見出し画像

「つながりすぎた世界」における、「適切なつながり方」を考える

SandSの4人で共通の本を読み、それを題材に語り合ってBreak Biasした視点から主観的に未来に対する思考実験を行ってみよう、という試みをやってみました。

今回の対象図書はこちら。

それぞれの気になったポイント

高井:著者の語り口としては割と「人間が進むのはこの方向でいいのだろうか?」っていう悲観的なトーンだったけど、個人的にはいずれも技術や性能の問題であって、テクノロジー自体が倫理面や人間性としての危機につながるとは感じなかったな。
特に「死」は興味深くて、ここで「死ぬ権利」の是非自体を問いたいわけではないけど、他の性や食に比べてそもそも議論すら憚られるほど忌避されるのはなぜなんだろうか、人間として不可避で、目を背けるわけには行かない「死」というものに対して、僕らはどうしたら建設的な議論ができるようになるのか、ってところは議論してみたいところ。

佐々木:「自分の思い通りになるパートナーが欲しい」も、「ヴィーガンだけど肉っぽいものを食べたい」も、「子どもが欲しいけど自分では産みたくない」も、「自分の死をコントロールしたい」も、全部自分本位の欲望だなって感じた。それも大事だけど、自分以外をもう少しだけ考えられるようになるにはどうすればいいのか、テクノロジーっていう戻れない流れの中でそれとどう付き合えばいいのか、心地よい状態ってどうあるべきなのか、を考えてみたい。
死については、身近な人が亡くなったときに「死ぬんだ」って突きつけられたけど、それ以降はそんなに考えることがなくて。やっぱり怖いし、果てしないし。だから死にどうやって向き合えばいいのかはひとつのテーマだよね。

浅見:ちょっと総論っぽくはなってしまうんだけど、性・食・生・死という誰しもが持つ欲望や出来事に対して、当たり前だけど「いろんなテクノロジーの組み合わせなんだな」と思ったのが最初に思ったことかな。あと、個人的には「未来は明るくなる」と思ってる楽観主義者なんだけど、性・食・生・死のどのテーマも「今の課題」からスタートする話ばかりで、課題解決から入ると色々な価値観を持っている人がいる分軋轢を生むのは当然だから、同じテーマを扱うとしても自分だったらどうアプローチするかな、っていうのは考えた。
僕も死については、聞いた話で印象に残っているものがあって、目の前で自分の親しい人が死に直面しているときに延命措置するかどうかの決断を迫られると、やっぱり正常な判断はできないんだと。いくら仮にその本人が死を望んでいたとしても、家族や周りの人にとってはそうではないっていう葛藤もあって、このへんは難しいよね。

林:テーマとしては僕はどちらかというと死より生殖の方が重いと感じた。極論、性も食も本人がそうしたければそうすればいいと思うし、死もまだ自己決定権があっていいように感じるけど、生殖は倫理的に「好きならやれば」っていう自己決定では収まらないから。
あと、課題解決からスタートしてしまうってところは、スタートアップとしては大きなイシューを設定するのは仕方がないというか、あえてセンシティブな話題に結びつけて議論を巻き起こしている手法論的な側面もあるのかもしれない。

「つながりすぎ」問題

高井:せっかくこの4人で話すんだし、単なる本の批評じゃなくて、本の内容から飛躍してもいいから問いのある話をしたいよね。

林:そういう意味では、技術が進歩したことによって新しい問題が生まれて、それをまた技術で解決しようとするっていう態度自体を改めるって話はあるよね。

佐々木:欲望をテクノロジーで解決しようとして、それによって生まれた欲望が尽きないから、またテクノロジーで…みたいな話だよね。欲望を抑えなきゃいけないってのはあるのかも。

浅見:一方で、何か課題が発生したときにテクノロジー以外に何で解決するんだろうとも思うんだよね。話し合いとかで解決できるならもうしてるだろうし、それの新しい解決方法としてのテクノロジーがあるんだから、テクノロジーが全部悪みたいな話でもない。

