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根無し草の言葉

先週末、実家のある高知に帰省した。
毎年一回は帰るようにしているのだが、その度に感じる心の疼きのようなものがあって、それは年々増しているような気がする。

それは、言葉の問題だ。

町を歩けば、店に入れば、そこかしこで交わされる郷里の言葉と訛。
けれども、東京で暮らし始めてもう二十年以上経つ俺の言葉からは次第に土佐弁の色が剥落し、今では見知らぬ地元の人達と話してみても郷土人だとは気付いてももらえない。
それが何だか悲しくて、郷里に帰ったときぐらいは努めて土佐弁を使って話そうとする。

だが、上手く話せない。

文字列だけで言えば、どう言えばいいのかはわかる。けど、それがスムーズに発音できない。抑揚や強弱の付け方もわからなくなる。
そもそも、そんなことを意識しなければならない時点で、それはもう俺の言葉じゃない。外国語を使って話すときのように、ある種の被膜によって心と言語とが隔てられる感覚。

その傾向が年々強くなる。
無理もない。一年に一度、三日程度しか話さない言葉なのだ。
ただ、その現実は郷土人としての俺のアイデンティティが希薄化しつつある事実をはっきりと突き付けてくる。
それが何だか悲しく、寂しい。今は室生犀星の詩句が心に沁みる。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの



己の話す言葉における方言の褪色を自覚し始めたのはいつからだろうか。

大学時代は、周囲の友人の多くが地方出身者で、しかもそれぞれに自分の方言でコミュニケーションを取り合うという混沌とした言語世界に身を置いていたため、なかなか方言が抜けなかったように記憶している。また、県人寮で生活していたこともあり、土佐弁がまだ身近に息づいていた。
もちろん、郷里と繋がる根が細くなった以上、方言の希薄化がゆっくりと進行するのは避けられなかったはずだ。けれども、その時はまだ帰省した際の戸惑いや言語的な不自由さを感じることはなかったように思う。

やはり、方言が急速に失われていったのは社会人になってからだろうか。
仕事では標準語を話す人達との会話が圧倒的に多くなり、そこで初めて土佐弁を話す自分の異質性をはっきりと自覚するに至ったと言えるかもしれない。
その感情は必ずしも「恥」の意識ではなかった。単に、「浮いているな」という程度の違和感だった。だから、自ら方言を使わないように心がけたり、進んで標準語を学ぼうという意識が芽生えたわけでもない。また、周囲の人がそれを俺に対して求めたわけでもない。

それでもただ何となく、自然にまかせて方言は風化していった。

そこに止めを刺したのが、日本語教師としての仕事を始めたことだろう。
学生と話したり日本語文を音読したりするときには、土佐弁の言い回しはもちろんのこと訛をも極力消去しなければならない。
俺は初めて標準語というものを学び、意識し、能動的に用いる必要に迫られた。そして、そうした言語環境が現在の生活の大部分を占めている。



じゃあ、今の俺が自然に話せる言葉は何なのか。

最早それは土佐弁ではない。それは明らかだ。
そうかと言って、標準語でもない。方言の言い回し自体は取り去ることができたとしても、訛までを完全に消し去ることは難しい。
土佐弁に限らず、四国の方言の訛は関西圏の影響を強く受けているように思う。それで、言い回しだけを標準語化していくと「エセ関西弁」のようなものが出来上がる。そして、俺の出自を知らない人からは大体「西の方のご出身ですか」なんて訊かれることになる。
だからといって関西弁を話していることにもならない。東日本に住む人はざっくりと「関西弁」を一括りにして捉えがちなのだけど、大阪と京都では言葉遣いがそれなりに違うし、同じ府県の中でも地域によってさらに細かい差異はあるはずだ。結局、方言というものを生まれ育った土地から切り離して考えることはできない。
つまり、土佐弁から固有の語彙や言い回しを取り払っただけの言語はいわば、「どこにも存在しない関西弁」のような趣を持つことになる。東日本に住む人からは「関西人?」と思われたとしても、当の関西人からすれば「どこの人?」といった印象だろう。あるいは、単にお笑いタレントなどに感化されて関西弁を真似ようとする、それこそ「エセ関西弁」の使い手と思われるかもしれない。

そう、今の俺は自然に扱える自身の言葉を持たない。いや、情報を媒介する記号としての言語は扱えたとしても、自らのアイデンティティを証明してくれるような言葉を持たないという言い方が正しいだろうか。ともかくも、誰と話すにしたって、今の俺の頭は会話のモードを意識せずに発話することが難しくなっている。
もちろん、俺のような地方出身者の多くは同じような言語的境遇に置かれているはずだ。その誰もが同じようなアイデンティティの喪失を経験し、意識しているわけでもないのだろう。
けれども、残念ながら俺は日本語教師で、人が使う言葉について鋭敏でいなくてはならない。己の使う言葉に自覚的でなければならない。そのことが、俺を過剰に苦しめている面はある。

他の人がどうなのかは知らない。ただ、少なくとも俺自身はこの先死ぬまで、どこの土地にとっても「余所者」なのだと感じながら生きていくことになるだろう。
それを絶望とまでは言わない。地域を越えた人の移動が当たり前になった現代において、そうした境遇はむしろほとんどの人に訪れる普遍的なものなのだから。

ただ、土地と切り離される悲しみや寂しさといった感情がどうしようもなく付き纏う。その感情は合理性とは全く無縁の御し難いものだ。
それを抱えずに生きていける人間とそうでない人間とがいて、俺はたまたま後者に含まれる。

それだけのことだ。

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