父という余分なもの

「父」という存在は「母」の配偶者であることを、その存在の拠りどころとしてしか、実感できない存在です。母は「受精」「懐妊」「妊娠」「出産」という経験をともないますが(受精・懐妊は後からわかるのですが)、父は母の膣内に、気持ちよくなって射精するだけの存在でしかありません。だから、「父だ」という確信を自律的にもつことはできないのです。

男が父親になるためにはまず女から持続的な配偶関係を結ぶ相手として選ばれ、次にその母親を通じて子どもたちから選ばれるという、二重の選択を経なければならないのである。どちらが欠けても父親になれない。出産・授乳という行為をもてない男にとって、自分の意志だけでは親になれないという宿命がある。 

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たとえば、私たちは「地動説」によって説明されている世界に生きていますが、地球が太陽の周りをまわっていることは実感できません。実際、「陽が昇る」とか「陽が沈む」などという言い回しを使っています。

本来、太陽中心=地動説では、地球中心=天動説=自己中心説の弊害を回避できるのですが、実感として天動説が支配しているので、自己中心にとらわれる、ということも考えられそうです。

だから私たちは、「父」「地動説」というフィクションをもつ世界に生きている、といえそうです(動物、もしくは生存には、そのような認識は必要ありません)。

そこからみれば、皇位が「男系継承」されているという現象が、興味深いものとなりそうです。「皇位」と「男系」がフィクションという接点でつながれているのです。それに対して、女性は「懐妊」「妊娠」「出産」を経ることで、事実=ノンフィクションとしての関係により継承されることになります。皇位というフィクションが父というフィクションで根拠づけられる、これが近代以降の皇統の倫理性の支えとなった、と言えばいいすぎでしょうか。

「父という余分なもの」をもつことで家族、そして家という「フィクション」が維持できるものとなりました。

「与える分配」は、人類が熱帯雨林を出て生息域を広げはじめたころにはもう実現していたのではないか、と私は推測している。 

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出産・授乳をになう母のもとへ、食物を運ぶ父という存在と共存することで、生存(子孫を残す)に有利な条件として、継続的な配偶関係が結ばれる必要があった、とはよく言われていることです。

そして、それはやがて、「自我」という認識をもつこととなるでしょう。三浦雅士との対話のなかで、山際はこう述べています。

ボノボは乳をやりながら発情する。つまり、子どもに対しては母親として接しながら、オスに対してはメスとして接する。これができるのはボノボと人間だけです。チンパンジーやゴリラにはできない。しかも、現代人はさらにたくさんのパーソナリティを使い分けている。逆説なんだけど、たくさんのパーソナリティがあるからこそ、自我があるんですね。

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たくさんのパーソナリティがあるからこそ、自我がある、ということは説得的です。自我がなければ、アイデンティティを保つことができませんし、アイデンティティを保つことができなければ、たくさんのパーソナリティを使い分けることなどできません、別人格として存在するしかなくなるのかもしれないからです。

父という存在が必要とされたことから、パーソナリティという役柄が生まれ、アイデンティティ・自我というフィクションによってそれらが可能になった、とはいえないでしょうか。

山際寿一『父という余分なもの サルに探る文明の起源』新潮文庫2015

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