高井:どうしたってテクノロジーの力学は否定しようがないよね。今もAI規制論とか出てきているけど、核兵器でさえ世界中でやめようって言っているのに持ち続ける国があるように、一度出てきてしまったテクノロジーをなくすことはできない。
だからこそ、0か100かじゃなくて、そのグラデーションの中でいかにコンヴィヴィアルなところに意思を持ってスタンスを取るかが大事なんだと思う。0か100かの話をしている限りは平行線というか、建設的な議論にはならないよね。

佐々木:テーマが大きすぎるとそうなるから、もっとフォーカスした方がいいんだろうな。

高井:さっきの自分本位の話と、自己決定権・自己責任の話は面白い問いだなと思っていて。確かに生殖とかはそれによって生まれる新しい人生と人権があるから簡単に一緒にはできないけど、極論、他人がロボットとセックスしようがクリーンミートを食べようがその人の自由だと思うんだよね。だけど、この本ではそれが広がると色んな人の人間性とか価値観に影響を与えかねないって警鐘を鳴らしているわけでしょ?自分ではない他人のことで怒っているみたいな話が世の中多い気がして。
今って分断や孤立が問題って言われることが多いけど、逆につながりすぎてしまっていることの方が問題なんじゃないかって思ってるんだよね。本来交わらなくていいのに、つながってしまったがために起こるコンフリクト。もちろん地球環境レベルに話を広げていけば全部無関係ではいられないのも確かだけど、無制限なつながりの拡大が資本主義の限界みたいな話と通じるところもあるとすれば、「持続可能な開発」と同じように「持続可能なつながり」っていうサイズもあるんじゃないかって。

佐々木:マイクロコミュニティとかフィルターバブルみたいに、つながりって少しずつ小さくなってきているんじゃない?でも、接続する小さなコミュニティや価値観自体は増えているから、つながりの総数としては広がっちゃっているのか。

浅見:ちょっと前までは、とにかく多くの人とつながろう、フォロワーが多いとすごいみたいな感じだったけど、最近だともうちょっとコンパクトになってきている気はしてて、ファンダムや濃いファンが1,000人いれば生活できるみたいに、小さいコミュニティの中でどれだけ密度高く過ごせるかにトレンドは移っている気がする。

林:つながりすぎの方が問題っていうのは正しいと思う。結局、分断が問題だっていうのは、全体につながりすぎちゃった結果の分断だから。危害を加えない限りは他人はどうでもいいって思った方がいいんじゃないかな。

佐々木:みんな干渉しすぎなのかな。

浅見:SNSの炎上とかワイドショーで芸能人の不倫ばかり取り上げるのもそうだよね。

高井:どこまで干渉すべきでどこからは干渉すべきでないのかって話だと、本人の死ぬ権利と家族の死んでほしくない思いとの葛藤は象徴的なテーマだね。

佐々木:前に終活について調べたとき、やっぱり残す家族に迷惑をかけたくないっていう心理が一番大きいらしくて、そういう意味だと例の安楽死マシンで死ぬっていうのは迷惑をかけない選択肢として挙がる可能性もあるよね。

林:やっぱりコピーライティングは重要で、「終活」って言うとポジティブにも聞こえるけど、本の帯に書いてある「簡単にこの世を去れる自殺マシン」だと意味合いは全然変わるし、セックスロボットも「ロボットの伴侶」って書くのはオーバーで、議論を呼び起こそうとしてる感じはある。

高井:確かに「ロボットの伴侶」や「バイオバッグ(人工子宮)」だとセンセーショナルだけど、すごく大事にしているペットのことを「この犬は私の人生の伴侶です」って言ったり、オストメイトとか他の人工臓器だったらそんなことないのはなんでなんだろうとかね。

それでもつながりたい?

