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現代の小説:小説講評サービスの感想(ぎゃふん!)


◯ンサーズとかコ◯ナラとかのクラウドソーシングサービスでよくあるやつです。6万字弱の小説を読んで頂きまして無事玉砕。ですが心は折れてはいません。また一から書き始めるだけですから(涙目)。
本稿では講評サービスの感想と、出品者である編集者に聞いた「現代の小説」について書いて参ります。小説を書いている方、とりわけ新人賞を目指している方のお役に立てれば幸いです。


どんなサービス

講評とは「指導的な立場から、理由などを述べながら批評を加えること」と辞書にあります。ですので赤の他人に上から目線でごちゃごちゃ言われます。不快な思いをすることもありますよ。いやー、ろくに考えもしない奴(お前何様的な)にずけずけ言われてそれに耐えるのは、それなりの心構えが必要です。自己肯定感低めの方は、利用するのであれば事前にちゃんとやさしくしろよと伝えることをおすすめ致します。


誰が読むの

今回お願いした出品者は現役の編集者で前にも見て頂いた方です。大変誠実な方で、筆者はケチョンケチョンに殺られましたが今でも信頼しております。本当に誠実な方で、世知辛い世の中、こんな方と出会えるとはラッキーだったぜ。と今でも思っております。あんなゴミ(今となっては)を読んで下さり感謝しかありません。


なんぼやねん

6万字弱の純文学作品。講評の他にワード添削というオプションも購入しました。ワード添削とは何かというとワード形式の原稿にハイライトを引いてコメントを書いてくれるサービスです。文章のねじれや誤字誤用の指摘、その他出品者が読んでいて思ったこと(「笑。面白い」とか「なんとなくわかる」とか「ここいらね」とか「頭悪そー」などなど)が書き込まれてありました。今回は役に立たないどうでもいい馬鹿みたいな指摘ばかりだったのですが、出品者も人間ですからムラがあるのはしょうがない。ただ「頭悪そー」だの「IQ低そう」だの「町民」のくせに「知性高め」だのと書かれると、さすがにおいコラお前何様だよ、てんめコノヤローとか思うわけですが、まあそういう出品者だというのは折り込み済みですので聞き流せばいいわけです。が、やっぱりてんめコノヤローと思うわけですよ。ええ。

え? なんぼやねんって? 渋沢栄一3枚くらいでした。ああ、まだ諭吉でしたね。でもまあ本稿では以降、出品者を栄一と呼ぶことにします。てんめコノヤローはさすがに失礼ですからね。栄一に意味はありませんが一言だけ宜しいでしょうか。栄一さあ、お前人気サービスだからって何調子こいてんだよ、気をつけな。傲りは滅びの前兆だって村上春樹も書いてたぜ(嘘)。


講評の内容は

添削と同様、Wordファイルで納品されました。結構なボリューム。読み応えはあるが、明白な誤読✕2、頓珍漢な指摘と、栄一、じっくり読み込んだのかな(?)と違和感を覚える内容でした(栄一鼻ほじりながら斜め読み疑惑:理由は後述)。冒頭に全体の感想がふわっと述べられ、割と褒められたあとで「では改善点を」と続きます。お褒め1割、9割改善点といった感じですね。ぜんぜんあきまへんわって感じでしたね。まあ我ながら書いていてつまらんと思っていたので頷くことしばしば。具体的に何がいけないのかが明快に記されてある。筆者の小説は「観念論」的で「禅問答」じみたセリフがかったるい、そんな感じ。でも納得(これが大事)。栄一、ナイスだぜ。遠慮なく駄目なものは駄目だとバッサリ。清々しい。講評を半分くらい読んだ時点でこりゃ没だわとわかりました。同時に、栄一にぜんぜん伝わっていないこともわかりました。はい。ぜんぜんまったく、同じテクストを読んでいる感じがしないのです。だがもう没は決定なので、これ以上講評を読む必要も、考える必要もないのですが何だかモヤモヤがありましてですね。それは何かと申しますと、栄一、どんな風に読んでんのって疑問。ちょっとだけ愚考致しました。


栄一とかいう業界トップクラス(自称)編集者の小説の読み方

プロフィールによるとベテラン編集者です。仕事として小説を読むわけですが、内容の明確な仕事には明確な形式(=方法)があるはずです。そこに栄一の個性が加わる感じでしょうか。栄一にはこれまで何度か見てもらってますが、指摘はいつも具体的です。抽象論に終始する人もいるので、具体的であるということは栄一の特徴といえるかも知れません。が、逆にいうと栄一は抽象論が苦手といえるかも知れません。以前、メタファーに気づいたら教えて欲しいとお願いしたのですが見事にスルーでした。いや頓珍漢な箇所で「世界平和がテーマだとしたら」とワード添削にあり、筆者は首を傾げたものですが、その作品はパワーバランスが崩れた世界が舞台(馬◯でも分かるようにやさしく書いた)でしたので、栄一は「世界平和(お花畑?)」などといったのかも知れません。だとしたら、相当筋が悪い。ア◯です。プロの編集者なのに抽象化が苦手(?)なのかも。例えば今回の講評でも、時間を有限とみる人物と無限とみる人物とのやり取りを栄一自らわざわざ取り上げて、凡そ頓珍漢なことを指摘していたのですが、論点は有限か無限かなのは明白であるのに気づかない。この点を婉曲的に(とはいえ明瞭に)指摘したところスルーでした(おい)。編集者=読解力、または抽象的思考能力があるわけではないのですね。ハリウッド映画とか観てもメタファーに気づかないんだろうな。それと工務店の作業員を「工務員(ナンダコリャ)」と呼んだり拘置所での面会シーンを「傍聴のシーン」といったり。読めてないんですよ。頭悪いだろ。お前さ、そんなんで批評とかどうすんだよ。ああもう(ダメダコリャ)。村上春樹も結構だがたまには哲学書でも読めよ。で、自分の頭でものを考えるんだ。


