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絵を上手に描けるようになるより大切なこと

娘(6歳)の保育園で、感謝していることがある。
その一点を取り出しただけでも、この保育園に通って良かった、と思うほどに。

親になって思うのは、なかなか保育って見えない、ということ。送るのが少しでも早くなったり、迎えが少しでも遅くなると、担任の先生にすら会えないのだ。担任の先生に会えるときは、なるべく一言二言会話ができるといいなぁと思うが、サラッと、ただただ元気かどうか言い合うだけのとも時ある。
元気に行って、帰って、来るのはなによりだ。
でも、幼児クラスになって連絡帳もない中、先生とどんな会話をしてるのか、どんな保育がされているのか、叱られたのか、褒められたのか、張り出したクラスのいち日ではそこまで見えてこない。

で、廊下に子どもたちの絵が描かれている。新しい絵が飾られているとお迎えの時に娘と一緒に見る。
年長さんともなると、みんな描きたいものがはっきりと分かる。
クレヨンを描いた上から、絵の具を塗ったはじき絵。海を描く子が何人か。違うものを描く子もいる。魚を描いた子たちでも、その魚の描き方が個性的なのだ。
娘が、「〇〇ちゃんは、おっきいサメを描いてるんだ」「〇〇くんは、海の上まで描いてたんだよ」と、とても楽しそうに話してくれる。
魚がすごく小さく描かれているのもあって、「どうして、この絵はみんな魚が小さいのかな」と、いったので、「きっと、深くて広い海の絵なんじゃない」と話したら、「ホントだ。ふかーい海に見えるね!」と娘も目を輝かせた。

その会話で、娘がどんな絵も肯定的に見ていることが伝わってきた。
「〇〇くんは絵がシャッシャッってスジスジの絵を描くのが、面白い」
「〇〇ちゃんのこの魚が可愛いよね」

誰がどんなものが好きで、どんな描き方で、どんなふうに描いたのか、伝えてくれるその時に、否定したり、比べたりする発言が一切ないのだ。

それは、きっと保育園の絵を描く時間の中で、「魚はこう描きましょう」などと強制されず、作品を一切否定したり、誰かと比べたりされていない、ということだ。
もし「お魚ちっちゃすぎるよ」なんて言う大人がいたら、きっとその子が間違ったと思うだけでなく、周りの子が(そういう言い方をしてもいいんだ)と思ってしまうと思う。
魚を描きたくない子まで「描きなさい」と言われたら、描かなかったら“描けない子”になるけど、「恐竜好きだもんね」と言われたら、“恐竜を描きたい子”になる。

その子の中から出てきたものが、そのまま表現になって、それをみんなでいいねぇと見る。
当たり前だけどとっても大事なこと。
表現を評価されていないこと。

それがのびのびした絵に表れていて。
そして、子どもたちにそのスタンスが、伝わっている。
大人がどんな見方で、子どもたちに関わっているかは、子どもたちのお互いの関わりの学びになっている。

下手、上手い、ダメ、良い、そんな言葉で他の子の絵を見る子にならなかったのは、先生方のおかげだなぁ。
本当に感謝している。


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