浅見:さっきの干渉しすぎ問題で言うと、僕らの周りだともうあんまりSNSで発信とかしなくなってきてない?これってやっぱりつながりすぎちゃった反動で発信しづらくなってる気がするんだよね。昔は発信することでコミュニティ以外の人と知り合ったり、そこからまた新しいコミュニティが生まれたりしたけど、今ってみんなどこで友達つくってるんだろう、っていうのが気になって。

佐々木:友達つくるの、難しいよね。

浅見:そういう意味では、今回の本みたいにある程度メッセージがセンセーショナルだったりぶっ飛んでいないと目立てないっていうこともあるのかなって思って。つながりすぎ問題はあるんだけど、とは言えつながりたいってのもあるじゃん。

佐々木:今はみんなそれぞれ複数のコミュニティで複数の顔を持ってると思うけど、個人的にはやっぱりSandSみたいに同世代の人たちと興味あるものを話したりご飯食べたりっていうのが一番楽しいなって思ってて。でもやっぱりそういう関係を新しく築くのって結構時間かかるし大変じゃない。

林:それもあるよね。正直、深い友達をこれ以上欲しいかと言うとそうでもないかもしれない。人間関係の管理って言い方が正しいか分からないけど、例えば月1回面と向かって会いたい人の数が20人いたとして、それを100人にしたいとは思わないな。

高井:自然とそういう関係の人ができたら歓迎だけど、頑張って増やしたいかというと違うかもね。

浅見:ってことはさ、SNSでつながっている人が仮に500人とか1,000人とかいたとして、深いつながりって意味ではこんなにいらないって気付いたってことだよね。

問われているのはテクノロジーではなく使う側

浅見:例えば、僕ら4人が何か社会を変えるようなプロダクトを思いついて、やり始めたら徐々に仲間とか応援してくれる人も増えていって、よしこれで社会変えるぞって盛り上がってるところに、いきなりジャーナリストが来て「あなたたちがやっていることは社会に対して重大な悪影響を与えかねない」って言われてるみたいな状況だよね、この本で取材された人たちは。

高井:そうだね。まあある程度大きくなってくると一定程度反対する人たちも出てくるっていうのはあるんだろうけど。

浅見:だからプロダクトを開発している当事者からするとそんな声は気にすることないというか、結局は使う側のモラルだよね。プロダクトの問題というより、それぞれの倫理の話になる気がする。仮にバイオバッグが安全性も含めて完璧なプロダクトになってもならなくても、何歳でどういう人が子どもを作るのかってところとモラルの問題は切り離せないし。

林:自動車だってそうだよね。交通事故を起こす殺人マシンだからクルマを全部やめるべきって話にはならないし。

浅見:そう考えると、好きにやればいいんじゃないかっていう気がしてきたな。

高井:結局テクノロジー自体に良いも悪いもなくて、テクノロジー自体に警鐘を鳴らすのはあまり意味がないのかもしれない。結局使う人の価値観やモラルだから、じゃあそれに対してどう線引きするのか、どこまで口を出すべきなのかっていうところがポイントだと思う。

林:核だって発電に使うのか爆弾に使うのか、銃だって狩猟に使うのか人を殺すのかは全然違うし、どんなテクノロジーだって始めから人を殺すために生み出されたわけじゃない。それに一度出てきたテクノロジーを否定するのは無理だから、使う側の倫理やガイドラインをどうするかの方が圧倒的に重要だよ。結局のところ、他者に大きな迷惑をかけない限りはどう使おうが自由だっていうのがひとつの回答なんだとは思うけど。

「主語が大きい」問題

浅見:こう話してて議論の歯切れが悪いというかモヤモヤするのは、やっぱり本の書きぶりのせいもあるのかもな。ネガティブとポジティブのバランスが取れていれば色々考えやすいけど、結構ネガティブなトーンの比重が大きいから、最初から否定されちゃうと「まあそうなんだけどね…」みたいな感じになっちゃうというか。
色々話してきたけど、僕らのテーマとしてはやっぱり「つながりすぎ、干渉しすぎな時代の中でどう周りのことを尊重できるか」ってところかな?

佐々木:「弱いつながり」っていう話もあるけど、強くも弱くもない、第三の方向性を考える必要があるんじゃないかな。

林:野村さんのユナイテッドが絶妙なのは、野村さんのビジョンを共有できる人たちはつながっているけど、野村さんがやることに否定的な人はコミュニティに入ってこない。ちょっと違うなと思ったら抜ければいいっていう、それくらいが一番心地よい状態なんじゃない?

