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エッセイ:見えない銃


弱い者達が夕暮れ さらに弱いものをたたく
その音が響きわたれば ブルースは加速していく
見えない自由が欲しくて
見えない銃を撃ちまくる

『TRAIN-TRAIN』ザ・ブルーハーツ


大手自動車メーカーによる「下請けいじめ」がちょびっと話題となっておりましたが、別段驚くでもなくまあそういうこともあるやろ、ぐらいに受けとめている方も少なくないかと。いじめは子どもの世界に限らず、大人の世界にもあり、人がいるところであれば世界中何処にでもあると断言していいでしょう。いじめが当たり前である世界において、強者であるということは、生存戦略として「正しい」。やられないためには強者である必要があり、強者であるためには弱者の存在が不可欠である、という構造が、人の世にはあるのだと思います。
以下、経済と政治について少々。お付き合い頂ければ幸いです。

愚かな強者

いじめという構造があるのは、人と人との関係の根底には必ず力関係があり、力関係は不変ではなく常に移ろうものだからですが、盛者必衰、愚かな強者は潰える一方、賢明な強者はこれを肝に銘じ、強者であり続けるために、ライバルを蹴落とし、弱者を弱者のままであらしめる。かつてこの国は世界第二位の「経済大国」でしたが中国に抜かれ、ドイツにも抜かれましたね。


https://toyokeizai.net/articles/-/711366


言うまでもなく、強者も弱者も絶対ではありません。強者という自覚もなく30年もボケーとしていれば、自ずと弱者と成り下る。まあ、そうなりますわな。



失われた30年とかいう

経済的な「成長」の果実たる豊かさが失われた30年を省みて、無為を憂うではなく、むしろ「成長」なんぞせんでええ、ゼロ成長でええねんなどという悟りすました言説があるようです。アホかと。お前一人だけにしとけと。ぶぶ漬けでもどうどすかといいたい。いや一昨日おいでやすと。諸外国は軒並み「成長」しているわけですから、私たちは相変わらずでも、外国の人びとは相対的に豊かになり、現に「格差」が生じているのですが、はい。一目了然でございます。以下は名目(物価変動を考慮しない)GDPですが、30年でアメリカはざっと4倍となり、ニッポンは横ばいです。物価変動をいれるとアメリカは2倍、ニッポンはやっぱり横ばい(1.2倍)です。


https://ogawa-tech.jp/2021/12/17/world-economy/


https://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/154.html


弱国ニッポン

ざっくりいいますと、アメリカ人(じゃなくてもいい)はニッポン人よりもここ30年で倍近く豊かになったわけですが、逆にいえばニッポン人は貧しくなった。昨今、材料費の高騰、物価高、インフレなどという声を聞きますが、ここ30年、ニッポンはちーっとも物価が上がっていません。その結果が意味するところは、海外から見ればニッポンはコスパがいいということでして、ニッポンサイコーとかいう外国人旅行者を取り上げてドヤ顔しとるそこのテレビのコメンテーターさんさ、誇らしいことじゃないぞ。弱くなったってことなんだぞ。そんなんじゃコメンテーターってアホなんって思われてしまうぞ。
街は清潔で治安はいいし、人は親切で食べ物は美味しい、医療技術は素晴らしく、コンビニは何処にでもある、そして何といってもなんでも安い。そりゃサイコーでしょうよ。モノが安い、サービスも安い、不動産も安けりゃ、企業も安い。安いとは、買い叩かれるということだといっていいのですが、弱いことだと捉えるべきでしょう。ニッポンの安いものにはニッポン人も入っております。熊本に半導体メーカーの工場ができて地元が沸いているとか。沸くのは沸かないよりはいいのでしょうが、外国企業の工場が来て沸くってさ、途上国じゃないですか。ていうかですね、半導体ってかつてはニッポンが世界シェアナンバーワンだったんじゃなかったでしたっけ。アメリカさんという強者に脅され屈するまではイケイケだったんじゃなかったでしたっけ。

やあ、ジャップ。そこまでだ


見えない銃

アメリカは同盟国でありますが、同時に競争相手でもあり、その銃口はこちらへ向けられているわけですね。ナイーブなニッポンさんには見えない銃ですが。
アメリカに限らず、「健全」な国家であれば、自国以外は敵と成りうるという自覚のもとに、この見えない銃が見えているはずです。銃口はこちらに向けられており、故に、、こちらからも銃口を向けるべきなのですが、ニッポンって内向きですから、自分のこめかみに向けているのかも知れません。相手を傷つけるくらいなら己を傷つける方がまし的な、奇妙な、倒錯した平和主義。行き着く先は、自殺でしょうかね。
平和ボケって言い方が好きではないのですが、平和のために争いを避ける、争いを避けることが平和のためであるというのは思い込みでしかありません。力が均衡していれば争いは生まれない。誤解を恐れずにいいますが、平和を求めるとは力を求めることであります。強者とは力と共にあり、力と共にある者だけが平和を享受できる。


そろそろまとめろや

強者であることが生存戦略として「正しい」と申しましたが、弱者があって初めて強者は強者たり得、そのために、強者は弱者同士を争わせる、とは陰謀論ではありません。分割統治を想起するまでもなく、日常的に、「君の代わりはいくらでもいる」的な強者のセリフを誰しも耳にしたことがあるかと思います。「下請けいじめ」も同根でしょうが、弱者を競争に曝すことで弱者から連帯を奪い、バラバラにし、弱者の矛先を強者ではなしに弱者に向かわしめる。故にいじめはなくならず、差別も格差も同様、戦争もなくならない。
戦争? 格差? いじめ?
まあ政治家がなんとかするやろ、という途方もない馬◯な大人に遭った(もはや事故)ことがあります。政治に関心が持てないという方もいらっしゃることは承知しておりますし、批判するつもりもありません。ただ政治マターはこの国で暮らす誰にとっても他人事ではないと申し上げたいのですね。

政治とはその集団にとってより善いありようを決めるということで、政治主体とは政治家ではなく集団の構成員たる私たちであり、私たちもまた国際社会において、「いじめ」の対象になりうる。いじめられないためにも、戦争に巻き込まれないためにも強く、豊かであるべきなのは自明ではないでしょうか。そのために必要なのは外へ向けた連帯であり、「下請けいじめ」のような内向きのいじめではありません。
あらゆる銃口はつねに敵に向けられる。自国民同士、見えない銃を向け合っているようでは、本当の敵を利するだけです。