見出し画像

ゴミと未来

ぼんやりとyoutubeで動画をみていたら、落合陽一さんへ宛てられた『日本の未来を考えて下さるのはなんでですか?』 という質問に対し、落合さんが「え?みなさんじぶん家ん中にゴミとか落っこってたら拾うでしょ?」と言っていた。

家の中のゴミ。
部屋が散らかっているのは心のあらわれだ、とはよく言うが、
わたしの部屋は、落ちているゴミが、そのままになっているときすらあるので、日本の未来を考えるには意識が足りないのだろうなと思う。

人が来るとなると急に片付けだし、突然「私は気をつけている人だ」というアピールをしだす。
それは見栄とかいうレベルでなく、そもそも人間としての存在、消滅しかけの社会性を保つためなのだろうと思う。

ただ、年に数回、だれも部屋にこないタイミングで「なぜこのようになっている?!」と、突然スイッチが入ったかのように部屋を綺麗にする日がある。
まるで今までの日々を「理解不能だ」とでも言うように。否定しながら「こちら」の私の方が正常ですよと言わんばかりの態度で(そんなあなたは今までどこへ姿を隠していたのかと思う)掃除をする。
それがふしぎでならない。

もともとだらしがないのは仕方がない。
でも「みなさん家の中にゴミがあったら拾うでしょ」という言葉を聞いて、それができていない自分がいて、頭の中はいつも散らかっていて、
散らかっている頭の中にはいつも自分以外の人間の声がささやいている。
そしてそこにはまだケアされていない心があるんだと思う。
ひとはだれもがケアの途中にある。

ときどき、他者が無意識に自己否定的な解釈をしている様子を見る。
そんな時、「あなたが思ってるよりもあなたはめちゃくちゃえらいしどうしたらすばらしさが伝わるのだろう」と思うが、
本来だったら自分にも本当はそれが言えるはずであるのに、

でも外に向かっては「私はなにもできていないので」という態度を取りだす、防衛のために。
でも、とうとうそれは本質的には自分を守ってることにならないことにも気づいてしまい、
ではどうするの?と。
落ちているゴミを拾う?そのままにする?

そんなことを考えながら、バスで移動していたら、アパートから出てくるバイクの姿が見えた。
なぜかそこから、その一日、まったく自分には関係ないだろうひとの暮らしがいくつも見えてくるような気がした。
無数の窓、無数の扉、無数の集合住宅、無数の家。
無数の車、無数のバイク。
街を歩いて、すれ違うひと。
知らない人の顔。

そのどれかに、
自分の理想とする暮らしというものがあるかというと、
それはないことを知っている。
理想とする居場所は誰かが叶えているものではない。
比べようがないし、誰かになりたいなんて思えない。
ではどうしてこんなに、自分はなにもできないとか、思い通りにいかないと感じてしまうのか。
これだけ考えているつもりでも、まだ無数の他人の生活の中に、
私の理想をかなえている存在の幻想をみているのかもしれない。

毎日をちゃんと楽しみなよ、と
友だちに言われたことを思い出す。

それは、「人間がどうして妊娠するのか、妊娠する身体をもってしまった自分が、どうその身体をとりあつかうのかがわからない」と今年の春とくに思っていた時、
ちょうど川上未映子著 /『夏物語』を読み進めていたこともあり。
子どもを産むということについて、ただの手放しの肯定が自分にはできない可能性を考えていたときだった。
(もし少しでも同じようなことを考えたことがあるかたは、おすすめです『夏物語』。少なくとも私はそのひとつのケースというか、さまざまなことを考えるために、自分の人生に必要な読書体験だったと思います)

なぜそのことをすごく考えこんでいたのかは、正直いまとなってははっきりとは覚えていないのだが、
やはりじぶんと親との関係性とか、簡単には説明できない、折り合いのつかないものを見てきた上で、自分も30代となり、同じように私も母親になるというイメージをしてしまい、
本来「同じ」なんてことは決してないのに、自分と家族との関係を繰り返す(どちらの立場でかも曖昧だが)可能性が急に怖くなっていたのだと思う。

わたしは繰り返さないぞ。
と、いまは潰れてしまった人気のないカフェで、
コーヒーゼリーのパフェを食べながら突然なみだを堪えながら決めたあの日が起点にあるのだとは思う。

ただ「くりかえさないぞ」というのは、べつに「産まないぞ」ではない。
でも、「なんとしてでも子どもを産みたいぞ」というわけではない。
でも、「そろそろ人生のことについてもっと考えていかないといけないのではないか?」
「過ぎてから何か、後悔するかもしれない?」

そういうことをぐるぐると考えていたのだった。
そのぐるぐるを、ぐるぐるのまま友人に話した(よくみな聞いてくれていたなと思う)ことに対して、
「もともと授かり物ともいうし、そこまで未知のものに怯えず楽しく生きていたらいいのでは」
とあまりにもあっさりした、
でも言い換えればとても軽やかなことばがかえってきたのだった。

私はなにかを楽しむことにも罪悪感を伴う。
遊んでいると背後になにか冷たいものが迫ってくるような気がして、
それはどこで覚えた脅迫なんだろうね。

夢中になってできることこそ伸ばすべきものだ、とか
得意なことをやって生きていこう とか
楽しいことしかせずに生きていく とかいうのも素質が必要で、
比較的「楽しい」と思われがちな領域の仕事をしているときであっても、かちこちの身体にもどってしまうときはやはりある。

そういう「我にかえる」みたいな瞬間によって、
できなくなった仕事もたくさんある。

かつては、明るいテキストを書くことも技能的にはできていた。
お金になるテキスト。1文字いくらで買ってもらえるようなテキスト。商売けのある、感動を売りにする、号泣させる、笑わせる。
でも、それをもはや今は「楽しい仕事」として引き受けることはできない。思考停止して手を動かすようなやりかたが、30代になって難しくなってきた。いや、逆に、どうしてまだみんなあのような商売ができるのだろうとまで思っている。うっすらとした軽蔑。

それだけでなく年々、わがままになっていっていると思う。
言葉を持ち、考えを持ち、
これは嫌だ、と思うようなことことも増えている。
嫌いな大人や、なんで?と思うような制度も。
できるだけやわらかくいたいと思っているのに、どうなってしまうのだろうな。

そうやってもやもやしていることそのものが、そのうち劇として生まれるのかもしれない。
頭の中はゴミであふれていて、それが未知なる未来につながるのかもしれない。

欲を言えば、
常に部屋がみちがえるほど綺麗になることが究極の理想である。
それが幻想であることも知っている。
でも、自分のために少し拾ってあげることもしてあげたいと思う。

この記事が参加している募集

人生を変えた一冊

活動を続けていくための力になります。ありがとうございます…!