高井:多様性のパラドックスも同じ話だよね。「多様性が大事だ」と言う人は「多様性なんて悪だ」っていう人の多様さを認めないし、会社組織も多様性がある方が強いって言うけど、あくまでもその組織の価値観を共有できる前提の中での多様性でないと成り立たない。それくらいがちょうどいいつながりのつくり方なのかも。

林:やっぱり単位というかスケールを間違えると良くないよね。最近の「大きな主語」問題にもつながるけど、人工子宮の話も「全人類を揺るがす大きな事実」って言うのと「子どもが欲しいけど自分の子宮で育てられない人に対する希望の光」って言うのでは全然違うよね。後者だとポジティブに見えるけど、主語を全人類にするととたんにディストピアに見えてくる。

高井:バイオバッグを作った人たちも最初は生殖医療のところからスタートしているから、別に「全人類の女性の子宮を開放しよう」なんて思ってないよね。描き方で勝手に主語を大きくして「行き着く先はディストピアか?」って騒ぎ立てている感はある。

林:例えばヘテロセクシャルじゃない人たちが当事者同士のコミュニティ内でマッチングすることに対して、コミュニティ外の人が口出しする権利も必要性もないのに、「同性愛者のコミュニティが世界中に増えたら子どもが生まれなくなって人類は滅亡する!」って騒ぐのと一緒だよね。

高井:夫婦別姓の話とかね。その二人が別姓になることで直接的に被る影響なんて全くないのに、「従来の家族観が崩壊する!」みたいな。

林:センセーショナルに注目を集めるって意味では、絶対的に主語をでかくしちゃったやつの勝ちだよね。

佐々木:「自分じゃなくて社会がこうなるから」みたいな話にしちゃうってことだよね。

高井:「自分が嫌だから」っていうのは言う権利があると思うんだよ。だけど「俺は別にいいんだけど、社会が黙ってないと思うんだよね」っていうのは、安全地帯から石を投げる感じがある。

林:逆だったらいいよね。「社会は許しても俺は嫌だ」の方が。

高井:そう、そういう主張ならむしろ聞きたい。

「資本主義の限界」問題

浅見:それはすごく理解できたし納得したんだけど、じゃあなんでそういう書きぶりになってしまうんだろう?主語を大きくしすぎずに適切な主語に切り分けて論じた方が本当は世のためになるのに、なんで人類の危機みたいに煽る方が本が売れてしまうんだろう?

高井:資本主義だからかな。主語を大きくすればするほど、自分にも関係あるかもって興味を持つ人が増えるから。

浅見:それは分かるんだけど、結局僕らが読んで違和感を覚えたように、読者が受け取るメッセージと著者が本当に伝えたかったことが乖離する可能性があるよね。著者的にはそれでいいのかな?

高井:当然、著者が意図したものとは違う形で伝わっちゃうリスクはあるけど、議論を巻き起こすこと自体が目的かもしれないし、売れればなんでもいいって場合もあるのかも。

浅見:クライアントワークでもそういうことってあるよね。真っ当にリサーチしてアイデアを提案するのが正しい姿ではあるけど、一方でそれだと求めているターゲットボリュームに届かないからもっと広げてくれって言われるみたいな。

林:この本で取り上げられているテクノロジーやプロダクトも、結局は資金を集めないといけないから、分かっていても「ターゲットは全人類女性です」って言わないと集められないんだと思うよ。

佐々木:それは確かに資本主義の問題だね。

高井:結局、ここにも「適切なサイズ」ってものがあるんじゃないかって思っていて。資本主義って常に右肩上がりの成長を続けるって前提の信仰だから、スケールは大きければ大きいほどいいってなると、突き詰めた先ではいずれは全てが必ず適切な範囲を超えてしまうことになるよね。

佐々木:会社組織でも「社員が150人を超えると効率性や結束力が下がる」って言われるけど、大企業だと「3年後には5,000人を目指す」とか普通にあるし、それって何人になったらゴールなんだと。

林:資本主義は人口の増加スピードに影響される部分があるから、平準化していずれ人口増加が止まると経済成長も止まるってことになってるんだけど、結局投資側の方が強い構造は変わらない。そこから離れるなら、ある程度資本を持った上で都市国家くらいのサイズに閉じれば生きていけるかもね。

