う。しかし「繰り返される同じ話」は、既にその情報を知っている聞き手にとって関心が低い内容だ。言い換えれば情報価値の低いものを平気で差し出してくる不作法さに、敬意の至らなさを感じるのだ。

同じ話を繰り返す人は、根本的に「ひとりよがりのコミュニケーション」が染み付きがちだと思う。例えば他者が話をしているとき。自分が話したい話と関連性あるキーワードが出てきたら、無自覚に引き出しから「ストーリー」を持ち出してきて、話の流れを横取りする。タチが悪いことに、その後、話を本流に戻そうともしない。もちろん本流を太くさせるSupporting information提供の場合など、価値ある脱線も往々にしてある。それは話し手への敬意に満ちた振る舞いであり、全体感に基づくものだ。正すべきは、自己中心的に行われる話題提供であり、他者への敬意に欠いたひとりよがりなコミュニケーションだ。特に高齢男性はその傾向が強い気がする。話を聞いてもらいたい想いが強すぎるあまり、聞き手の関心や状態を蔑ろにした話の仕方をする人が多い。

会話とはある意味相手の貴重な時間を奪う行為だ。いかに時間の価値を最大化できるか意識せねばならない。その意味で「同じ話を何度もする人たち」は、コミュニケーション作法だけでなく、時間認識にも省みる点があるのかもしれない。

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