抽象と具体

どちらかが欠けていてはいけません。片手落ちです。全体と部分と言い換えるとわかりやすいですが、全体という前提(依って立つ理論や解釈)があって初めて個別具体的な指摘が成立するのです。このあたりが前述した、栄一、じっくり読み込んだのかな? という違和感です。あと栄一、頭の悪いキャラクターが嫌い(栄一の個性?)なのですが、知性がない、馬鹿みたい。IQ低そう。と脊髄反射の如し。馬◯は人を馬◯だと言いたがるもの。わかりますとも。同属嫌悪ですね。栄一、お前さ、投影って防衛機制知ってる? あと端的に不快なんだよ。分かる? たかが編集者の分際で、お前何様? あんま調子こい……おや。話が逸れましたね。
プロの編集者の知的レベルの高低はどうでもいいことです(低くて残念!)。脊髄反射の話でした。
小説を読むのが仕事の編集者も脊髄反射的に読む形式、方法があるのではと思いまして、講評に「現代の小説は〜」とあったので栄一に、お前さんのいうその現代の小説ってなんなのさと尋ねたのですね。すると誠実な(皮肉ではない)栄一は自らの手の内を明かしてくれました。ようやく本題です。


現代の小説by栄一

現代の小説とは簡単にいうと主題やストーリーの「わかりやすさ」と「読みやすさ」を前提に、誤読することなく一読でわかるように書かれたものであり、脱線は最小限に、ストーリーを優先し、作者の主張は控えめにするのが作法らしい。「わかりやすさ」と「読みやすさ」については一言も触れていないので自明だと言いたいのか、あるいはそれを嗅ぎ分けるのが編集者の暗黙知なのかも知れない、とは栄一ではなく筆者の意見ですが、「現代の小説」ってペラッペラですね。興醒め致しました。こいつが言っているのは芸術の話ではありません。商品の話です。続けます。
現代の小説は作者の表現よりも読者ファーストがデフォルト。広い意味でメディアの役割を担っていた昔ながらの小説とは違い、現代の小説はエンターテイメントという小さな役割を担っている、実験的な作品も存在するが市場は小さい(例外である、故に考慮しない)、などなど。それなりの長文で、栄一自身の言葉でいえば「退屈な文学論」が返って参りました。
繰り返しますが栄一、誠実ですね。飾り気のない誠実さです。「退屈な文学論」の内容のなさを曝すのもそうですが、ペラッペラの「現代の小説」の条件を参照に脊髄反射的にビジネスとして小説を読むのが、自身の出品している講評サービスであるということも曝している。そうです。講評サービスとは資本主義社会におけるありふれたビジネスなのです。出版も勿論ビジネスですので市場を無視するわけにはいきません。
資本主義の本質はマネタイズです。新人賞も然りと考えるべきでしょう。出版社からすれば発掘した新人をいかにマネタイズするかという視点も大事ですよね。当たり前のことではありますが、応募する側にもその自覚があってもいい。とはいえ、いわゆる「傾向と対策」は筆者としては疑問しかありませんが。
最後に、文芸新人賞について、栄一はこう教えてくれました。
表現には狭さと縛りがある。「現代の小説」という限定の中で、作者がいかに自由に振る舞えるか、それがオリジナリティであり、作者のオリジナリティを見るのが文芸新人賞であると。
いやー。栄一、お前の「文学論」は徹頭徹尾退屈だったが、グッジョブだ(上から目線のお返し)。講評よりは良かったぞ(最後まで読んでないけど)。お疲れ。ゴー・ホーム・クイックリーだ。3万円握りしめて、ニルス少年よろしくガチョウに跨ってノルウェーの森に帰るんだ。やれやれ。これからも良質なサービスの出品者として誠実であって下さいね! あと商品説明に芸術作品としての小説は理解できませんと断っておくとなお良しだな。お前の取り柄は誠実さだ。そんだけだぞ(心許ない)。


編集者栄一
知的さ:☆☆☆☆☆
誠実さ:★★★★☆
尊大さ:★★★★★


未来の小説

小説に未来はないと筆者は改めて思いました。これから市場が大きくなることはないという意味です。小説という表現形式はなくなりはしないでしょうが、脊髄反射的な編集者の仕事はAIが代替するでしょう。「現代の小説」なんぞク◯喰らえと言いたいところではありますが、現実は正解です。ですがせめて抗いたいとだけ述べて終わりと致します。ペラッペラな現代の小説ではなく、文学にしかできないことは必ずある。断言しよう。文学とは抵抗である(見切り発車)。

お読み頂きありがとうございました。小説を書いておられる方々の明るい未来とご健闘をお祈り致します。


ちなみに脊髄反射とは

身体の何処かに刺激が加わると通常は信号が感覚神経から脊髄を介して脳に伝わり初めて「痛い」となります。「痛い」ところをさするために手を動かそうとすると今度は反対に、脳から脊髄、運動神経を介して筋肉に命令が伝わり、という回路をへて人は手を動かします。脊髄反射の場合は脳を介しません。インプット→脊髄→アウトプットと回路がシンプルです。「かっけ」って聞いたことあるかもですが、膝をハンマーでこつんとやると膝下がびよーんてなるやつです。脳をAIとしますと、脊髄反射は汎用性のあるとっても簡単なプログラムです。中身はありません。からっぽ。すなわち、知性ゼロ。
尊大さもまた、馬鹿の異名である。