浅見:前にMITメディアラボ元所長の伊藤穰一が「日本はもう競争ゲームをやめて足るを知る方向に行った方がいい、成長よりある範疇のなかでいかに幸福度を高めていくかを考えるべき」って言っていたのを思い出すな。

高井:今の日本の話だと、何が保証されるべき「最低限の文化的な生活」なのか、どういう生活水準だと幸せなのかっていうKGIの設定はないじゃん。その設定がないまま経済成長だけをゴールにすると、ゴール自体がずっと遠ざかっていくから常に未達にしかならないよね。

林:資本主義のゲームから降りるにしても、完全に自給自足で国内経済だけで国を回していくには日本は大きすぎるんだよね。

「理解する」ではなく「面白がる」

林:つながり問題に話を戻すと、物理的なつながりとネット上のつながりは混同しない方がいいと思っていて。野村さんのユナイテッドみたいに、全世界から共感する人がネットでつながるのはいいケースだけど、ローカルなつながりは物理的な反撃可能性と不可分だから、そういう危険性はある。村八分じゃないけど、小さいコミュニティを作れば作るほど濃度も高くなるし、離脱もしづらくなるから。
昔はつながらないと生きていけなかったから、無理にでもコミュニティの方向性に合わせざるを得なかったけど、その上にネット上のレイヤーでもつながりができるようになった。それで趣味の合う人も見つけやすくなったけど、文句も言いやすくなったみたいに、それはそれで良いことも悪いこともあるけど。

佐々木:前に会社を辞めた子がいるんだけど、その子が退職の挨拶も兼ねて上司と飲みに行って「どうしても合わない人がいたんですよね」って話をしたら、上司から「もっと相互理解しないと駄目だよ」って言われて、全然理解ができなかったんだって。

浅見:「相互理解しろ」が理解できなかったんだ。

佐々木:でも、前に雑談で俺がその子に言った「その人の個性とかムカつくところも、もっと面白がればいいんじゃない?」って言葉は腹落ちしたんですよね、って言ってて。他人は自分と違う存在だから理解はできないけど、つながる態度として「面白がる」っていうのはもしかしたらあって、みんな真面目すぎるのかもしれない。

高井:確かに、「つながりのサイズ」って話もあるけど、「つながり方の態度」って観点もあるな。自分とは違う他者に対して「理解できる」って思いながらつながろうとすると、そりゃ「なんで理解してくれないの?」ってお互いにコンフリクトが起こるよね。

佐々木:そうそう、もうちょっとだけふざけた態度で関わることで、コンフリクトしない心地よいものが生まれる可能性がある。

高井:理解し合えない、他者として面白がる態度で接するってことが「適切なつながり方」なのかもしれない。

林:今度また海外にフィールドリサーチに行こうと思ってるんだけど、最近そういう刹那的なつながりにはすごく興味があって。その場だけ一瞬部活やるみたいに盛り上がって、でも大抵の人とはもう二度と人生で会わないかもしれないっていうの、結構好きなんだよね。

浅見:それ以上無理につながらないってやつね。

高井:さっきの「友達つくるの難しい」問題にもつながるけど、未来にどういう関係性になるかなんて分からないじゃん。分からないのに、最初から「何年も続く友達になろうよ」っていう期待を持って接すると、お互いの期待値が違ってうまくいかなかったりするけど、「二度と会わないかもしれないけど、この一瞬は同じ目的のために楽しく過ごそうよ」っていう期待値で接する方が、逆に長い関係性が築けるかもしれない。友達のなり方ってそういうもんだよね。
つまり「干渉しすぎ」問題って、相手に勝手に過大な期待をするっていうところが根幹なんだな。

林:紹介してもらって期待値がある状態で飲みに行って、結局ちょっと違ったなって残念な感じになるより、そういう期待値なしでふらっと飲みに行って、たまたま面白い人に会える方がいいよね。

浅見:そういう機会に遭遇できる確率はめちゃくちゃ低いけどね(笑)。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?